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姫路のお殿様の豪華ヨット?(2)

 
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封建体制の中で180年余も姫路藩主の御座船として働いてきたが、明治維新の廃藩置県で姫路藩はなくなってしまった。明治初年には姫路藩のお船手組があった飾磨港付近に置かれていたようだが、まず高砂の川本氏の邸内に移築され、船框から下を継ぎ足して茶室として使われていました。この時の残存部分は「おもて(船首側)」からの二室分のみで、屋根を桟瓦で葺いているなど、船屋形としての影はほとんどとどめていない状態でした。

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その後、昭和16年に神戸市垂水区舞子の牛尾邸の敷地内に再び移築されました。この移築の際には、失われた「次の間」を付加して現在の上下三室構成とし、間仕切りを復旧し、屋根を桧皮葺に改めるなど、各所にわたり復原をおこない、もとの船屋形の形態に近づける努力が払われました。

三度目の移築は昭和55年のことで、昭和53年に前所有者の牛尾吉朗氏より神戸市が寄贈を受け、現在の相楽園内に修理・移築されました。

現存する船屋形としては熊本の細川家が参勤交代に使っていた海御座船の船屋形の一部が残っているのと、香川県宇多津町の西光寺境内に多度津城主の御座船の一部が船屋形茶室として1棟が残っている。

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細川家 波奈之丸舟屋形
ベースの船体は喫水のある軍船である関船を豪華に飾り立てた海御座船だ。もちろん河川や浅い海域では運用できない。今は熊本城小天守閣1階に展示されているのは御座船「波奈之丸」の御座所部分です。。
詳しくはここをクリック。

海の大名行列
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「帰国する藩主を乗せて豊後鶴崎に入る熊本藩の船団」という大絵馬(1798年)があります。
左手の大きな船が大櫓46挺立ての海御座船波奈之丸です。万延元年(1860年)の帰国の際には波奈之丸以下123艘が船団を組み、船頭、水主、水夫総勢2563人が藩主一行1186人を運んでいます。
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西光寺船屋形茶室 (香川県宇多津町)

江戸時代末期に建造した旧多度津藩藩主の御座船と伝えられる船屋形です。
由来については定かでないが元治元年(1864)に船下しした六二艘立の「順風丸」とする説や三十五反帆を誇った海御座船「日吉丸」とみる説などがあってその伝承も一定していない。
詳しくはここをクリック。

ボクは最初、姫路のお殿様が河川で遊覧した豪華ヨットかなと思っていたが、姫路付近で90フィートもある大型船を乗り回せる川はないので河口か瀬戸内沿岸で使われていたのかもしれないが、常時は大坂で船蔵で保管され15万石の格式を見せるために参勤交代用にのみ使われたのかもしれないなぁ。当時の弁才船の寿命は20年~長くて30年位だ。それに比べて180年も持ったということは殆ど使われなかったか、維持管理に十分にお金を掛けられたかだが、多分、前者だったのでしょうね。

姫路の歴代城主に派手で遊び好きなお殿様はいなかったのかと探してみるとこんな記事をウィッキで見つけた。

1704年に再入封した榊原家は本多忠勝と並ぶ徳川四天王の榊原康政を祖とする譜代の名門で、3代30年以上にわたって姫路藩15万石を領したが、寛保元年(1741年)第8代当主政岑は将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけった。寛保元年春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれている。これは尾張藩主徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買い、藩主隠居の上榊原氏は豊かな西国の姫路から内高が少なく実収の乏しい北国の越後高田15万石に懲罰的転封されてしまった。

・・・と出てきた。将軍おひざ元の江戸で吉原遊郭の花魁を身請けするというほど筋金入りの遊び人なら江戸でも地元に帰った時にも榊原家の紋の入った専用ヨットで存分に川遊びを楽しんだ事は十分考えられるなぁ。


参考資料:日本の船 和船編 足立裕之著
      

by pac3jp | 2014-02-02 16:23 | 歴史・民俗  

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