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技術革新だった「松右衛門帆」

c0041039_94282.jpg 弁才船の帆は最初、莚帆(むしろほ)だったが、帆走を常用しつつあった17世紀中期以降、薄い木綿布を2枚重ねて太い木綿糸で刺し子にし、それを縫い合わせてた「刺帆」(画像右側)が用いられるようになっていたが、この帆は製作に手間がかかりすぎる割には強度不足で帆がよく破れるという大きな欠点を持っていた。

 18世紀後期、播州高砂の船頭、松右衛門がその廻船乗りの経験を踏まえ弱い木綿の刺帆から“帆布の技術革新”というべき地元の播州木綿を使った厚地大幅物の新しい織帆を織機の改良など苦心を重ねながら開発した。
 それが「松右衛門帆」(↑画像左側)といわれ、価格は刺帆の2倍もしたが開発から僅か30年余りで全国の主要な廻船は殆どこの帆を装備しているという風に急速に普及した。それは丈夫さから来る耐用年数の増大や手入れに対する費用の低減が値段の高さを補って余りあったからだろう。
 それに帆の強度が増したおかげで刺帆では走れなかった強風でも普通に航海できるようになり、風待ちが大幅に減りそれが航路の航海所要時間の減少という大きな効果になって出てきた。

 そんな革新的な帆布を開発した「工楽 松右衛門」が高砂の人だとは知っていたが、高砂神社に銅像がありご本人が住んでいたお屋敷も現存すると聞いたので週末に見学してきた。

c0041039_983351.jpg 丁度ボクの義妹が高砂の同じ町内の出身なので情報を聞いてみると、工楽松右衛門さんのご子孫と小学校以来ずっと同級だったと教えてくれた。そしてお屋敷には玄関を入ると天井にご先祖が乗ったのか立派な駕篭が吊ってあったし、珍しい道具もあった。またお庭もキレイに手入れされていたと遠い昔の思い出を話してくれた。そして、お屋敷の外壁には和船の船板が張られているのですぐ分るとも教えてくれた。

 「相生の松」で有名な高砂神社の境内にある工楽松右衛門の銅像は意外に小柄な人物で、苗字帯刀を許された2本差しが左手に図面の様な巻物を持ち現場で工事の指図をしている姿だ。表情は船頭から実業家にそして港湾エンジニアへと創意と工夫で華麗に変身してきた人の厳しい目付を持っている。

c0041039_9104652.jpg 旧工楽邸は高瀬船の棚板らしい外壁なのですぐに分ったが、もうかなり前から無住の家のようで、母屋は軒のカワラが落下するので注意を促す張り紙がしてあるし、幾つもある土蔵などはもう朽ちて崩れかかっている。
 近くにも古いお屋敷はあるが、外壁に船板を張り付けた家はない、晩年には地元の港や舟運にも関わってきたことが加古川を行き交った高瀬舟の棚板がそれを物語っているように思いますね。

工楽 松右衛門 略歴(くらく まつえもん 1743年 - 1813年) 
■1743年(寛保3年)、播州高砂(兵庫県高砂市東宮町)の漁師の長男として生れ、幼少から創意工夫が得意であった。帆布(松右衛門帆)などの多くの発明した。松右衛門帆の利益により船持ち船頭になる。
■1790年(寛政2年)、江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ着手する。
■1802年(享和2年)、松右衛門の功績を賞して幕府から「工楽(工夫を楽しむの意)」の姓を与えられた。
■1804年には函館にドックを建設した。
 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)

【参考Web】:兵庫県と北方領土
【参考文献】:和船Ⅰ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2010-03-23 09:13 | 歴史・民俗  

弁才船の舵

 明治以来、西洋船に較べ弁才船が荒天時の耐航能力が劣るのは巨大な舵が引き上げ式になっているのも弱点の一つだといわれていた。

 しかし、和船は昔から大きな川の河口港や静かな湾奥の港などを多く利用していたので必然的に港は水深が浅かった。そんな港では大型の廻船は満潮だと出入りが出来るが干潮だと船底が海底について動けなくなる。幸い弁才船の船底は平たいのでそのまま海底に座っているが、舵は船底より深いのでそうは行かない。

 そんな日本の港湾事情から港に入ったらすぐに舵を引き上げるということは、浅い港の多さが生んだ船乗りの知恵だということになっている。
 江戸時代には桟橋に廻船が横付けなんてことはなく、天下の江戸ですら品川沖で沖懸かりしていたし、近世最大の港湾都市大坂でも安治川や木津川に入って碇泊していたから荷役はすべて瀬取船で行っていたのだ。

 下の図が江戸時代における弁才船の舵の変遷である。
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 17~18世紀初めまでの舵の面積は軍船などと同じくらいの大きさだった。(右端、帆と櫓走を併用していた時代)
 18世紀以後、弁才船の帆走専用船化が徹底するにともない舵面積が大きくなり、やがて19世紀中頃(幕末頃)には左端のように巨大化していった。

 舵の大きさは1000石積では身木(ラダーシャフトの部分)の太さは鷲口(船床梁の凹部)にはまる所で直径50Cm 、長さは約10m、1800石積みでは長さは12mに及んだ。身木の下半部に羽板がありその下の桟の長さが1000石積では3mでその面積は6畳敷きの大きさになる。

 この大きな舵面も操縦性の必要があって大きくなってきたのだ。内航船だった弁才船は微風でも狭い入り口の河口港や港に曳き船なしに入出港する必要があり、そのためには操縦性の確保が一番だった。それに逆風時には頻繁に間切り航行をしたので横風帆走時のリーウェイの防止にも効果があったという。

 舵面が大きくなると操舵が重くなるのが欠点だが、図を見ると時代と共に身木が曲がってきている。それによって現在のバランスド・ラダーのように操舵力を軽減する方法が考えられている。確かに舵面の身木の前にもバランス分がついている様である。
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 上の画像は1500石積以上の北前型弁才船の帆柱から後、艫の部分だが人間の大きさと舵の身木の高さとそこから伸びる舵柄の長さにも驚く。
 こんな巨大な舵は直接舵柄を持たずに滑車と轆轤で操船したのでしょうね。

 レーシングヨットのラダー形状は大きな物から段々と細く、そして長くなってきたようだが、内航用帆走貨物船の弁才船は小さい舵から段々大きくなってきたんですね。
 そんな巨大な舵をもつ船に新酒を満載して西宮から江戸への一番乗りを競う新酒番船での過去最高は寛政2年(1790年)の57時間、平均6.6ノットだったという。重い酒樽を満載し、北西の強風をうけて2日ちょっとで江戸まで突っ走っていますが、甲板での操船はさぞ大変だったろうと想像しますね!!


【参考文献】;和船Ⅰ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2010-03-20 13:28 | 帆船  

和船Ⅰ・和船Ⅱ 石井謙治著

c0041039_18191830.jpg ボクは古書や一般書籍は手軽な「アマゾン」で買っている。でも、「海や船」の本は昔から神戸・元町の海文堂書店まで出かけて買っている。先週末、左の海事史家・石井謙治さんの著書を2冊買ってきた。

 我家の小さな書棚には西洋帆船について書かれた杉浦先生の「帆船 その艤装と航海」「帆船史話」などはあるが和船に関する本は何故か一冊もない。明治以降、政府は江戸時代に活躍した日本形帆船「弁才船」は構造・性能ともに西洋帆船に較べて劣っているという間違った認識を世間に示してきた影響かもしれないなあ。
 でも、内航船の弁才船を黒船などの外航船と構造・性能だけで較べるのはおかしいと思う。

 最近、古代の復元遣唐使船を国内外で2隻も造っている。史料が乏しい中、豊かな想像力で補い建造されているが、大分前に豪商・高田屋嘉兵衛が建造した「辰悦丸」を復元した時の話がこの本にのっていた。

 当時は大きなニュースになっていたがもう内容は忘れてしまっていたが、

▽辰悦丸フィーバー(陸奥新報)
 昭和61年(1986)、外観を木造和船風(鉄鋼船に板張り)に復元した北前船「辰悦丸」が、大阪市から北海道江差町まで、往時の北前航路を走破した。引き船に引かれての航海だったが、日本海の各地に寄港して大歓迎を受け、その様子はNHKの番組を通して全国に紹介された。続きはこちら


 復元となると元になる古い辰悦丸かその技術史料が必要だが、もう両方ともないので辰悦丸の本当の復元は出来ない。でも便宜上辰悦丸と同時代の千五百石積み弁才船を復元しそれから想像してもらうということになる。

c0041039_18291846.jpg 辰悦丸の実物大の“模型”は全長30m、幅9m、帆柱の高さ20m、帆幅16mだという。当時の千五百石積み弁才船に較べて船体で1割、帆柱は3割も短い、船体は千三百石積み、帆柱は四百石積み、帆幅は六百石積みとなってしまう。それに帆の面積は本物の約半分しかない。
右の帆装図で外枠は実際面積で内側の大きさが復元船の帆の大きさである。
 昔は気が付かなかったように思うが、今↓の画像を見ると確かに不細工だなあ。

 それに予算の関係だろう淡路の寺岡造船所で鋼板の船殻をつくりそこに木を張って復元らしい雰囲気を出しているまがい物だったのに、その船を大阪→北海道・江差回航後、カナダの国際交通博覧会に出されたという。歴史的な帆船を見る目が肥えた欧米人にこの弁才船がどう映るのか海事史家として心配している。
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 実はこの辰悦丸は地元福良の寺岡造船が建造し博覧会に寄贈したもので、建造には元神戸商船大学の松木先生の指導を受けたという。

 この復元?辰悦丸は今でも淡路島の「淡路ワールドパークONOKORO」で公開されている。
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by pac3jp | 2010-03-09 18:41 |  

弁才船の帆走 Part2

 前の記事にある2枚の船絵馬をどうご覧になりましたか? 一見どちらも追風帆走のように見えますが、上の船の帆は右舷船首寄りの風を受けています。そのため風上になる帆の前部(ラフ)から船首方向に数本の両方綱が引かれているのがかすかに見えます。
 と、言うことで上の船絵馬が逆風・横風帆走中の弁才船です。下の船絵馬は両方綱が後に回っているので追風帆走です。

 因みに弁才船の積載量は本帆の反数で大体決まっています。上の船絵馬の本帆の反数(細長い部分)を数えてみると28反帆だったのでこの船は1300石積で、下は22反帆なので700石積という具合になります。

c0041039_16554092.jpg 弁才船の風上帆走性能については当時の船頭の航海記録などによると60度まで上ることが出来ると書かれているそうだが、「なにわの海の時空館」の復元・菱垣廻船「浪華丸」(25反帆の1000石積)で実際の性能を大阪湾で検証したときには70度まで上ったとされている。(左画像上)

 帆船の逆風性能にはリーウェイをどう押さえるかが問題だが、時代と共に大きくなってきたあの巨大な舵(1000石積で6畳敷大)もキールのような効果があったという。

 普通のヨットでは最大45度風上に進むと次はタッキングして反対タックで風上方向に向いながら風位の方向に進んでいくが、積荷を満載した上に上り角度も悪い弁才船はタッキング(上手回し)はしないそうで、ウエアリング(下手回し)でタックを入れ換える効率の悪いマギリ航法になる。
 白石一郎の海洋時代小説では上手回しの場面も出てきたように思うが、かなり海の条件がよくないとタッキングはできないのかもしれない。

 ボクも強風で波の悪い海をクルージングしているとき、安全を考え、ジャイブ回りで風上に向かうことも度々あった。でも帆走性能がよいレーシングヨットに乗っていたらボクでも絶対しませんね。

c0041039_16594578.jpg 画像左は「浪華丸」が右舷後方からの強風を受け、7ノットで追風帆走しているショット。帆船が一番よく走る風だが船首が低く甲板の防水が弱い弁才船が波の高い海を航海するときは大変だったのだろう。

c0041039_1703156.jpg 以前は弁才船である菱垣廻船や樽廻船が一枚の大きな帆だけで帆走していると思っていましたが、実際に速さを競う番船ではスピードや操船上必要な各種の補助帆を用いていたようで、右画像は19世紀中頃、「新綿番船船出帆図」に描かれた総帆を揚げた新綿番船。一番前の弥帆・中帆・伝馬帆・副帆・艫帆と目一杯帆をあげている。


【参考資料】1:なにわの海の時空館
      2:日本の船 和船編 安達裕之著
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by pac3jp | 2009-04-06 17:11 | 帆船  

弁才船(べざいせん)の帆走

 江戸時代の寛文年間に河村瑞賢により東回り、西回りの航路が開発され各地の年貢米が海上輸送で大坂・江戸にと大量に運ばれるようになってきた。その後、物流の増加で大坂と江戸を結ぶ航路には菱垣廻船やお酒を専門に積み込む樽廻船など大型の弁才船が競って運航するようになり、大消費都市・江戸を支える物流の大動脈になっていった。

 船が帆走で競えばレースになるのは今も昔も同じで、江戸時代から明治時代の初期まで毎年行われていました。菱垣廻船の新綿番船と樽廻船の新酒番船がそれで、到着の順番を競うところから当時は番船を「ばんぶね」とよんでいた。番船は順位が賭けの対象になるほど人気を集めた年中行事でした。

 特に樽廻船は我々の地元兵庫・西宮沖から一斉に出帆し、江戸・品川までを競う。その船頭に切手を手渡す切手場周辺はで大勢の見物人でにぎわったそうです(絵にもよく描かれている)。船頭が切手を受け取り西宮沖に碇泊する番船に力一杯に漕ぎ戻り、出帆となりレースは始まる。
 過去に一番早かった新酒番船は寛政2年(1790年)の57時間、平均6.6ノットだった。18世紀に入ると5日前後の記録はざらだったという。ヨットレースと大きく違うところは貨物を満載している状態で走らせていることで、この番船が弁才船の帆走技術の向上に大きな刺激を与えたことは間違いないでしょうね。

 横帆船は逆風帆走は出来ないなどの風評もあったが、現代の復元・菱垣廻船「浪華丸」の試験航海では風に対して70度まで上ったという記録もあるし、当時でも風上への間切り帆走も行われていたという。

 所で、下の2枚の船絵馬をご覧になりどちらが詰開き(上り)帆走かお分かりになりますか。この絵は当時有数の船絵師が描いた船絵馬で正確に書いてあるということです。当然、もう一方は追風帆走です。

 ヒントはセールの左右にある両方綱の取り方に注目。
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 弁才船は一般的には千石船とも呼ばれていて、一千石のお米を積載出来る船で、もう18世紀中頃の幹線航路では普通のサイズとなっている。
 その後、年とともに大型化が進み幕末の19世紀中期には1500~2000石積みの船も珍しくなくなってくる。ボクが持っている千石船のイメージは復元された千石船「浪華丸」くらいのサイズだが、実際に幕末から明治にかけて内航の幹線航路で運航されていた弁才船はその倍も大きかったわけだ。

 明治の頃の写真をみて大きさと貨物の積み方にびっくりした。

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 写真の説明には、北前型弁才船で1357石積の八幡丸。日露戦争中(1904年)にロシアの水雷艇に撃沈されたとある。


【関連記事】:合いの子船 

【参考資料】:日本の船 和船編 安達裕之 著 船の科学館
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by pac3jp | 2009-04-04 17:20 | 帆船  

「合いの子船」

 瀬戸内海は昔から海運が盛んだった。クルージングで各地の島を訪れると当時の海運や造船に関する資料が集められた資料館・博物館が方々にある。広島県倉橋島の長門造船歴史博物館で探していた「合いの子船」の模型を見つけた。

c0041039_9462367.jpg 「合いの子船」の名前を初めて聞いたのは十数年前だった。有名なヨット「春一番」の野本先生から瀬戸内の物流を研究するテーマのアドバイスを頂いた友人のA先生からお聞きした。この船とこの船が活動した時代の物流の研究者は少ないらしいともお聞きした。

ボクも旧知で年配の港湾ジャーナリストに問い合わせしたりしていたがよく判らず、ずっと気にはなっていたが先日偶然にも模型が展示されているのを見て、探していた船のイメージが掴めて嬉しかった。



昭和初期まで活躍した和洋折衷型帆船「合いの子船」

 江戸時代を通じて、日本の内航海運の中心となってきた弁才船(べんざいせん)に代表される和船は、明治維新後の海運近代化によって消滅したと考えられがちだ。ところがこの和船、じつは帆装を西洋式に変えた和洋折衷の「合いの子船」として昭和初期まで活躍し続けていた。
 維新後、明治政府は、和船、すなわち日本型帆船から西洋型帆船への転換による内航海運の近代化政策を推進しようとしたが、北前船主を中心とする日本の内航船主の多くは、これを歓迎しなかった。
 当時、国内での西洋式帆船建造能力は低く、船価は、和船と比べはるかに高かった。さらに当時の和船の性能は、西洋一辺倒の明治政府が考えていたより優れており、あえて西洋型帆船に切り替えるメリットがなかったのである。
 それでも、500石以上の大型船の建造を禁止するなど和船退治に力を入れる政府に対して、内航船主がとった抵抗策が合いの子船だった。
c0041039_9524248.jpg ベースは日本の船大工の技術で建造できる和船様式ながら、西洋式の帆装を積極的に取り入れた合いの子船の性能は、内航船としては、西洋型帆船を凌ぐものさえあった。
 結局、こうした抵抗に政府は匙を投げ、合いの子船は大正時代から昭和初期まで日本の内航海運界で活躍し続けることになる。それは江戸時代以来の和船の伝統を受け継ぐ船大工たちと、政府の圧力に屈せず、あくまで経済合理性を貫いた内航船主たちの知恵と努力の勝利といえるものだった。       
         ( 日本船主協会 海運雑学ゼミナールより)



 上記の文は船主から見た論評であるが、政府は和船建造禁止の規制を200石以上とより厳しくし、安全で強度のある西洋型帆舶に転換に転換させようとしたが、やがて時代は移り、大型の内航船も鉄製の汽船になり、合いの子船は次第に姿を消し、和船構造の船は小型の機帆船や漁船等が造り続けられてきたようだ。

 この話の発端の友人は資料を集め検討・実地調査・検証し、論文に纏めるなんて事が得意な方なので、いずれ自由な時間が出来た暁にはしっかり纏めて、面白いお話と共に我々にレクチャーしてくれる事を楽しみに待っていようと思っている。
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by pac3jp | 2006-05-26 09:59 | 帆船