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熊本・八代海の打瀬網漁

 白い帆に風を一杯に孕んだ打瀬船が海に浮かぶ景色は日本の海の原風景のように思いますね。
 そんな風の力で網を引く打瀬網船は、かって漁船に強力なエンジンが積まれていなかった時代には日本全国で行われていた。しかし、Webで検索するとあちこちで打瀬船イベントとしてはあるようだが打瀬網漁業としてはもう北海道と九州・八代海だけの2ヶ所になってしまったという。

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 先日、NHKテレビで八代海・芦北漁港で「みようとぶね」の打瀬船を取材した番組があった。帆走漁船の生き残りでもあるのでヨット乗りとして興味深く番組を見た。

c0041039_10575315.jpg ボクが持っていた打瀬船のイメージは古い写真や模型から、長さは凡そ35尺、長めのバウスプリットと2本マストのジャンク風のリグで当然風上に上れる帆走性能を持っていると、思っていた。その例として98年前の1912年、愛媛の漁師たちが帆走打瀬船でアメリカに密航したこともあった。(下記の関連記事参照)

 映像で見る現在の打瀬船は、長さは随分大きくなって長さ50尺、4本マスト、特別に長い伸縮式のバウスプリット、運航用のエンジン、漁場で網を横に曳く追手専用の大小の帆、セールコントロールと網揚げ兼用の動力ウインチがある。それは昔の打瀬船から上り性能を切り取り、その分網を曳く機能を向上させているようである。操業の様子を見ると、6枚の帆を風の強弱で調整するのは大変そうで、ちょっとしたレーサー並みのチューニングをしている。まぁ、これが直接漁労の成果に結びつきますからね。

 この付近の4つの漁港に31隻の打瀬船がエビを獲る操業していて、この芦北漁港には23隻の打瀬船があり、世代の継承もでき若手が乗る船もあるという。

c0041039_1103770.jpg 底曳き網漁船はボクのホームグランドの大阪湾でも、重い網を一日中引き回し、燃料の消費も大変だろうし、それに重負荷で高価なエンジンの寿命も早いのだろうと他人事なのに心配してしまう。
 その点、ここの打瀬船は風と潮など自然現象に大きく影響を受けるが、地球環境に優しい本当にエコな漁業である。昔から行政や関係者間で漁場の規制などがきちんとされてきたのでこの伝統的な漁法が現在まで残ったのでしょうね。

 エコな漁法といえばこれも昔からある瀬戸内海・備讃瀬戸の「こまし網漁」がある。潮流の早い備讃瀬戸の真ん中で網船を止め、大きな口を開けた網を潮で流し、潮流に乗ってくる魚を獲る。漁師さんは転流まで昼寝をしていれば良いのだ。

 漁師さんにとってはエコな漁なのだが、シーズンになると航路付近はこまし網のブイだらけ、機走力の弱いヨットにとっては大変な緊張をしいる漁法だと思っている・・・。
 一方、セーリングで操業中の打瀬船は機帆走のクルージングヨットでも充分に避けられる速度ですので、八代海をクルージングした時にはお仕事の邪魔をしないように見学でもさせてもらいましょうかね。


【関連記事】1:95年前に太平洋を帆走で渡った男 
【関連記事】2:こまし網って知っていますか 
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by pac3jp | 2010-01-19 11:04 | 漁船  

広島・豊島の家船(えぶね)

 ボクは前から広島・豊島の「家船」(みょうとぶね)に興味があって、一度は彼らの母港に入ってその家船も詳しく見たいなと思っていた。

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 ところが12月上旬、NHKで、こんなステキなにっぽん「豊饒の海 家船の暮らし」という番組に海洋冒険家の今給黎教子さんが出演するドキュメンタリーがあった。

 昔は豊島から多くの家船が家族と共に魚を追い長い旅をしていたというが、今は「みょうとぶね」で旅の漁をする家船はごく少なくなっているが、そんな家船の一隻にヨット乗りの今給黎さんが乗船し2泊3日の旅をした。

 テレビに映る海域は時々クルージングで訪れるので島々に架かる橋など記憶にある景色もある。漁はタチウオの延縄で大漁だった。1日目の泊まりは呉港だった。そして2日目は倉橋島の室尾の浮桟橋に仲間の漁船を横抱きにして船をつけた。

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 桟橋から自転車を下ろしてこれからお風呂と洗濯とお買い物だという画面がある。この港は旅の漁船が必要とするものがすぐ近くでそろっていて便利な港だとおっしゃる。歩いて5分の場所に古びてはいるがちゃんと銭湯がある。なじみのお宅で洗濯機をお借りする。帰りに日用品や食料のお買い物もできた。

 見ているとボクたちのクルージングにそっくりだ!!
乗っている漁師さんご夫婦の年頃も似ているなあ。大きく違うのは昼間に稼いでいるかいないかの違いだ。しかし、このあたりは大きく違うけどね。

 ボクは倉橋島では「くらはし海の駅」の桟橋には数回泊まったことがある。そこは銭湯はないが立派な温泉施設と博物館、きれいな桂浜など観光施設がありヨットやボートで観光するお客さんには便利にできているが少し料金は高めなのがなぁ・・・。
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 今度行くときは家船が泊まっていた浮桟橋に行こうとしっかりと番組を見ておいた。番台のおばあさんがご高齢なのが気になるが長く元気で暮らしていてくださいね。

 「みょうとぶね」の家船で長い旅をする漁船はもう少ないらしいが、シングルハンドで旅をする漁船はどこの港にもいる。8月には徳島の日和佐で舫いをとってあげた漁師さんは宮崎から来ているといって少し寂しそうな雰囲気だった。

 数年前、枕崎で晩飯をご一緒した高速艇を持つ旅のカツオ漁師は五島・玉之浦の温泉にもちゃんと記名した洗面器が並んでいた。彼は小声で「実は中国に彼女を置いている」といい、しっかり働いて奥さんへの仕送りと彼女の元に通う資金を稼がなくてはと言っていた。動機に不純な部分はあるが研究熱心で行動力もあるので、存分に人生を楽しみながらシングルハンドの漁師を多分今でもしていると思う。

 まぁ、色々ありますが、ヨットのクルージングでは元気な奥様か、独身の場合は美人で素直でパワフルなパートナーが一緒だときっと楽しいし旅ができるはずですよ(沖縄にいらしたなあ!)、奥様を、そして彼女を、と、色々と手を尽くして「みょうとぶね」どうですか、と誘ってみたらどうでしょうかね。


【関連記事】1:「みょうとぶね」と浮鯛抄(うきだいしょう)
【関連記事】2:クルージングヨットのクルーについて 
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by pac3jp | 2009-12-24 17:19 | クルージング  

昔の漁船が使っていた碇(レプリカ)

 現在は船の錨と言えば金属製でもっぱら鉄で造られたものが普通だが、近世までの日本では鉄は砂鉄から製鉄されていて結構高価な素材だった。従って近世当初は多量の鉄材が必要な錨などはかなりの資力がある領主の船舶や裕福な商人の大型商船しか購えなかったらしい。

c0041039_1641849.jpg 江戸時代の物流に大活躍した、菱垣廻船や樽廻船などの弁財船(千石船)は大小合わせて八本の四爪錨を装備していたと言われている。大阪港のなにわの海の時空館にある復元船「浪華丸」の一番錨は80貫(300kg)もある鉄の錨である。以下、番が一つ下がる毎に5貫目軽くなり画像の立っている七番錨は50貫(188kg)ある。

 一方、昔から沿岸で漁をしていた舟は今も使っている鉄と木を組み合わせた唐人錨などを積んでいたのだろうか、あるいは昔ながらの石の碇を使っていたのだろうか、どっちだろうかと前から思っていた。

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 今年のクルージングでは種子・屋久~奄美・沖縄までの博物館や郷土資料館で地元の漁業に関する展示の内「イカリ」に注目して見て来た。そこでは大昔の刳り舟の時代から、サバニやイタツキ船などが小さいエンジンを搭載する以前は、沿岸で漁労をする小舟の碇は石と木を組み合わせたもの、あるいは綱を取り付けやすい穴をあけた丸い石、石を網袋に詰めたものなどであったという。

c0041039_1685537.jpg 碇のレプリカを見ると現在の漁船のバウに載っているアンカーも素材が木からステンレスになっているが同じ形をしている。岩場やサンゴ礁に引っ掛けて船を止め、もし外れなければエンジンパワーで引けば爪が伸びて岩から錨が外れる。原理は一緒だが昔の木の爪の方がサンゴ礁には優しそうだなぁ・・・。

 そう見ると小型の沿岸漁船が唐人錨などを使うようになったのは鉄が大量生産で安くなった事もあるが多くの漁船がエンジンを搭載し、今までより沖合いで漁をするようになり効率の良い錨が必要になってきたからだろう。

そして、石と木の碇はそこで有史以来の長が~い寿命が尽き、やっと博物館入りしたわけだ!

【関連記事】:古い碇
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by pac3jp | 2009-08-17 16:21 | アンカー  

「みょうとぶね」と浮鯛抄(うきだいしょう)

 小型貨物船や漁船それにヨットでも夫婦二人だけで乗っているのは「みょうとぶね」と呼ばれている。ボクも短期間の経験はありますが中々良いもんです。「みょうとぶね」がよそのフネと喧嘩しているのも見たことないし、確かに大人しいフネにはなるようです。

 ボクの愛読書、「スピン・ナ・ヤーン」のなかでも自由漁民として西日本一円にその名も高い広島県豊島の「みょうとぶね」が語られている。

 船首にテントなどを張った特徴のある家船(えぶね)で 彼らは単独か、多くて3~4隻の船隊を組んで遠くは五島や壱岐・対馬まで出漁する。漁法は延縄か一本釣で大ぜいで来ることもないから漁場の争いも聞いたことがない。

 一夜の泊まりを求めて見知らぬ漁港へ入っていくと、地元の船の混み合わない、それでいて安全な一隅に「みょうとぶね」が二、三隻ひっそりと泊っている。寄せていって声をかけると、「ああ、 ここはええよ。 ともから錨入れて前の岸壁に鼻付けしたらええ。 うちの船の隣へ来いよ」おおきに、と言っていったん離し、錨をいれフェンダ-を吊るして寄っていく。船頭が綱を取ってくれる。
 このあたりでおかみさんの方も顔を見せて係留を手伝ってくれながら、「あんた、どこからおいでたん? ひとり? さびしいねえ。 とうちゃん、うちアナゴ活けとったやろ、あれ少し、このひとにわけてあげよ」 「ありがたいなぁ、でもあんたら、せっかく釣ってきたんじゃけん、これ少しじゃけど取っといてよ」「いやいや、これは売り物じゃない。 金くれるんじゃったら魚やらん」と、心温まるやりとりがあった・・・。

 著者は「この人たちの暮らしを見ていると、日本の海辺の文化の原点を見る思いがする。そして、もともと私たちはみな、こんなに開放的で人懐こい心情を持っていたのだろうと今更のように思うのだ 」と述べている。(この文章には写真が付いていてボクもその場所で泊ったことがあった)

そんな自由漁民の原点はそう遠くない所にあった。

 その家船(えぶね)の発祥の地が広島県三原市の能地だとされている。芸予諸島・大久野島(毒ガス島)の対岸、今は大きなクレーンご目立つ幸陽ドックがある辺りである。またこの地にはかって、浮鯛現象が見られた。この浮鯛現象は「初夏の大潮の日に、あまりの急潮に浮き袋の調節が出来なくなった鯛が群れをなして海面に浮かび上がってくること」で日本書紀にも記述がある大昔から有名な現象だった。

 古くから瀬戸内海には漂泊の漁民がいた。陸に住居がなく家族が家船で漂泊しながら漁労をし、末子相続で流れ着いた全国の海浜に枝村を増やしてきたという。
 沿岸の漁業権を持たない家船の民は漁業権の及ばない沖合いで漁をし、女たちはその付近の町で売りさばくことで生計を立てていた。魚が捕れなければ死活問題なので、先進漁法の開発者はいつも家船の民だった。そして、そんな新漁法を地元漁民に教えることで共存してきた。

 そんな家船の民が遠くの海で漁をするさい浮鯛抄という巻物を通行証明書として大事にしていたという。この巻物の写しを見せるとどの浦浜でも大目にみてくれて漁ができた。
 それには日本書紀の神功皇后伝説から説き起こし、本拠地の浮鯛話も絡ませ、神功皇后から諸国の浦浜での漁業権を認められ、かつ家船漁民は運上金を出さなくていいなどと彼らの由緒が書いてあるが、十八世紀の浦浜の漁民がこの巻物が読めたかどうかも問題ではあるなぁ。

 ボクは無理ですが、皆さん下の巻物、読めますか?

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 安芸の国豊田郡能地浦浮鯛は神功皇后この所に到ます時鯛魚多く御船の傍に聚しに皇后鯛魚に酒を洒き給へば魚即ち酔て浮ぬ時に海人その魚を獲て献る 
 又皇后岡にあがらせ給ひ東西の野を御覧じて左右のうちよきかな五穀豊穣べしと云ひしその所を号して能地といふ 
 その岡はいま八幡大神宮鎮座まします所といふ皇后この浦にて海神に幣を手向給ひ海へ流し幣の流れ寄りし所を浮幣といふ 
 今その所に浮幣社といふ小祠あり神功皇后と海神とを祭るといふ浮鯛の事は日本書紀巻第八に在り傅いふ
 その時海人浮鯛をすくひ清らかなる器もなかりしにより飯をいるる器に入て男は恐れありと女これを頭にいただきて献ると今に此浦の漁家の女は魚を市に鬻ぐに頭にいただきて歩く
 その魚入るる器を飯○というはその縁なりとその時皇后勅して此浦の海人に永く日本の漁場を許し給ふと夫故世々今に此所の海人は何國にて漁すれども障方なく運上も出す事なしといふ

豊田郡誌より

【参考web】:浮鯛祭り
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by pac3jp | 2009-01-30 15:46 | 歴史・民俗  

ヨットの漁労スペース?

 明石海峡を西へ抜けるクルージング途中、須磨や垂水の沖はいい漁場でいつも大型小型の釣り船の多いところだ。その中でロッドを突き出して本格的な曳き釣りをしているヨットもよく見掛ける。丁度、漁具を引く最適速度がヨットの常用速度にマッチしているのだろう。

 大阪湾奥の西宮沖では防波堤の釣りは盛んだが乗り合い船も来ないし、個人の釣り船も割りと少ないところだ。そんな海でもボク達がショートクルージングから夕方に帰ってくる頃、ハーバーをいそいそと出てゆく、船尾に幾つかの漁具が目立つ漁労タイプのヨットがいた。

c0041039_10173471.jpg ヨットマンは釣り好きも多く普通はフネにロットホルダーやタモ差し位は取り付けている。でも、釣り糸が絡み易いスティやデッキ艤装品も多く船足も遅いヨットでは本格的な釣りは不向きだと思われるが、ボートよりどうしてもヨットでなければと考えるヨット派アングラーもいるわけだ。そこでヨットで快適に釣りをする色んな方法を考える事になる。

 スターンに曳き釣りステーションを作ったヨットがいた。以前、タチウオ釣りに行くのを目撃したヨットだ。ヨットでは普通はコクピットの横とか後ろで釣具の操作をするが、ここはバックステイとか何かと障害物が多い場所だ。そこでこのオーナーさんはスターンのスイミングステージを専用の釣りコーナーにしてしまったのだ。左右のスターンパルピットから「立てたスイミングラダー」までパイプを続ぎ、落水防止の安全柵とした。ついでにこのステップに釣り糸の特製リールまでセットしてある。今はオフなので装備はセットしてないがシーズンに入れば漁具がフルセット取り付けられるのだろう。

ついでながらこの場所は安全な男性「おしっこ」にぴったりの場所にもなっているが、もし、落水した時はラダーが簡単に使えないからちょっと苦労するかもしれない。でも、別に非常梯子を用意しとけば良い訳で、大きなお世話でしたね。
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by pac3jp | 2008-02-15 10:22 | ヨットの艤装と艤装品  

95年前に太平洋を帆走で渡った男

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密航漁夫 吉田亀三郎の生涯 小島 敦夫著 を読んだ。

 ジョシュア・スローカム船長は1895年に自分の為にスプレー号で世界一周の航海に出たが、日本では個人が自分の意思で太平洋を帆走し、アメリカに渡ったのは1962年の堀江青年が最初かと思っていたが、1912年(明治45年)四国、愛媛の帆走漁船を使ってアメリカに渡った男たちがいた。

 彼らが、太平洋を渡ってアメリカに行こうとしていた1912年の時代背景はこうだった。
 日本では日露戦争が日本の勝利で終わり、日本人そして、軍が大陸に進出しようとしていた。また、北米では日本人の労働移住の制限が厳しくなってきていた。海洋ではタイタニック号が氷山に衝突して沈没した年でもあった。

 彼らは、船主で漁師の吉田亀三郎を始めとする5人が、1912年5月5日に持ち船で住吉丸という全長10mの「打瀬船(底引き網で漁をする帆船で、船体は伝統的な和船構造だが、水密の船倉が装備され、3本の帆柱に中国式の帆2枚を用いたもので前後のやりだしは取り外していた)」で愛媛 川之石港を出発、一路ワシントン州シアトル市を目指したが、76日後の7月19日、着いたところは目的地より南へ2千キロ離れた米国サンディエゴ市北郊のフラットロック海岸だった。

 やっとたどり着いた海岸で船が難破し、全員で北を目指して歩いていた所を通報されて移民局の係官に正式な手続きをせずに入国した疑いで逮捕拘留されてしまった。その後裁判をうけ、故国へ強制送還されてしまうことになった。
 (だが、翌年、東行丸で大圏コースをとり、カナダ中部沿岸に上陸を果たすことができた)

 彼らの目的はアメリカ、あるいはカナダで働くことだったが、規制が強くなり、密航するにしても通常の手段では渡航が難しくなり、かって、この宇和の海で培ってきた打瀬漁船とその航海技術をもって大きな太平洋を渡ってやろうと思い立ったのだろう。

 彼らに太平洋を渡れそうな船はあったが、安全な航海を保証する当時最新の航海計器は勿論ない。和式の羅針盤は持っていたようだが、正式に大洋の航海術を学んだ事もない。
 自己の判断と技量だけを頼りに生命をかけて行動を起すことこそ、人間にとって、真の意味で「勇気」と言うべきものである。そしてそのような行為こそが「冒険」と呼ばれるべきである。 
・・・とこの本の著者も言っているが、航海は推測航法と緯度高度航法でアメリカをめざしたようである。まず、愛媛から日本列島を北へ向かい、北緯35度の房総半島から北太平洋海流に乗り太平洋を渡り北緯47度のシアトルへと思ったらしい。だが、この海域でハワイまでは上りの風も多く、タックを重ねる内に船位を見失ったのだろうか、前述のように太平洋は無事に横断したが、目的地からかなり南に到着してしまう。

 この住吉丸の航海は、今知られている限り、日本人が個人の船で自主的に成し遂げた最初の太平洋帆走横断だったが、残念ながら、その時代が彼らを海洋の冒険航海者としては許さなかった。

 50年後の1962年 ヨット、マーメードで密航しきた堀江青年をアメリカ人は海の冒険者として大歓迎してくれたのだったが・・・。

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 ヨット乗りの読者の皆さんはキールのない和船タイプの漁船が、真上りの風が吹く太平洋を走れるのかと疑問があると思うが、船をヒールさせることで、チヤインがキールの代わりをするらしく当時の熟練の打瀬漁船の船頭さんはヨットと同じ、45度までは上れたといわれている。
 だが、風の弱い時の上りはというと、ヒールを付けるために荷物やバラスト代わりの石を風下に移動したのかなと思っている。エンジンがなかった頃の旅の帆走漁船は「タックの度に重いバラスト石を移動させていたよ。」と聞いたことがあったから。
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by pac3jp | 2006-02-03 10:24 |  

こまし網って知っていますか?

海の日の3連休に仲間のヨット(28f~34f)7隻のフリートで四国香川の庵治港と小豆島の吉田湾クルージングに行ってきた。
サイズも乗り手の技量もまちまちのヨットがフリート行動をすることは難しいこともあるが一隻では行けないクルージングエリアも助け合って行けるメリットが大きい。

今回は明石海峡を抜けて播磨灘に入ったところでイルカの群れがヨットの右に左にジャンプしながら我々に朝の挨拶をしてくれた。 ここ数年はこのあたりでイルカをよく見かけるようになった。しかし昔よく見かけたスナメリはまったく見かけない。
海の生態も変わってきているのだろうね。

午後早く庵治漁港に着き、いわし等小さい魚を太いホースで水揚げする設備のある浮桟橋に付けさせてもらった。
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翌朝早くからここの岸壁で地元の漁師さん達が漁網の補修と漁船への積み込み作業を始めた。 
どんなお魚を取る網ですかとお聞きすると「まながつお」だとおっしゃった。なおも観察しているとこの網は「コギ網」でなく潮の早い瀬戸で大きなアンカーを打ち、長い網を入れて潮に乗ってくる魚をとるそうだ。「網を入れたら昼寝しとるんや」との事。


今年の5月末、大潮の連れ潮でアビームの順風を受けての備讃瀬戸航路を東へセーリングしていた。 大槌島を経て男木島西から航路は左へ変針する。航路の右端を対地速度9kt近いスピードで帆走していた時、左舷側からは宇野からのフェリー、右舷側からは高松からの宇野行きフェリーが2隻が近づいてくる。そして、交錯する航路のごく近くまで、こまし網の漁船多数が航路の端を通過しようとするフネを飲み込もうとするようにオレンジのブイが網の口をあけて次々に見えてくる。

後ろから来る本船はどうだ? 航路を横断するフェリーとの距離は? 前から近づいてくるこの網はどんな構造をしているのか、ブイのどちらが通れるのか、網は浅いか、充分深いか、とっさに多くのことを判断しなければならない。
瀬戸内の航海で一番緊張する局面である。

この込網漁法は「いかなご、いわし、まながつお」を漁獲するもので、早い潮流を利用して網を展開し、転流時に網を揚げる。夜間の操業はしない。潮流が弱い時期は操業できないが、コギ網船に比べて燃料を余り消費しない点でフネや自然に優しいね。
漁師さんにお聞きすると網の間口は40mくらい、深さはヨットのキールくらいは大丈夫だろうとの事だが、”君子危うくは近寄らず”。

ヨットで旅をしていると色んな漁法、漁具と出くわす。ホームポート付近の漁具は大体想像がつくが、初めての海域や初めてその季節に入るときは注意が必要だ、時期によって様々な漁具が使われている。網の付いていそうなブイはとりあえず大廻で避けて通るが賢明だ。

漁港に入ると地元の人にその地方の漁法や網の構造などを聞いてみるのが「巡航機帆船」の航海術?の勉強にもなるし、有効なコミニュケーション手段にもなりますね。
今回のクルージングはしっかりと香川県の込網の勉強もしたし、大いに有益だった!!

参考にさせて頂いたWebです。 香川県の漁具漁法
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by pac3jp | 2005-07-22 11:58 | 漁船