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江戸の屋形船

江戸の町が明暦(1657年)の大火から復興して、景気も良くなってくる17世紀後半頃には裕福な町人たちが経済力をつけ豪華な屋形船を競って造り川遊びをするようになってきた。それは長さが70~80尺で十間もある大型屋形船もあったという。

しかし将軍が綱吉にかわり寸法規制がかかる。上口長さ27尺(8.2m)・幅4.6尺(1.4m)・屋根高さ5尺(1.5m)と定められてしまった。このサイズではたった二間しか取れず、三畳と二畳の合わせて五畳敷しかとれない貧弱な屋形船になってしまう。

ところが規制は緩むもので、18世紀初頭に作られた関東河川での川船に関する文書で川船奉行所が徴税対象の各種川船の船型確認の手引書として使っていた「船鑑(ふなかがみ)」に掲載されている屋形船(下の図)の絵には右上に「上口凡(およそ)二丈七八尺ヨリ五丈位、ヨコ八九尺ヨリ一丈四尺位 但先年ハ長七八丈、横一丈五六尺迄有之、当時ハ無之」と情報が記載されている。

当時の川船は一般的には上口長27尺~50尺(全長32f~60f)だが長さ78尺、幅15~16尺(全長90f)の大型の屋形船もあったとある。 
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図の船体の上口長さを四十尺(全長では48f位)として屋形寸法は長さ二十四尺、最大幅十二尺程度、座敷の広さは表から順に六畳、四畳、六畳の十六畳敷きとみられる。

時代は下り、豪華な遊山船の屋形船は少なくなり、代わりに手軽な屋根船が増えてきた。19世紀初めには江戸に500艘もあったという。

江戸っ子の川遊びは5月の両国の川開きから始まるのだろう。当日は日没から花火が打ち上げられ両国橋は人で一杯になり川面には大型の屋形船や中型の屋根船、小さい猪牙船まで数多く集まり、船上の大宴会組も橋上の大観衆も花火に熱中する。
花火見物船は乗合、貸切もあったのでしょうが、こんなに大イベントに予約を取るのは当時でもきっと大変だったと想像します。でも自家用船ならば予約はいらず好きな場所でゆっくりと見物できるので費用は掛かってもお金がある人には気分がいいものでしょうね。

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東都両国ばし夏景色 橋本貞秀 (19世紀中頃)
橋の川上、川下に10隻ほど停泊している唐破風などの屋根を持つ、大きな船が「屋形船」です。

最近、「黄金期の浮世絵 歌麿とその時代」という展覧会を見てきた。その描かれた時代は18世紀後半から19世紀初頭の頃だった。浮世絵の江戸美人も結構でしたが、ボクは背景に描かれた川船に興味があった!

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喜多川歌麿 両国橋 船あそびの女たち(18世紀末)
女性が乗っているのは屋根に唐破風がないので屋形船ではなく屋根船。画像右端の橋脚の向うに屋形船「河一丸」が見える。ちょっと気になるのは橋脚と橋桁の結合部のカスガイだ。こんなに頼りない方法で留めていたのかな?

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闇牛斎 円志 隅田川料亭図 (18世紀末)

川の左に屋根から竿をさす船頭がいる屋形船「川一丸」と右の櫓を押す屋根船が描かれている。

※上口長さとは、水押際から戸立までの長さ。又は舳船梁から艫船梁までの長さ。


参考資料:和船Ⅱ 石井謙治著

by pac3jp | 2014-02-14 16:40 | 歴史・民俗  

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