タグ:泊地 ( 35 ) タグの人気記事

 

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊

天平年間(729~749年)に、僧・行基が一日の行程を測って西から檉生(むろう)、韓、魚住、大輪田、河尻の5つの泊を設けたと伝えられている。その古代の摂播・五泊で魚住泊の西側にあたる韓泊に比定されている姫路市的形町福泊漁港と的形港を訪ねた。
かって、この港の沖から頼山陽が命名したという景勝地「小赤壁」を眺めながら八家川河口の木場YHにはレースやクルージングなどで時々は寄港していたが、西隣の福泊漁港には入ったことはなかった。

平日のお昼頃、静かな港である。的形漁協の前に底引き漁船が4隻と小型漁船が数隻泊まっている。あとはプレジャーボートだろう。フィッシングセンターの駐車場があるので乗合の釣り船は沖に出ているのだろうか。

c0041039_111238100.jpg

古代の韓泊の史料は少ないようだ。「三善清行意見封事十二箇条」に出ている以外は未だない様だ。今後の発掘調査などの結果を待つしかないのかな。

【韓泊】角川日本地名大辞典より

奈良期から見える泊名 播磨国印南【いなみ】郡のうち奈良期に僧行基が摂播(摂津・播磨)五泊の1つに定め、遣唐使なども停泊した。当地には、古くから泊(港)があったと思われる。
延喜14年(914)4月28日の三善清行意見封事十二箇条に「自檉生泊至韓泊一日行、自韓泊至魚住泊一日行」と見える(本朝文粋/群書27)
正応2年9月29日の伏見天皇宣旨案にも韓が見えるが、行基が定めた五泊の1つとして見えるものである(東大寺文書/大日古5)
鎌倉期以降は福泊と見える現在の姫路市的形町福泊付近に比定される。

c0041039_11151342.jpg

福泊港から西方の小赤壁を望む。
c0041039_11154819.jpg

燈籠地山
沖から見ていると「小赤壁」がある低い岩山は西から木庭山・姫御前山・燈籠地山と並んでいる。木庭山には木庭神杜が鎮座し、姫御前山は、神功皇后が陣を張ったという伝説があり、旧の印南、飾磨郡の郡境に位置する燈籠地山は鎌倉時代、その山頂に安東蓮聖が泊の目印に灯火をともしたことから名付けられたという。
最盛期の頃この泊は昼間の入港の目印は大岩があり、夜は燈籠地山の頂上に明かりがつき、しっかり港の機能を備えていた。福泊神社の前の街道には回漕問屋の倉や屋敷が並び人々が行き交い賑わっていたのだろう。

鎌倉時代の1292年(正応5)ころ,律宗の僧行円房顕尊が〈福泊島勧進〉上人となって,この泊に風浪を防ぐ島の修築事業を進め、往来の船から〈築料〉として艘別200~300文の津料(入港料)を徴集していた。顕尊が1300年(正安2)に入滅した後、その檀那(後援者)であった北条家得宗の要人だった安東蓮聖が事業を引き継ぎ、「大石を積み上げ、数百貫の私財を尽して、二町余(約200m)沖に人工島を築造して、1302年(乾元1)に築港を完成」以後兵庫津に劣らず繁栄したという。 【峯相記】より

一方、安東蓮聖の経歴から見ると律宗の僧は「円房叡尊」と親交を結ぶと出てくる。「叡尊」は慈善活動の為とはいえ権力と癒着し木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、などの記述もみるので峯相記の書き間違いかも知れない。

【参考】安東蓮聖 【あんどう・れんしょう】

生年: 延応1 (1239)
没年: 元徳1 (1329)
鎌倉後期の武士。得宗被官,摂津守護代。弘長2(1262)年,北条時頼の使者として西大寺叡尊のもとに赴く。以後叡尊との親交を結ぶ。文永年間(1264~75),山僧と結託して京都で借上を営み,蓄財に成功。文永10年多田院造営の惣奉行を務め,建治3(1277)年久米田寺の別当職を買得し,律宗寺院として再建,弘安5(1282)年には,叡尊を請じて堂供養を催した。乾元1(1302)年,数百貫の私財を投じて福泊を修築するなど得宗権力を支えるために,流通路支配の最前線で活躍した。 朝日日本歴史人物事典より

c0041039_11194672.jpg

【福泊神社】

福泊神社の御祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の四柱で、主神は神功皇后です。福泊にも神功皇后の伝説があり、皇后が西征の際に当地で御陣を止められ、御腰をかけられたと伝えられています。御陣を止められたところを御陣山(燈籠地山)、御腰をかけられた岩は御前岩と名付けられ、この近海を御前の浜と呼ぶようになりました。また皇后は応神天皇を御懐妊されており、当地で御腹帯を召されたことから、この里の名を腹帯里と書いて「ふくとまりの里」と呼ぶようになり、神社を創建し「大帯祠(おほおびのやしろ)」と称したとあります。後に地名は福泊と書くようになり、社名は「福泊大帯社」或いは「弁財天社」といわれるようになり、現在では福泊神社と称しています。「弁財天社」は市杵島姫命を祀っていることに由来します。福泊屋台の狭間彫刻「神功皇后」は、御前岩から皇后が瀬戸内海を見渡し、御座船を迎える場面を彫刻したといわれています。
本殿の建立は明確ではありませんが、建築様式から室町時代中期の建立といわれ、一間社春日造りで現在では当時の様式が残る社殿が殆どなく、大変貴重な建築であることから、平成13年8月23日に姫路市重要文化財に指定されました。拝殿は江戸時代に再建されたといわれ、幾度かの修復を重ね現在に受け継がれています。
的形・湊神社HPより

c0041039_11231215.jpg

大正7年に撮影された福泊神社。境内に松の大木があり、拝殿は現存しているが、屋台の倉は未だない。周りの田畑も今はもうないように見えたが・・・。多分、良寛さんはこの写真とそう変わらない風景のなかで泊まったんでしょうね。

この神社に江戸時代の禅僧良寛が帰郷の途中に境内で野宿し歌を残している。

つぎのひはからつてふところにいたりぬ
     こよひもやどのなければ
おもひきや みちのしばくさ うちしきて
 こよひもおなじ かりねせむとは


(漢字仮名まじり文では)
次の日は韓津てふ所に至りぬ
今宵の宿の無ければ
思ひきや道の芝草うち敷きて今宵も同じ仮寝せむとは 

良寛が帰郷の為に倉敷市玉島の円通寺を旅立つのは、寛政八年(1796年)正月、三十九歳の時のようです。あの有名な良寛さんがまだ若い39歳の冬、ここで一夜を過ごしたことがあるとは驚いた。大昔ではなく19世紀の少し前だった。当時でも福泊は韓津とも呼ばれていた様だ。

c0041039_11261666.jpg

同じく韓泊の比定地とされる住吉神社がある的形町的形はボクが知っている?昔から奥村ボートさんがあり40年の歴史を持つ的形YCのヨット泊地として有名だったので海からも陸からも訪れたことはある。今もこの河口は沢山のヨットが繋がれいいヨットハーバーになっている。

参考文書:はりま伝説 夢物語 「燈龍山の火と福泊」 神戸新聞社
[PR]

by pac3jp | 2014-03-30 11:57 | 歴史・民俗  

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)

大阪湾や播磨灘で小舟に乗って長い間楽しんできたが明石エリアの漁港には浅い、狭い、混雑しているなどで明石港以外はあまり入った事がなかった。しかし、長い歴史をもった港もある。

室町時代に東大寺が兵庫津で関銭を徴収した記録「兵庫北関入船納帖」に、明石市内の港は中庄・船上・林・松江・営嶋・伊保角・二見などが記録されている。営嶋は古代に「魚住泊」と呼ばれた赤根川河口の江井島のことだろう。

魚住泊の推定地である江井島港に「泊」と刻まれた大きなモニュメントが立っている。

c0041039_1381273.jpg

往きめぐり 見とも飽めや 名寸隅(なきすみ)の 船瀬の浜に しきる白波     笠金村

c0041039_139833.jpg

【 摂播五泊 】とは? 天平年間(729~749)に、僧・行基が一日の行程を測って西から檉生(むろう)、韓、魚住、大輪田、河尻の5つの泊を設けたと伝えられています。

檉生泊   - たつの市御津町
韓泊(福泊)- 姫路市的形町
魚住泊   - 明石市大久保町
大輪田泊  - 神戸市兵庫区
河尻泊   - 尼崎市神崎町

その距離は檉生と韓泊間が22km、韓泊と魚住泊間が21km、魚住泊と大輪田泊間が30km、大輪田泊と河尻泊間が22kmとなっており、魚住泊と大輪田泊との間が他より長くなっています。
これは、その間には潮の流れが速い幅約4kmの明石海峡が存在することによるものと考えられています。
この明石海峡は1曰2回,潮流の向きが変化します。そこで、東行する船は東流時を選び,西行する船は西流時を選ぶため、それぞれの港が潮待ちのための重要な港であったことがわかります。

魚住泊の位置については明石市魚住町の瀬戸川河口説と同じく大久保町の赤根川河口説とがあり、いまだ確定はしていません。ただ、大久保町江井島の赤根川河口には延命寺・長楽寺・定善寺など行基開基の伝承をもつ寺院が存在していることなどから、赤根川河口に求める説が有力です。

この港は、832 (天長9)年に清原夏野が修築を建言し、さらに、867 (貞親9)年には元興寺僧賢和が改修を願い出ています。そして、914 年には三善清行が「意見封事十二箇条」の中で、魚住泊の修復を請願しています。その中で,「…此の泊天平年中建する所なり。其後延暦の末に至る五十余年,人其の便を得る。弘仁の代,風浪侵齧し、石頽れ沙漂う」とあり、海岸浸食により荒廃していた様子がよみとれます。

その後は管理されず放置されたために、航行する船の多くが沈み、人命まで損失ことがあったようです。そこで、1196 (建久7)年、大輪田泊とともにこの魚住泊の石椋(いしぐら)工事の奏上を太政官に提出し、その願いは聞きとげられました。当時、重源は東大寺の再建のあたり、大勧進になっており西国からの建築資材を連ぶには、西国からの建設資材を運ぶには明石海峡を安全に通過させる必要があったために海峡をはさんだ両港のの整備を図ったものと考えられています。

重源の修築以降、建保年間(1213~1219年)重聖上人による修築が行われ、1289 (正応2)年に性海上人の奏上によって修築が行われた記録が残されています。この正応2年の修築以来、改修の記録は1888(明治21)年まで途絶えています。

戦国時代には織田信長の三木城攻めに際し、安芸の毛利氏から籠城中の別所氏に届ける兵糧がこの港で陸揚げされ、近くの魚住城に運び込まれ織田勢の動向を見ながら三木城に送られたのだろう。

画像は現在の江井島港ですが、航空写真が古く今は岸壁には漁船が一杯で外来船が着ける場所はないように見えます。赤丸が石椋が出た場所です。

c0041039_13102074.jpg

1986年の赤根川浚渫工事で引き揚げられた多くの加工されまだ皮まで付いた松の丸太。当時この木を見た材木商は日向松だと言ったそうです。

c0041039_13111213.jpg

これらのことから引き揚げられた木は、井桁状に組み合わせ、その上に河原石を置いて沈め、波堤の基礎としたものであると推定されます。この木組みは東方向へ延びていたものと考えられ、赤根川河口から東へ250 mの位置にある江井島漁業協同組合事務所の南の護岸工事の際にも発見されています。下の画像は井桁の模型とその下は海底に埋まっていた松材と石です。

c0041039_1313105.jpg

c0041039_1313393.jpg

江戸時代の地誌『播州名所巡覧図絵』に江井島は「旧は嶋にて、釋の行基の築く所なり。故に嶋といふ。地中、今も石木など残れり。」とあります。このことから江戸時代において、すでに、港に基礎となる石や材の存在が認識されていたことと、この港の築造が行基にさかのぼることが伝承とし残されてていたことがわかります。

江井島水利組合には,江戸時代の天明年間(1781~I788)に描かれた絵図が残されています。こには、赤根川の川筋は蛇行しつつ河口へ至り、河口付近で大きく東へその流路を変えて表現されています。この河道の南が東西方向に延びる突堤状の島になっていることから、人工的に設けらた船入りのための港であったと推測することができます。また、この絵図には、島の突端部に石積状の堤防が描かれ、「波門」の表記が認められます。地元ではこれを「しようにんさんのはと」とよんでおり、潮が引くと築堤に使ったとされる石が多数見つかり、その中でも大きな石を「馬石」とよんでいたといいます。

c0041039_13143415.jpg

絵図と伝承を合わせて1957年、まだ港が拡張されてない頃の地図にボクが「魚住泊」の場所を書き込んでみたら、赤根川は東に流れ、島になっている部分の赤根川河口の石椋出土場所から漁協前の松材出土の間にオレンジラインの波堤があった。今でも漁協の北側に昔は水路だったと思うような船溜まりもあるし・・・。

c0041039_13152227.jpg

石椋の松材が発見されてから28年も経つのに何故今までC14年代測定法で確認しなかったのかとずっと不思議に思っていたが、当時学習院大学に依頼したC14年代測定法では<1380+-110 A.D.570>6~7世紀と報告されているので文献の10世紀には合致しなかったのだ。

今回の「明石の古代展」に合わせて?最新の測定機材で再鑑定されたのだろう。
1986 (昭和61)年に赤根川河口から引き揚げられた木は、2013 (平成25)年に炭素14の年代測定を工藤雄一郎さん(国立歴史民俗博物館)がおこなって研究した結果、10世紀初頭の年代が与えられ、文献に見る魚住泊に関する材であったことが確かめられました。

地元の神戸新聞に2013/11/9付けで「明石・魚住泊 赤根川河口付近 位置ほぼ特定」と報道されていた。
c0041039_142105.jpg


参考図書:「明石の古代」発掘された明石の歴史展 図録
  同 :古代の「海の道」石野博信編
  同 :中尾のすがた むかし・いま 黒田義隆
[PR]

by pac3jp | 2014-03-16 13:54 | 歴史・民俗  

西宮浜ボートパーク その後

 西宮浜ボートパークは2006年秋に着工し、途中に不法係留艇の行政代執行などあったが、2009年の春には完成したように見えた。しかし、15年間も不法占拠していた広い港湾用地にはまだプレハブ建物など残骸が残っていた。

 2010年1月18日の月曜日、地元紙の夕刊で西宮ボートパーク移転問題で係争中?の西宮今津ヨットクラブのクラブハウスを県が行政代執行で強制撤去したと↓のように報じた。


 西宮浜のヨットクラブ事務所を撤去 県が行政代執行 

 兵庫県は18日午前、西宮市西宮浜1の西宮浜北護岸の一部を不法占拠している西宮今津ヨットクラブ所有の事務所を強制的撤去するため、行政代執行に踏み切った。同クラブは2008年9月にも、不法係留していたプレジャーボートを行政代執行で撤去されている。
 県によると、同クラブはかつて別の港を利用していたが、阪神高速湾岸線に関連する工事に伴い、県が北護岸への移動を要請。県は「一時的な使用で、新西宮ヨットハーバー完成後は移ってほしい」とした上で、1995年3月まで敷地の使用を許可した。
 しかし、同クラブは「新西宮は係留料金が高く、受け入れられない」などとして、期限切れ後も移動を拒否。県は、北護岸で進める西宮ボートパーク整備の支障にもなっていることから、強制撤去を決めた。
 この日午前9時ごろ、県尼崎港管理事務所職員ら約50人が撤去作業に着手。プレハブ2階建ての事務所からソファやテーブル、書類棚などを次々に運び出し、重機で建物を解体した。
 同ヨットクラブなどは、県による事務所撤去命令の取り消しなどを求めて神戸地裁に提訴し、現在係争中。辻井元宏会長(48)は「県の都合で移動を押しつけられ、納得できない」と反発している。(岡西篤志、上杉順子)神戸新聞 2010.1.18



c0041039_8241819.jpg

 ↑画像は2009.12.12の西宮浜ボートパークのほぼ全景である。以前この新施設に移動するはずの艇数に較べて少ないようだがもうかなりのヨット・ボートが入っている。でも、この付近に元々少ない小型艇バースはガラガラですね。

 矢印のプレハブは阪神大震災で地盤が崩れた時に傾いたままの姿でずっと建っていたが、あまり使われているようには見えなかった。2008年に行った不法係留艇の代執行でヨットは新西宮ヨットハーバーに強制移動させられてきた時、ハウスも一緒にすればよかったのにと思っていた。その強制移動させられて鎖で繋がれていたヨットには、まだ充分乗れるヤマハ33や殆ど廃船のヨットなど数隻が長い間新西宮ヨットハーバーにつながれていたのにいつの間にか居なくなっていた。

 もう役所と話がついたんだとボクは思っていたのだが、先日、東隣の甲子園浜埋立地の港湾用地の片隅に上架されて並んでいるのを発見し、彼らはまだ裁判をやっているんだと納得した。


【関連記事】:不法係留ヨットを強制撤去(西宮市西宮浜)
[PR]

by pac3jp | 2010-01-21 08:38 | ウオッチング  

9月22日 徳島・日和佐港の温泉情報

 昨夜は牟岐大島名物の「蚊の大群」にも襲われず、無事、朝になったが、残念ながらお天気は、風弱く小雨が降っている。
 小さな入り江に泊っていた9隻のヨットたちも出発の用意が出来た順にそれぞれの目的地に向け出航してゆく。

 牟岐大島を出ると小雨は相変わらず降っているし、南からのうねりもやってくる。そう穏やかな海ではないが、風は西になり少しは吹いてきた。我々のグループは淡路・洲本港に向かう予定であるが、ボクは翌、23日に甥の結婚式に出なくてはならないので徳島・日和佐港で下ろしてもらうことになった。

c0041039_13373856.jpg

 機走、約1時間で日和佐港に入り下船する。ヨットには若手のクルーが乗り込んでいるのでオーナーも安心だろう。(↑画像は日和佐城が見える日和佐港内にて)

 日和佐は今年の7月末に来たときから「ウェルかめ」の「のぼり」があちこちに立っている。なんだろうと思っていたが、「日和佐の海がめ」ネタでNHKの朝の連ドラがここでロケをしているなどの話を聞いた。
 
 ここはクルージングの寄港地や台風の避泊地として絶好の港だが、以前からあったお風呂が現在はなくなっている。前回も暑い盛りの入港だったがやむを得ずヨットの貴重な温水シャワーを使い汗を流した。
 そのときガソリンスタンドの店員から薬王寺が温泉を造っていると聞いていたので、四国八十八ヶ所参りで大繁盛の薬王寺と温泉施設建設現場を偵察してきた。

c0041039_1339660.jpg 寂れたJR日和佐駅の裏側に大きな「道の駅」があり、旅行客も多く、ここも繁盛しているように見える。
 温泉はお寺に隣接した駐車場の一部をつぶして建設工事中だった。
 完成予想図には、薬王寺温泉「湯元・醫王の湯」平成21年 年末完成予定と書いてある。

 来年には港から徒歩10分で湯元温泉に入れることは確実だ。

 もう一つ、勝手させてもらったのは、一度はヨット以外の乗り物であるJR四国の牟岐線に乗りたかったのだ、讃岐のJR高松~琴平間は確か電車だったと思うがこちらは古いディーゼル列車だった。昼間は2時間に1本なので暇な人にはお寺参りなどには充分の時間がある。そして、日和佐駅→徳島駅間では久し振りに1時間半のローカル線を楽しんだ。終点の徳島駅も大きな駅だが停まっているのはディーゼル列車ばかりでこれは予想外だったなあ。

 後は徳島から満席の高速バスで神戸・三ノ宮へ、高速道路で事故渋滞などもあったが午後3時前には無事到着する。ヨット組はもう洲本港に着いただろうか。

以前の記事:7月31日 徳島県・日和佐港 
[PR]

by pac3jp | 2009-09-26 13:43 | クルージング  

9月21日 牟岐大島・アンカーリング演習?

c0041039_9274065.jpg


0630 沼島港を出港。天気は秋雨前線の影響か薄曇り、風向は南の微風。機走で伊島の東側を狙って針路をとる。

紀伊水道~鳴門航路付近から風は弱いのに三角波のようないやな波が出てきた。やがて、まばらな風が吹き出してきたのでセールアップする。

1000 伊島灯台を右舷正横に見て牟岐大島に変針する。しばらく波の悪いエリアを通過すると海面はうねりだけで穏やかになってきた。
1210 日和佐沖、風は南西12ノット、スタボーのクロスで快調なセーリング、艇速7ノット。
1310 牟岐大島の小さな入り江に到着。

c0041039_93023100.jpg

 先客はダイバー船が2隻、ヨットは2隻でケッチが1隻入り江の中央でアンカーリングしている。もう1隻はダイバー用の桟橋と岸からのラインで岸寄りに係留している。我々も35ポンドダンフォースタイプ+9ミリ×6mのチエーンで投錨するが、滑ってしまい初回は失敗。4度目に何とか海底を掻いたようなので暫く仲間の到着を待つ。(ウインドラスを持たない38fのアンカーリングを4回もやればかなり疲れますです、ハイ)

 やがて到着した仲間達が狭い入り江内をくるくる回って良い場所を見つけ?投錨するが、どうもうまく行かないようだ。先着のケッチが心配そうに眺めている。

 最近の沿岸クルージングではバウからアンカーを打ち、振れまわしで係留するなど殆どしない、大抵は桟橋や岸壁横付けで偶に槍付けくらいはするがバウのウインドラスはクルージングヨットとしての飾り同然である。

 お仲間の新艇がやってきた。フル装備なので勿論ウインドラスも装備している。程よい場所でバウローラーに載ったデルタアンカーのピンを抜くと小気味良い音がしてオールチエーンのアンカーが海底に落ちてゆく。そこでアスターンにしてアンカーを効かすのだが、どうも様子がおかしい。次はバウからロープも出てきた。オーナーがバウに出てロープを引いたりウインドラスをいじっている。その間にヨットが流れて岸の大岩に当たりそうになるし、こちらから見てもハラハラする。

 後でお聞きすると、納艇いらい一度も動かしたことがなかったし、ウインドラスのクラッチが最初から開放されていて、ピンを外すとチエーンは全部落ちてしまうし、クラッチを締める方法も分らなかったとか・・・。

 もう1隻の仲間も反対側で苦戦している。先着ケッチのクルーたちが自艇のアンカーラインと交差しそうなので、これまた心配そうだ。

c0041039_9312889.jpg 小さい入り江で大騒ぎをしているヨットを見ていたダイビングボートが気を利かせて早めに桟橋を空けてくれたので、アンカーリングは演習のみということにして浮き桟橋に集結する。そして一番最後に入ってきたヨットのみが桟橋に槍付けのアンカリングで合同クルージング6隻全艇の係留が完了した。

 結局、牟岐大島の入り江で朝まで振れまわしのアンカーリングしたのは和歌山のヨットが2隻だけだったが、無人島の入り江で錨泊しようという気持ちになり、実際にトライしたことで本を読むよりずっと良い経験になりましたね。
[PR]

by pac3jp | 2009-09-24 09:42 | クルージング  

9月20日 淡路・沼島漁港

c0041039_1311862.jpg

今日も朝から結構な北風が吹いている。日程は1日遅れの沼島漁港だ。友水の潮とまりに合わせて10時に洲本港を出港する。
沖は北東16kt、追手で波の悪い由良瀬戸に向かう。そこは大阪湾から南に向かうヨットが集まってくる。
丁度、瀬戸に差し掛かるときスターボータックでフルセールのXー36sが追い付いてきた。どうもポートタックで走っている我々に権利を主張するように近づいてくる。
昨年のハーバーのシリーズレースで優勝経験もあるオーナーはすぐジヤイブを返し、リーフを解除してレースモードになりはじめた。相手もそれを感じたのかすぐさまジェネカー上げて引き離しに掛かった様子。
ウチも…と言っているうちに彼らは強力なブローを食らいブローチング、そしてセールトラブル発生、我々はギャラリーに回ることにする。

今日もいい風に恵まれ全コース約3時間をセーリングで走れた。

1300 沼島漁港到着。防波堤を入って右側の岸壁に三隻横抱きで係留。後の四隻は少し離れた外港の桟橋に係留する。団体さんのクルージングは係留場所選び大変だね。
c0041039_950189.jpg

今夜のお風呂と宴会は近くの民宿「あさやま」(画像↑)で、展望風呂(500円)、食事代(5000円)とちょっと高めかな?
ボクは久し振りの沼島だったが、ハモ料理で有名な木村屋と通船乗り場がちょっとした旅客センター風の立派な施設になっているのに驚いたなぁ。
[PR]

by pac3jp | 2009-09-22 13:01 | クルージング  

SAILOR'S HEAVEN

 奄美大島・瀬戸内の奥まった小さな入り江、阿鉄湾にこの施設はある。この泊地にやってきた外国人セーラーが「Sailor's Heaven」と命名したとお聞きした。

c0041039_1859551.jpg

c0041039_190015.jpg

c0041039_1911637.jpg
 小さな建物だがクルージング・セーラーが泊地で必要とする物は全部揃っている。まず、鍵が掛かったドアを開くと洗面所、その隣が温水シャワー、それにウォッシュレット付きの水洗トイレ、建物右側の屋外に全自動洗濯機が設置してある。

 クルージングしていてこれだけ揃っている港はそうないし、有料のマリーナでもちゃんと揃っていないところもある。欧米からやってきたロングクルージング中のヨット達にとっては静かな入り江のブイに舫って、必要なときだけ上陸して用を足す。そこにあるこんな施設は正に「HEAVEN」なんでしょうね。

 ボク達のクルージングでは「夕食は地元の食堂か、居酒屋で」なのであまりに静か過ぎる泊地も問題はあるが、たまにはしっかりと食材を積み込み「覚悟して」数日を過ごしても良いかとは思っていますがね・・・。

 ボクの希望としては全国の漁港にこのような小さな施設「Sailor's Heaven」を造って貰うと、とってもうれしいなあ。わずかテトラポット数個分の予算をまわしたら出来そうだと思うけどなぁ。


【関連記事】1:5月17日 古仁屋・休養2 日目 
      2:ヨット旅行のトイレ事情
 
[PR]

by pac3jp | 2009-06-24 19:05 | ウオッチング  

不法係留ヨットを強制撤去(西宮市西宮浜)

 9月24日(水)11時頃、ハーバーにいた仲間から「警戒船を引き連れた作業船がハルに傷があり、ブームもないボロのヨットを3隻曳いてきたよ、何かあったんやろか?」と自宅にいたボクに連絡があった。
 暫くしてテレビニュースで報道されたので西宮浜北護岸の不法係留ボートの行政代執行が始まったのだと分かった。

 曳航されてきてハーバーの桟橋に立ち入り禁止のテープと鎖で繋がれたヨットに驚いたヨットマンのブログはここをクリックしてみて下さい。

c0041039_90571.jpg 左画像は当日のお昼のNHKニュースの1カットだが西宮今津ヨットクラブと“不法係留と思っていない云々”のコメントもあったが、いまさら何を・・・という気もするなぁ。

 産経関西Web版には《西宮浜、ボートを強制撤去 「不法係留20年」》の見出しで写真と記事が出ていた。

 この問題はかって近くに勤務先があったので20年来関心を持って眺めてきた。

 大分前、これらの桟橋のヨットオーナーの一人から「タダでは泊めてないで、公正証書を巻いて係留料金は裁判所に供託しているんや」と聞いたが、本当だったのかな・・・。

 長い時間が掛かってやっと昨年、移転の受け皿であるボートパークも完成したが、役所の設計ミスもあり係留設備の手直しなど条件交渉をして、静穏な海面に新設された係留場所を安く使える権利をほとんどのオーナーは行使されたように思ったが、そうではなかったらしい。
 新聞記事によると、昨年7月現在で107艇の約6割が移動。残る39艇のオーナーが移動に応じなかったため、代執行に踏み切ったという。でも実際に曳航されたのは4隻だったので残りの35隻はボートパークに入ることにしたのか、どこかもっと安い場所を見つけて移動したのだろう。

c0041039_903434.jpg

 また、近くに会社をお持ちの社長さんから当日の現場画像↑を送って頂いた。午前中に強制執行し、空になった桟橋には早速、作業台船が入りクレーンで杭を抜きはじめた。また、北護岸にある陸置きヨットやクラブハウス風の建物も撤去の対象になっているという。

 これで阪神大震災で傾いた北護岸も桟橋が強制撤去された部分については13年振りにやっと復旧工事に取り掛かれるはずだ。


【関連記事】1:西宮浜ボートパーク計画
【関連記事】2:西宮浜ボートパーク着工?
【関連記事】3:ミスマッチ?
【関連記事】4:不法係留権? 
[PR]

by pac3jp | 2008-09-26 09:10 | ウオッチング  

久しぶりの淡路・福良港

 前回は2003年11月に福良港を訪れたのでもう5年も経ったしまった。久しぶりの港内は漁船の数は少し減ったように思うが、大型観潮船が2隻でピストン運航し、観光客も大勢いて盛況のようにみえる。

c0041039_88759.jpg

 今回は仲間のヨット5隻との合同クルージングだったので、福良港は割りに大きな漁港だがヨット1~2隻のスペースならあるが・・・と案じていたら、ちゃんと纏まって係留できる場所を幹事艇が手早く確保してくれていた。

c0041039_89273.jpg そこは観潮船乗り場の西側の船だまりで一本釣り、延縄など小型の漁船が係留している。その入り口内側の防波堤に係留した。リングは付いている。上の画像に係留場所をマークしたが、普通は横付けで3隻係留できる。当日は仲間5隻と他のヨット2隻の7隻が泊った。
 トイレ・観光案内所・お土産屋さんは観潮船乗り場に、コンビニは前の駐車場にある。古くからやっている銭湯2軒も5年前と同じように営業していた。ラッキー!

c0041039_810624.jpg 町内を散歩していると樹木に覆われた急な石段の上に県指定文化財で三間社流造の本殿を持つ、福良八幡神社があるというので早速拝観することにした。まず山門と拝殿の瓦が葺き替えたばかりで新しい、そして拝殿の太い注連飾りを見るとさすが漁港の神さんだ!普通は藁を編んであるがここは魚網用か、黄色いナイロン繊維で作ってある。これは長持ちしそうだなぁと、変なところで感心する。
 それにこの神社は氏子が還暦や厄年を記念して黒御影石に大勢の名前を彫った記念碑がやたらと多いし、拝殿の内壁にも記念写真がずらっと掛かっている。神社と氏子のつながりが特に太いのかなと思ったりした。

 この神社は福良湾を見下ろす丘にあり、うっそうと茂った樹木に隠れてわずかの海しか見えないが江戸時代の「淡路国名所図絵」によると石段の下の道路際まで海岸だったというが、浜が埋め立てられ今は少し奥まったところになっている。

c0041039_8114310.jpg

 淡路島内には奈良時代から官道として南海道が由良浦から福良浦へ至る約30㎞が整備され長く使われてきた。そして終点の福良浦は天然の良港で、古くから阿波徳島への渡海場として賑わった。浦には船待ちの人々のための旅籠が並んでいた。
 「淡路国名所絵図」には沖に須崎、煙島と数隻の帆影が見え、石積の長い突堤の先に渡海船が客を待っている。海岸には旅籠が建ち並び人々が忙しげに行き交っている。
 向こうには漁船が浜に上げられ漁家が立ち並んでいるのが描かれている。

c0041039_812587.jpg 一転、現代のボク等はコンクリートの防波堤にフネを繋ぎ、今回はグルメクルージングだという触れ込みなので漁港にほど近い料理屋さん「寿司・活魚 一作」で同行の仲間と宴会で盛り上がる。
 前に来たとき、このお店は高そうだったのでパスしてその近くの安い居酒屋で一杯飲んだのを思い出した・・・。
[PR]

by pac3jp | 2008-09-19 08:21 | クルージング  

播州室津港(兵庫県たつの市)の昔、そして今

 播州室乃津は和銅6年(713)に編纂された播磨国風土記にも揖保郡浦上里室原泊りと記されているふるい湊である。いらい瀬戸内屈指の良港として多くの船が帆を休めてきた。

 また、室津の入江の小さな岬の上には立派な神社がある。京都上賀茂神社の御厨だった加茂神社だ。田舎の漁港にこんな立派な社殿があるのは珍しいが古来海上交通の要の湊として、また江戸時代は西国大名の参勤交代の上陸地として栄えた。そして初代将軍徳川家康より始まり歴代将軍から領土安堵の朱印状をくだされ手厚い保護を受けてきた歴史がある。

 元禄年間には室津に600戸の家があり、つくり酒屋、旅館、料理屋、遊郭もあり、馬革細工の生産と記している。(エンゲルト・ケンペル日本誌より)

↓画像2枚は「日本」シーボルト著から
c0041039_2054854.jpg
 
 文政9(1826)年有名なシーボルトがこの賀茂神社を訪れ、社殿、多宝塔、藤棚、船絵馬などの記述を「江戸参府紀行」に記している。中でも参籠所からの眺めを「これまで日本で見たもっとも美しい景色のひとつであり、それからこの広間の位置や設備はなんと雄大で、崇高かつ感動的な印象を与えるように計算されていることか」と絶賛している。

 海の景色はシーボルトのスケッチと現在もほとんど変わらない景観だと思うが画家が描いた写生とカメラで写しとろうとするボクとでは視野の広さがだいぶ違うようだ。でも行きも帰りも藻振鼻と手前の小島の間を通ってきたのだ。

c0041039_2052246.jpg

 加茂神社の風景は広々と描かれているが今は樹木が茂り境内もそう大きくはないように感じる。二重の塔ももうないように思ったが確認してこなかった。

 現在の室津港は物揚場が埋め立て拡張されてかなり大きくなっている。冬場はカキの養殖が盛んで即売所が沢山できている。古くからある港の奥の船溜まりも新しい岸壁と防潮堤が築造されキレイになりつつある。町並みも一部は整備され、狭かった町内の道路も少しはましになってきた。
 古い歴史のある港町なので、ちゃんと郷土資料館が2ヶ所もある。ボクはビミニがないクラブレーサーでのクルージングだったので、まず体を冷やすのが一番と喫茶店から一歩も出たくない気分になり、見学はパスしてしまったが次回はしっかり見てくるつもりだ。

c0041039_20555223.jpg

 画像は当日係留した岸壁。横付けで6隻、1隻は横抱きで合計7隻係留できた。この場所は料理屋さん「まるよし」の裏側になる。新しい岸壁が出来ているがまだ工事中の部分もある。奥まっていて引き波もまったく入ってこないいい場所で、今年中は係留できるという。

c0041039_20574460.jpg

 近くの防潮堤に燃料値上げを告知する漁協の張り紙があった。よく見ると、燃料と同時に潤滑油も上がっている。その下に全国一斉休業に関する張り紙も・・・。燃料の高騰で漁業経営も大変なようだ。

勿論、我が家も食料品の値上がりやガソリンの高騰で大困りである。


参考資料:「描かれた船」 たつの市歴史資料館 発行
[PR]

by pac3jp | 2008-07-23 21:09 | クルージング