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マジャパヒト号の建造法は

 インドネシアの古代船を復元する際には伝統的な技法を用いて建造したと言われているがどんな方法だったの?と聞かれたが説明できるほど詳しくないので日本マジャパヒト協会のホームページ内に建造中の画像があり、熱帯硬木の厚板の曲げ加工や側板の接続方法が分りそうな画像などお借りしましたのでご覧下さい。

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 画像の説明には 「船底部の曲げ具合を加熱して調整しているところです。ロタン、熱帯硬木等を用いた材料を加工しています。」
 ロタンは藤のことだが船体材料のうち、一体どこに使っているのだろう。考えられるのは部材を縫合する材料だろうけど・・・。

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 「船底板とキールの接続です。金属は一切使っていません。」
 ホゾを打ち込み接続しているようです。小さい和船では船釘を用いずチキリとタタラによってつなぐ手法もあった。

 その他の詳しい画像はこちらから。

 
 どこの世界でも木造船の建造は似たような手法で造られるが、造船場付近で手に入る材料によってそれぞれ違った工法があるということでしょうね。

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by pac3jp | 2010-07-19 15:51 | 歴史・民俗  

インドネシアの復元古代船が日本に向け出港!

c0041039_7181221.jpg 10日ほど前の7月4日、インドネシア・ジャカルタの港を復元古代船が出航したとマスコミ各社が報道した。

 船は60フィートのアウトリガー、帆装は2本マストのラグセールのようであるがオセアニアのクラブクロウセール風でもあります。
 でも、復元古代船といっても船型などすっきりとしていて現在でも通用しそうですね。


 13世紀から16世紀までインドネシアのジャワ島を中心に栄えた「マジャパヒト王国」遺跡の発掘調査に対する支援を訴えるため、同国 政府と日本マジャパヒト協会(東京、田中穣代表)は古代インドネシアの木造船を復元した。
 6月27日に造船場所のジャワ州マドラ島を出港し、半年間かけてジャカルタに戻る約9千キロの航海がスタート。アジア各国に立ち寄り、発掘調査への資金や技術面での協力を求めるほか、地元住民との交流活動も行う。

 日本最初の寄港地は、琉球王国の交易を担った沖縄・久高島で今月中旬の到着予定。続いて那覇港に立ち寄り、仲井真弘多知事らを表敬訪問。鹿児島、横浜、東京、福岡などにも寄港する。
 木造船は全長20メートルで、ジャワ島・ボロブドゥール遺跡の8世紀ごろのレリーフに描かれた古代船を基に復元。くぎを1本も使わずにチーク材や竹などで造った。乗組員15人は大半がインドネシア人。
 2010/07/03 05:45 【共同通信】



 ボクはその復元船と沖縄の寄港地、久高島に特に興味があった。

 15世紀、明の永楽帝が朝貢体制を拡大するため鄭和の大艦隊がインド洋にも乗り出し、アラビアやアフリカまでの大航海が幾度も行われていた頃、アジアにも大航海の時代があった。勿論、日本も室町時代には官民合わせて勘合貿易を行ったし、琉球王国もその地の利を生かし中継貿易で大いに繁栄した時代だった。

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 インドネシア・ジャワでも交易船を各地に派遣して「マジャパヒト王国」がい大いに栄えたと伝えられるが当時の交易船の史料が全くないらしい。そこでジャワ・ボロブドール遺跡にレリーフされた8世紀頃のアウトリガー付航洋船や東部インドネシアの戦闘用大型アウトリガー船KORAKORAを基本型に、インドネシア研究者の英知を集め、これら史料から推定復元したという。

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 ジャワ・ボロブドール遺跡にレリーフされた8世紀頃のアウトリガー付航洋船レリーフからインドネシア研究者の英知を集め、これら史料から推定復元したデザイン図

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 復元された「スプリット オブ マジャパヒト号」釘を一切使わずホゾのようなものを使って部材を繋いでいるが、接続部の防水には天然の樹脂接着材を使っているのでしょうか、普通のマキハダでしょうかね。アウトリガーが竹なのでヒールすると水切りが悪いのでちょっと心配。

 航海予定のコースを見ると日本ではまず琉球王朝の交易を担った沖縄・久高島に入るという。本島南部沿岸にある人口200人程の小島にナゼ?と思い検索したがWebでは簡単に中世の交易の歴史は出てこなかった。インドネシア人達はかっての交易で図らずも欠礼してしまった答礼を今回はぜひしたいということである。

 久高島は琉球王国の時代から現代まで琉球神話聖地の島だし、ボクには久高イラブーを食べる勇気はないが、ほかにも色々と興味深い島なので一度は訪れてみたいと思っている。



 琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島である。琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽(せいふぁうたき)は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。島内には御嶽(うたき)、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島第一の聖域であり、男子禁制である。

 それにこの島は琉球王朝時代の地割制度が唯一残っていて村有地などを除いて全てが共有地であり「久高島土地憲章」により分配・管理を行っている。

 久高島は土地が総有制、個人の持ち物ではない為に外部の資本がほぼ入れません。いつまでも、この制度を残せるように久高島土地憲章を制定して守っています。根底にあるのは、天、地、海を何よりも大切なものとしてきたこの島の生きざまです。この島にいると平気で土地を売り買いする現代社会が異常なものに感じてきます。
 島民は字から土地を借りて、家を建て、畑を耕します(ノロなど特別な役職に対しては別に土地が与えられていました)。島人には土地を所有するという概念は無いようです。まさに忘れ去られたようにここだけに残った土地制度、原始共産制の名残と言われます。正確に言うと、久高島の土地は字の共有財産、個人には使用権が与えられます。久高島にこれだけの自然、文化が残ったのは外部資本が入ってくるのを守るこの制度のおかげと言えるでしょう(久高島HPより)



 いずれ大阪にもやってくるので機会があれば現物を見てみたいが、出航時の動画ではかなりの速度で航行しているので船外機などエンジンは装備しているのかも知れないし、航海計器や通信機器は最新の機材を搭戴しているはずだ。これから日本近海は台風シーズンにもなるので安全第一の航海でやってきて欲しいと思っている。


 インドネシア・マドゥラ島スノッペンにて行われた復元古代船「スプリット オブ マジャパヒト号」の進水の様子です。



【参考Web】:日本マジャパヒト協会 とは 
 日本マジャパヒト協会は、2008年、マジャパヒト遺跡の発掘・周辺環境整備事業への支援を切り口に日本とインドネシア相互の文化と歴史の尊重と理解に立脚した新しい「かたち」の友好関係を構築することを目的に設立されました。
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by pac3jp | 2010-07-14 07:36 | 帆船  

兵庫県立考古博物館の復元古代船「ヒボコ」

 ボクは色んな博物館に行くのは好きな方で、展示されているテーマが「海や船系」だと是非にでも見てこようという気になってくる。昨年には姫路城に隣接した兵庫県立歴史博物館で開催された「船と海の博覧会」などにも行ってきた。ここには近世に活躍した弁才船の大型模型が2隻あり、司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」で有名になった高田屋嘉兵衛の解説コーナーもあった。

c0041039_1681414.jpg ところが、3年前に我家から南西に17kmほど離れた播磨町に兵庫県立考古博物館が新しくオープンした。ここは県内各地の遺跡から出土する壷や皿などを展示していてフネ系の展示物はないだろうと思って今まで有料ゾーンには入らなかったが、今回、中世に滅びた「但馬守護 山名氏の城と戦い」という特別展を見学にいった際、初めて常設の有料ゾーンに入った。
 (上の画像は大きな見張りヤグラが象徴的な兵庫県立考古博物館 西方から撮影)

 入り口に入ると中央部の「交流 みち・であい」のコーナーに大きな刳船の準構造船が据付られているのが目に入る。早速近くで詳しく見学することに。
  
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 この復元古代船は博物館ができた時、テーマ展示用に古事記、日本書記、播磨国風土記などに但馬・出石に関わる「アメノヒボコ伝説」からヒボコが朝鮮半島・新羅から倭国にやってきたときに乗ってきただろうと思われる船を遺跡から見つかった板図や古墳から出土した船形埴輪などを参考にデザインし、建造されたという。

 船体は長さは11m余りで幅は2.5m位だろうか、分厚い前後の竪板と舷側板が波から荷物と乗員を護っている準構造船だ。船底は単材で単純な構造だが外観はチョウナで削った跡がきれいな仕上げ模様になっている。当時は鉄釘がないので船底部と竪板は木組みで、舷側板はさくらの皮(黒いテープ状のもの)をつかって繋いでいた。隙間はマキハダを打って水漏れを防いでいた。

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 船内は後ろ向きに立って櫂を漕ぐようになっている。固定の舵は平安時代までないのでこの当時は大きめの櫂で操船していた。
 命名・進水式は日本海の造船所で行われたので展示用とはいえ、ちゃんと船首と船尾に係船ビットが設けられているのが面白い。でも、船底材と曲がった船首材を結合する役目もあるのかも知れない。

 復元船の原木は直径2m、樹齢800年くらいのベイマツを使っているという。本来はクスノキでしょうが、もうこんな大きな材は手に入らないでしょうね。しかし、時代設定が三韓時代の朝鮮半島なのでクスノキやベイマツは生えてないが太いマツはあったと思うなぁ。

 ちなみにこの復元船を建造中の様子がネットワーク広場の映像ブースのビデオで見ることが出来ます。

【関連記事】:古代の大海戦 白村江の軍船は?

【参考Web】:1.アメノヒボコ
【参考Web】:2.兵庫県立考古博物館
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by pac3jp | 2010-05-11 16:21 | 歴史・民俗  

和船Ⅰ・和船Ⅱ 石井謙治著

c0041039_18191830.jpg ボクは古書や一般書籍は手軽な「アマゾン」で買っている。でも、「海や船」の本は昔から神戸・元町の海文堂書店まで出かけて買っている。先週末、左の海事史家・石井謙治さんの著書を2冊買ってきた。

 我家の小さな書棚には西洋帆船について書かれた杉浦先生の「帆船 その艤装と航海」「帆船史話」などはあるが和船に関する本は何故か一冊もない。明治以降、政府は江戸時代に活躍した日本形帆船「弁才船」は構造・性能ともに西洋帆船に較べて劣っているという間違った認識を世間に示してきた影響かもしれないなあ。
 でも、内航船の弁才船を黒船などの外航船と構造・性能だけで較べるのはおかしいと思う。

 最近、古代の復元遣唐使船を国内外で2隻も造っている。史料が乏しい中、豊かな想像力で補い建造されているが、大分前に豪商・高田屋嘉兵衛が建造した「辰悦丸」を復元した時の話がこの本にのっていた。

 当時は大きなニュースになっていたがもう内容は忘れてしまっていたが、

▽辰悦丸フィーバー(陸奥新報)
 昭和61年(1986)、外観を木造和船風(鉄鋼船に板張り)に復元した北前船「辰悦丸」が、大阪市から北海道江差町まで、往時の北前航路を走破した。引き船に引かれての航海だったが、日本海の各地に寄港して大歓迎を受け、その様子はNHKの番組を通して全国に紹介された。続きはこちら


 復元となると元になる古い辰悦丸かその技術史料が必要だが、もう両方ともないので辰悦丸の本当の復元は出来ない。でも便宜上辰悦丸と同時代の千五百石積み弁才船を復元しそれから想像してもらうということになる。

c0041039_18291846.jpg 辰悦丸の実物大の“模型”は全長30m、幅9m、帆柱の高さ20m、帆幅16mだという。当時の千五百石積み弁才船に較べて船体で1割、帆柱は3割も短い、船体は千三百石積み、帆柱は四百石積み、帆幅は六百石積みとなってしまう。それに帆の面積は本物の約半分しかない。
右の帆装図で外枠は実際面積で内側の大きさが復元船の帆の大きさである。
 昔は気が付かなかったように思うが、今↓の画像を見ると確かに不細工だなあ。

 それに予算の関係だろう淡路の寺岡造船所で鋼板の船殻をつくりそこに木を張って復元らしい雰囲気を出しているまがい物だったのに、その船を大阪→北海道・江差回航後、カナダの国際交通博覧会に出されたという。歴史的な帆船を見る目が肥えた欧米人にこの弁才船がどう映るのか海事史家として心配している。
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 実はこの辰悦丸は地元福良の寺岡造船が建造し博覧会に寄贈したもので、建造には元神戸商船大学の松木先生の指導を受けたという。

 この復元?辰悦丸は今でも淡路島の「淡路ワールドパークONOKORO」で公開されている。
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by pac3jp | 2010-03-09 18:41 |  

古代の大海戦 白村江の軍船は?

c0041039_1750745.jpg 「日本と朝鮮半島の2000年」というテレビ番組で古代の朝鮮半島で起こった大海戦「白村江の戦い」の場面に出てくる軍船のCGが気になっていた。

 そんな時、神戸市立博物館で《東アジアから神戸 海の回廊=古代・中世の交流と美》という海や船に関わる展覧会が開催されていたので見学してきた。

 しかし、古代船の記録はなく、古墳などから出土される埴輪や遺物に描かれた船の絵から想像するしかない。

 日本列島では古墳時代から活発になる中国・朝鮮半島との交流に欠かせなかった船が、大阪・奈良を中心にした中小規模の古墳から船形埴輪としてよく出土されている。そしてこれらの古墳の主はヤマト王権中枢に近い実務型の豪族ではないかと考えられている。朝鮮半島・中国との交渉窓口であり時には遠征用の軍船をだす役割も担ったのかもしれないという。

c0041039_14455033.jpg 左画像(1)の埴輪は大阪・長原高廻り2号墳出土の船形埴輪だ。船底部は丸太の刳舟で舷側板を組み上げて2層になって船首と船尾を竪板でふさいで耐航性や積載能力を増やす工夫をしている。

 平成元年に大阪市は考古学・船舶工学など関連学者を動員して可能な限りこの船形埴輪に忠実に準構造船を復元した。この埴輪の櫂をこぐ支点の間隔から船底部の長さを12mと割り出し、寸法比(L/W)と用材から幅を2mと決めたそうだ。

 また、画像(2)西都原古墳からはゴンドラタイプの船形埴輪も出土している。大きな楠材が豊富に取れた古代では船底部は長さ20mで幅2mは充分あったと思われます。ことによると長さ30m、幅3mの可能性もあったと思われる。ゴンドラタイプは古墳時代後期、6世紀にはこちらの方が多くなってきたようだ。どちらの船形埴輪には帆走のための帆柱はなく漕走が主であったのだろう。

 これらの古墳が造られた5~6世紀から百数十年後の飛鳥時代。

 661年、中大兄皇子が滅亡した百済の再興の為の援軍を朝鮮半島に送ることになり北九州から、そして瀬戸内・難波の海からも大勢の兵士を乗せた軍船が朝鮮に向かった。

■第一派:661年5月出発。1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫。豊璋王を護送する先遣隊。
■第二派:662年3月出発。2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
■第三派:1万余人。指揮官は廬原君。(出展:ウィキペディア)

 663年8月、戦場になった朝鮮半島西岸、白村江(はくそんこう)には待ち受ける唐と新羅連合軍の大型軍船170隻、兵力1万2千人。一方倭国軍は軍船800隻、兵力4万余人と圧倒的な兵力で激突したが、たった2日間の戦闘で、倭軍は軍船の半分400隻と兵1万人を失い大敗北したとなっているが、倭軍がどんな軍船で闘ったのか興味があるので少し想像してみる。

c0041039_1448204.jpg テレビのCG(左)は倭軍の軍船は船形埴輪(1)タイプで2層式の準構造船が帆柱に白い帆を揚げて進んでいるものである。波の大きさからみると船の長さは20mはありそうだ。しかし倭国水軍は800隻とかなりの船は集めたが、これほどの船は少く、殆どはもっと小さい運送船のような船だったという説もある。それに、櫂で漕いでいたのにCGにはマストがあり、木綿もないのに白い帆なんて考えられないなあ。

c0041039_15111756.jpg それでも追風の時は風を利用していたとするならば右の画像のように両舷に帆柱を立て、その間に「むしろ帆」を揚げていたかもしれない。
(右画像は江戸時代にアイヌ民族が用いた舟)

 大海戦なので旗艦にはジャンク型の遣唐使船のような構造船がいて指揮をとっていたと考えたいが、倭国にはまだそのような渡海船の建造能力はなかっただろう。
 しかし、白村江の戦いの前に倭国は遣唐使船を派遣しているが、それは航海が易しい北路をとっているので準構造船でも充分航海できたはずだ。それに対して、大きく版図を広げようとしていた唐はすでに外征用の大型渡海船を多数持っていたといわれている。

【参考Web】1:白村江の戦い 『ウィキペディア(Wikipedia)』
【参考Web】2:神戸市立博物館 特別展「海の回廊」 
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by pac3jp | 2010-03-02 14:59 | 歴史・民俗  

二隻の復元遣唐使船が日中で建造中!

 角川財団が2010年の中国・上海万国博覧会に原寸大の復元遣唐使船を派遣するというニュースは聞いたことがあったが、4月24日から開催される奈良の平城遷都1300年祭の平城京歴史館の付属施設としても同じく原寸大で建造中だという。

 同時期に二隻もの復元遣唐使船が建造されるのは多分初めてだろう。角川財団は中国・蘇州で、奈良・平城京では伊豆・松崎で作られた船体ブロックが平城京跡で組み立て中である。

c0041039_17382658.jpg まず、角川財団の日中文化交流と友好のシンボルとして遣唐使船を再現しようという2億円プロジェクトの遣唐使船から見てみる。

 完成予想図の船体は青く塗られ、まさに中国ジャンク船のようである。船体は長さ30m、幅9.6mで、日本で設計し、中国の張家港で建造されている。

 船体は確かに船であり、もう外板が張られてデッキに屋形が建築中なのが見えている。工事現場に作業員のバイクや自転車が置いてあるのが中国らしい?
 この遣唐使船は今年5月にゆかりの地である大阪で出港式典を行い出港し、瀬戸内海から博多、長崎・福江島へ、ここでデッキ積みされ東シナ海を渡り中国に入る。そして6月11日に上海万博会場に入港する予定。その後13日から18日まで開かれる上海万博「日本ウイーク」のイベントに参加する予定。

c0041039_1739743.jpg 一方、平城京跡で建造中の遣唐使船の完成予想図は「吉備大臣入唐絵巻」など当時の様子が描かれた数少ない絵巻物を参考に考察を重ね、設計図を作製したといわれている。そのせいか色合いなども広島・倉橋島の復元遣唐使船によく似ている。しかし、キールがないようので船舶としては設計されていないようである。

 船の大きさは木造で排水量約300トン、積載量約150トンと想定し、長さ30m、最大幅9.6m、高さ15mで中国で建造中の船と同じサイズになっている。それにこちらの総工費も2億円だという。


 8世紀以降の遣唐使船は東シナ海を通る南路を航海したので準構造船では危険なので朝鮮半島や中国から入ってきたジャンク系の構造船を使ったと思われるが当時の史料がなく、復元遣唐使船を建造するには、やむを得ず、12~13世紀に描かれた法隆寺の「吉備大臣入唐絵巻」などを参考に設計されているが、その絵が2~3世紀も昔の正しい姿を写しているとは決して保障できないという。

 いつの日か考古学者が本物の遣唐使船を発掘するかもしれませんが、それまでは手に入る史料を元に想像力をに膨らませられる自由があるのも幸せなのかな・・・。

 下の画像は復元遣唐使船の設計者がよく参考にする、《吉備大臣を乗せた遣唐使船》 12世紀末から13世紀初めの作とされる「吉備大臣入唐絵詞」より

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【関連記事】:遣唐使船の島 広島・倉橋島
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by pac3jp | 2010-02-16 17:58 | 特殊船  

バイキングの太陽コンパス

c0041039_17101978.jpg 磁気コンパスもなかった今から一千年もの昔、アメリカ大陸を最初に発見したといわれるバイキング達はどのようにして太洋を航海していたのかとその航海術を解明するテレビ番組があった。

 ノールウェーのべンゲルから北海を渡り400km先のシェトラント諸島までの北海を復元した大型のヴァイキング船「クナール」に乗り組み古代の航海術で航海するのだ。ナビゲーターには英国の「サー」の称号を持つ有名なヨットマン「ロビン ノックス-ジョンストン卿」が乗っている。そしてその針路を決めるのはバイキングの「太陽コンパス」だった。

c0041039_17115749.jpg 太陽コンパスの発見は1948年デンマークの考古学者がグリーンランドの遺跡から用途の分らない16個の目盛りがついた木製半円盤を発掘したことから始まった。最初はコンパスカードなどの方位板ではないかと研究され「ヴァイキングの航海」という本に纏められたが、当時は否定的な意見が多く結論にはいたらなかった。その後、30年がたち、1978年スウェーデンの天文学者が興味を持ち調べた結果、半円盤の表面についていた引っかき傷がノーモンの線であるという確証をえた。

c0041039_17131259.jpg この線は日時計の中心の棒(Gmonom)の先端が描く軌跡であり、ノーマン線がノーマンに最も近い時の影は南北を示すことになる。これを基準として方位が定められるから、この線を持っていれば、この円盤を水平に置き、ノーマンの影の先端がノーマン線に接するようにすればその影の方位が太陽の方位を示すことになるのだ。

 このノーマン線はこのコンパスを使用する海域の緯度と太陽赤緯それにノーマンの高さによっと異なるから、季節、場所によって多くの曲線群が用意されなければならない。

 太陽コンパスを実証するためにデンマーク国立博物館のアドバイザーだったテアンド船長が自作のコンパスで海上実験した。特に1991年、3隻の復元ヴァイキング船が大西洋を横断した時、この太陽コンパスも使われ良好な成績を収めた。

c0041039_1715586.jpg また、今回のナビゲーターだったジョンストン卿は彼の「スハイリ号」でグリーンランドへの航海にもこのコンパスを使用した。そして充分に使えるとの確信を得て、その後に行われたカティサーク・帆船レースの会長として2500台もの太陽コンパスをデンマークのテアンド船長に発注して各艇に使用させた。このようにしてこの遺物は確かにバイキングが使った太陽コンパスであり、充分実用に耐えることが証明されたのである。

 現在の天測では時間に対応する太陽の高度方位角の計算を行うが、太陽の高度に対応するノーモンの影の先端の軌跡を描けば、それが、ノーマン線となる。今考えれば我々が日常行っている計算と同じことをバイキングはアナログ的に実行していたわけで、この太陽コンパスの精度のよいのは当然である。(航海技術の歴史物語 飯島幸人著 より)

c0041039_1721960.jpg また、バイキング達はいくつかのサガ(北欧中世の散文物語)のなかにグリーンランドへの水路誌のようなものもあり、それには島の形状、浅瀬の場所、海流の性質や海洋生物の存在など、船乗り達が幾世紀にもわたって語り継いできたものをまとめたものようだという。

 しかし、バイキングがこのような太陽コンパスを一千年前に使っていたことが分ったのが、つい30年前だったいうことが意外だったなあ。
 でも、大西洋をオープンボートに乗り、太陽がでない雨の日も星が見えない白夜もあるのだ。そんな太洋をコンパス一つで渡ってゆくのは大変な勇気がいったでしょうね!!

【参考Web】:サー ロビン ノックス-ジョンストンさんのHP
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by pac3jp | 2010-02-11 17:26 | シーマンシップ  

弁才船の帆走 Part2

 前の記事にある2枚の船絵馬をどうご覧になりましたか? 一見どちらも追風帆走のように見えますが、上の船の帆は右舷船首寄りの風を受けています。そのため風上になる帆の前部(ラフ)から船首方向に数本の両方綱が引かれているのがかすかに見えます。
 と、言うことで上の船絵馬が逆風・横風帆走中の弁才船です。下の船絵馬は両方綱が後に回っているので追風帆走です。

 因みに弁才船の積載量は本帆の反数で大体決まっています。上の船絵馬の本帆の反数(細長い部分)を数えてみると28反帆だったのでこの船は1300石積で、下は22反帆なので700石積という具合になります。

c0041039_16554092.jpg 弁才船の風上帆走性能については当時の船頭の航海記録などによると60度まで上ることが出来ると書かれているそうだが、「なにわの海の時空館」の復元・菱垣廻船「浪華丸」(25反帆の1000石積)で実際の性能を大阪湾で検証したときには70度まで上ったとされている。(左画像上)

 帆船の逆風性能にはリーウェイをどう押さえるかが問題だが、時代と共に大きくなってきたあの巨大な舵(1000石積で6畳敷大)もキールのような効果があったという。

 普通のヨットでは最大45度風上に進むと次はタッキングして反対タックで風上方向に向いながら風位の方向に進んでいくが、積荷を満載した上に上り角度も悪い弁才船はタッキング(上手回し)はしないそうで、ウエアリング(下手回し)でタックを入れ換える効率の悪いマギリ航法になる。
 白石一郎の海洋時代小説では上手回しの場面も出てきたように思うが、かなり海の条件がよくないとタッキングはできないのかもしれない。

 ボクも強風で波の悪い海をクルージングしているとき、安全を考え、ジャイブ回りで風上に向かうことも度々あった。でも帆走性能がよいレーシングヨットに乗っていたらボクでも絶対しませんね。

c0041039_16594578.jpg 画像左は「浪華丸」が右舷後方からの強風を受け、7ノットで追風帆走しているショット。帆船が一番よく走る風だが船首が低く甲板の防水が弱い弁才船が波の高い海を航海するときは大変だったのだろう。

c0041039_1703156.jpg 以前は弁才船である菱垣廻船や樽廻船が一枚の大きな帆だけで帆走していると思っていましたが、実際に速さを競う番船ではスピードや操船上必要な各種の補助帆を用いていたようで、右画像は19世紀中頃、「新綿番船船出帆図」に描かれた総帆を揚げた新綿番船。一番前の弥帆・中帆・伝馬帆・副帆・艫帆と目一杯帆をあげている。


【参考資料】1:なにわの海の時空館
      2:日本の船 和船編 安達裕之著
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by pac3jp | 2009-04-06 17:11 | 帆船  

遣唐使船の島 広島・倉橋島

 久し振りに神戸・元町の海文堂書店に寄った折、二階の海事関係の書棚で小さなタウン・マガジンを見つけた。雑誌名は「港町から」そして「瀬戸内海 倉橋島」を特集した創刊号のようだ。副題に遣唐使船の島と書かれている。

c0041039_13571620.jpg 倉橋島は九州方面クルージングの途中で数回寄港したことがあり、そこには古くは遣唐使船を建造してきた古代から木造船に関わってきた島の歴史が展示されている「長門の造船歴史館」があり、施設の中央には復元された遣唐使船が展示されていた。
(画像は復元遣唐使船の模型)

 遣唐使船は奈良~平安時代の1200年も昔、平均して一隻に150人が乗り組み4隻船団で600人が南シナ海を渡っていったと聞いていた。それを見て、150人乗りとしてはボクの想像よりもずっと小さかったが船体のつくりが立派なのが驚きだった、それに遣唐使船の派遣が菅原道真の建議で中止になってからその造船技術は全く途絶えてしまったという。そんな資料が乏しい古代の船舶をどのようにして復元したのだろうとズーッと思っていた。

 そんな疑問も見つけた小さな雑誌でみんな解消した。

この↓復元遣唐使船は20年前「'89海と島の博覧会・ひろしま」のメイン展示物として建造された。
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長さ :25m
幅  :7m
帆柱高:17m 
平成元年(1989年)建造

 「一枚の絵巻から復元した遣唐使船」には 設計及び建造監修者 松木 哲さん(神戸商船大学教授=当時)に取材した記事があり設計の意図も分かった。絵巻は吉備真備が乗った遣唐使船を描いた有名な法隆寺の絵巻「吉備大臣入唐絵詞」のイメージで外観は設計された。船の大きさは、一人寝るには畳み一畳は必要というところから100人~120人が同時に寝るとすると大体25m位の大きさになる。当時の中国船も凡そ25m位だったのでそれにも倣った。

 船体構造については、遣唐使船も前期は壱岐・対馬から朝鮮半島の沿岸を航海できたので内海用でも良かったが、白村江の戦い以降は友好国だった百済が新羅に破れたので外洋を航海し、唐に直行しなくてはならなくなり遣唐使船は耐航性のある構造船に変わっていったと考えられる。

c0041039_13585415.jpg 最初、復元船は展示物なので一番大事なのは外観だ、ということで内部構造は地元の船大工さんが手馴れた木造機帆船の構造になった。そして建造は桂浜の洋式ドック跡(画像右)で始まった。
 この建造を取り仕切った船大工の棟梁はフレームは全て檜、外板は杉、それも最高の日向弁甲を選び、棟梁以下船大工12名、槙皮職2人、帆職人、宮大工など17名のスタッフで8ヶ月にも及ぶ建造に取りかかった。

 やがて、船がドックでその姿を現せてくると展示物は海に浮かべようということになり本物の船になってしまった。その時期、広島で和裁教室を開いていた女性から「自分の70歳の記念に当時の衣装を全部作って差し上げましょう」という申し出があり、わざわざ京都まで調べに行って正一位から漕ぎ手までの衣装を作ってくれた。
 そして、はれて進水の日を迎え、鮮やか船体を海に浮かべ会場に向け出航するときには、古式豊かな古代の衣装に身を包んだ関係者達をのせ瀬戸内海を航海していった。船上には最高位、性一位に衣装に太刀を佩いた設計者の姿もあった。

 そんな復元遣唐使船も今は倉橋町の「長門の造船歴史館」に保存展示されていて、地元は遣唐使船と倉橋に関する歴史と文化を「くらはし遣唐使まつり」などで次代に伝承してゆくという。


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【参考資料】:「港町から」第1号 08年10月30日発行 株式会社 街から舎
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by pac3jp | 2009-02-25 14:18 | 特殊船