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日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」

先日、神戸・元町の海岸通りに全日海が運営する「戦没した船と海員の資料館」の見学に行った。

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日本は昭和16年12月8日から米・英・蘭・中など連合国を相手に太平洋戦争を始め、敗戦までの3年9か月に及ぶ長期間、日本近海を始め太平洋や遠くインド洋でも戦いました。陸海軍艦船は勿論ですが、民間の商船も多数徴傭され戦争遂行のために働き、多くの船舶が潜水艦や航空機の攻撃で失われてしまいました。その数、凡そ2800隻、乗員は60,608人が命を失いました。そして、資料館はこれら船舶の在りし日の写真が年度別に分類され展示されている。

パネルには一般の汽船が殆どだが中にはアメリカ海軍の軍艦が獲物にするには小さすぎるだろうと思われる遠洋漁船の写真も入っている。

展示物は写真パネルばかりでなくモデルシップもある。ケースの中に空母らしきモデルがある。

以前の記事「旧陸軍が運航する船艇」にも書いたが陸軍が上陸作戦専用に1934年(昭和3年)建造した「神州丸」の発展型で飛行甲板を持つ揚陸艦「あきつ丸」だ。戦没した商船だけが展示されているので何故と思ったが、解説文に日本海運所属 陸軍特殊貨物船とある。
(陸軍は戦時の際に徴用することを前提として海運会社に補助金を出し、上陸舟艇母船を民間籍の商船として建造させている)

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【仕  様】

総トン  :9,433t
全 長  :152m
水線長  :143.8m
全 幅  :19.5m
吃 水  :7.86m
飛行甲板:全長123m
全 幅 :22.5m
機 関  :重油専焼水管缶4基+ギヤード・タービン2基2軸
最大出力:13,000hp
最大速力:21.0kt
乗 員  :
兵 装  :八八式 7.5cm単装高射砲2基(1943年:4基)・三八式 7.5cm野砲10基
      九八式 20mm 単装高射機関砲8基・九六式 25mm単装高射機関砲2基
搭載機  :九七式戦闘機13機・三式指揮連絡機8機・ (輸送任務時には一式戦闘機「隼」等20~30機弱を搭載可能)上陸用舟艇:大発動艇27隻


旧陸軍が上陸作戦用の大型の揚陸艦を開発・保有しようとした背景には、当時の海軍には戦艦・巡洋艦・空母など前方装備の拡充に総力を注ぎ、輸送や船団護衛・上陸支援など地味な艦種の開発をしなかったので必然的に陸軍が受け持つことになったという。
あきつ丸の運用分担は本船の操船は民間の船員が担当し、兵器となる大発動艇や対空火砲は陸軍船舶兵が受け持ち、搭載航空機は陸軍飛行隊が運用したのだろう。

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艤装形態が平時・戦時舟艇満載・飛行甲板装備状態と変更できるようになっていたが、竣工は1942年(昭和17)の戦時中なので飛行甲板が設置されていた。

太平洋戦争開戦直後に竣工した「あきつ丸」は早々に蘭印作戦の第16軍ジャワ島上陸戦にて、第2師団のメラク海岸揚陸の任に当たりこれを成功させた。以降「あきつ丸」は南方各地への輸送任務に就いたが、太平洋戦争後期には陸軍版護衛空母の候補となり、1944年(昭和19)飛行甲板の拡幅・甲板後部デリックの撤去・独自開発の着艦制動装置設置等の改装が行われている。

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あきつ丸の飛行甲板に駐機する三式指揮連絡機2機(画像は上下ともウイッキペディアより)

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三式指揮連絡機(対潜爆雷2個、着艦フック装備)は対潜哨戒能力や離陸距離 49~68m、着陸距離 45~61m(向かい風4m) など123mの飛行甲板でも短距離離着陸性能が良好で低速巡航が可能(Max280㏋で最高速力178km!)なので「あきつ丸」の対潜哨戒用の艦載機に選ばれた。

足が遅いので操縦者はグライダー操縦経験のある特別操縦見習士官第1期出身者にて構成される独立飛行第1中隊が編成され、日本近海で対潜哨戒任務に就くことになった。

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輸送船団の中で航行中の「あきつ丸」の雄姿だが ↑ まだ船尾のマストとデリックがあるので改装前の姿だ。
護衛空母に改装された頃の「あきつ丸」の航空写真 ↓ 

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【あきつ丸の最後】

1944年(昭和19)11月14日0600
ヒ81船団(僚船9隻、護衛7隻)として部隊要員約2500名を乗せ、伊万里湾発マニラに向け東シナ海を航行中、15日1150頃、N33度05分、E128度38分(五島列島福江・長崎鼻北40㎞付近)において米潜水艦SS-393 QUEENFISHから発射された魚雷を左舷船尾に受け、搭載していた弾薬、爆雷が誘爆し船尾が沈下、その後火災が発生し3分後に横転裏返しとなり沈没した。沈没により部隊要員2093名、船砲隊140名、船員67名が戦死。
部隊要員の中には教育総監関係学校卒業者227名が含まれる。 ↓ 図の赤丸は沈没場所

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米潜水艦SS-393 QUEENFISH ↑

この潜水艦は「あきつ丸」を撃沈した4か月半後の1945年4月1日に、米国も航海の安全を保証し安導券を付与した赤十字の救恤(きゅうじゅつ)運搬船阿波丸を魚雷攻撃し、2000人を越す犠牲者を出した「阿波丸撃沈事件」を起こす。
艦長は「不注意」だったと認めて戦後米国から補償がなされた。


※救恤とは:困っている人を救いめぐむことです。そして、救恤船は敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船を指します。船体の表示標識は緑地に白十字です。


下記は戦争が終わった時政府が発表した船舶被害の総数です。

官・民一般汽船  3,575隻
機 帆 船     2,070隻
漁    船     1,595隻
合    計     7,240隻


参考web:1.あきつ丸 ウイッキペディア

     :2.戦没した船と海員の資料館


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by pac3jp | 2014-04-29 17:07 | 歴史・民俗  

進徳丸メモリアル(1)

c0041039_8471742.jpg 神戸高等商船学校の初代進徳丸は華麗な帆船として生まれ、戦争の時代に汽船となりやがて陸に上がり神戸商船大学のモニュメントになったのだが、ボクの通勤コースの道路からもずっと見えていた。
 その後、阪神淡路大震災で進徳丸が倒壊し解体されてしまったことは新聞などで知ったが、被災地域に住居も職場もあったボクはもう自分の事でセイ一杯ですっかり忘れていたが、ある日小さいメモリアル施設に生まれ変わっていることに気が付いた。

 一度は行って見ようと思っていたが先週やっとその機会がきた。

 ボクにとって進徳丸の名はずっと身近な存在だった。それは昔、母からよく聞かされた話があったからだった。

 「戦争中、西岡(集落名)のすぐ沖の進徳丸に毎日のようにグラマンが飛んできて機銃掃射し、船の人がようけ死んだったんよ」、そしてグラマンの不発弾が村のあちこちにばら撒かれ「庭掃除をしていたお寺の人が不発弾の爆発で亡くなったこともあるんやで」と任意欄座した進徳丸の空爆の様子をよく教えてくれた。

 記録にある進徳丸が欄座した位置からボクの実家との直線距離を測定すると半農半漁の小さな部落を挟んで僅か500mほどしか離れていない。グラマンの編隊がもう動けない進徳丸を狙って急降下し、機銃掃射やロケット弾で攻撃する轟音は周囲の住民に恐怖の音として聞こえてきたのだろう。ボクも防空壕のなかでその音を聞いていたはずだが今では全く覚えてない。

戦時中、緊急物資の輸送として石炭輸送に従事していた昭和20年7月24日正午頃、二見沖停泊中、米軍の艦載機の機銃掃射とロケット弾による空爆を受け甚大な被害を被り、沈没を免れるため任意欄座した。この空爆により死亡者6名(実習生5名、乗組員1名)、重傷者6名(全員実習生)の人的被害を被つた。空爆は31日まで続き船体は無数の銃弾を受け全焼した。火災により当時の公式記録はすべて焼失した。二見港沖方位124度、距離420mの地点であった。
終戦1年後の昭和21年(1946年)7月31日に引揚げ作業が始められ、8月19日浮上、8月24日三菱神戸造船所に曳航され、修理が施された。翌昭和22年(1947年)5月30日汽船練習船「進徳丸」が甦った。
(神戸商船大学 海技実習センター年報 第2号 平成13年3月30日より)


 もう日本がほとんど降参していた昭和20年7月、終戦の20日前に、商船学校の練習船を執拗に空爆した米軍も非常識だが、無念にもお亡くなりになった若い学生5名と乗組員1名のご冥福をお祈りします。

【関連記事】:進徳丸メモリアル(2)
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by pac3jp | 2010-08-12 08:04 | 帆船  

戦艦「大和」の木甲板

 分厚い鋼鉄で建造され、砲弾が炸裂する中で活動する軍艦などは可燃物である木甲板など無縁と思っていたが、日露戦争で有名な日本海海戦の連合艦隊旗艦「三笠」の開戦直前の艦橋を描いた絵画を見ると、東郷司令長官や参謀の秋山真之が立っているのは木甲板だった。

 現在の護衛艦は木デッキは勿論、チーク材で豪華に造作した艦長室などもないでしょうね。
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 でも、戦前は戦艦の甲板は帆船時代からの伝統的で、歩きやすさや甲板下の諸室の保温などを考えて水平装甲鈑上には木甲板が張られてきたという。ちなみにハワイにあるアメリカの戦艦「ミズーリ」にも木甲板が張ってある。

 本物の戦艦「大和」も艦首、艦尾を除く装甲甲鈑に台湾ヒノキの木甲板が張られていた。1/10スケールの「大和」はヒノキだと木目の都合が悪いので木目が詰まって色合いのいい「たも材」になったようである。

c0041039_16273568.jpg ←「大和」の木組みを忠実に再現したという木甲板の端部の収まり具合。
 施工した大下棟梁は終戦のころ呉海軍工廠で少年工として働き、戦後は造船所で船大工としてずっと働いてきた人物だという。

c0041039_1630944.jpg 一方、ボクらが乗るヨットでもFRPを成型しただけのデッキより、チークの木甲板を張るとコクピットの座り心地が良かったり、キャビンの暑さや寒さを防いだり、ノンスリップ効果も大きいのでデッキワークの安全度が増すなどクルージングヨットにとって良いことは多い。

 丁寧に木口を収めたバウデッキ付近。小豆島・岡崎造船製のヨットから。(右上画像)

 チーク合板を張ったヨーロッパのプロダクションヨットのコクピット付近、チーク合板の周りは黒い接着剤で防水処理をしてある。昔のチーク合板は評判が悪かったが、この頃のは中々丈夫そうで剥がれてしまったデッキは見かけなくなった。(右下画像)

 デッキ材も色々でヒノキでデッキを張ってある漁船もあるし、スギやベイマツの甲板を張った船舶はあると思うね。でも、豪華客船はきっと素足でも歩ける磨き上げられたチークでしょうね。
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by pac3jp | 2009-09-15 16:36 | ウオッチング  

ROYAL NAVYにもあった偵察機搭載の潜水艦

 毎年8月になると広島、長崎の原爆の日があり、新聞は終戦記念日の特集を組み、63年前の敗戦の記憶を風化させないようにしているようにもみえる。

 先日、戦勝国イギリスのロイヤルネービーの歴史を実写も交えた映像で構成制作されたDVDを見ていて面白い映像を見つけた。

c0041039_122334.jpg それは第2次世界大戦の開戦前かと思うが、巨大な艦砲を装備した潜水艦、盛大な黒煙を吐く罐を持つ潜水艦、それに複葉機を搭載した潜水艦などが次々と映し出されていた。



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 画像右は格納庫から引き出されてきた複葉機、翼はトンボのように後ろに畳まれている。
 画像左は全速力で航走する潜水艦のデッキをカタパルトで発射され、まさに艦を離れようとする瞬間。

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 画像右は偵察飛行を終わり本艦に帰着したところ。艦名は「M 2」。
 画像左は格納庫の上のクレーンで機体を吊り上げ収納しようとする場面。


 潜水艦に飛行機を積み、偵察用途に使う試みは古くからヨーロッパ各国で試みられていたが、これを実戦に取り入れ、ある程度成功したのは日本海軍だけであったといわれる。

 日本海軍は太平洋戦争中、一次、二次と二回にわたり伊25潜水艦から発進した零式小型水上偵察機によってアメリカ・オレゴン州の森林を目標に焼夷弾爆撃を成功させたのだった。その戦果から、攻撃機「晴嵐」3機を積み、潜水空母と呼ばれる大型の伊401潜水艦が建造されたが・・・。


 イギリスがこの潜水艦を造らなかったのは簡単な理由だ。
大西洋も太平洋もアメリカと共に真っ先に制空権を獲得したし、夜間でも索敵できるレーダーを開発、運用したので航空機での偵察は空母発進の高性能偵察機が運用できた。潜水艦に積むため小型で足の遅い水上機を危険を覚悟で偵察運用する必要はまったくなかったからだね。


【関連記事】:アメリカ大陸を爆撃した潜水艦
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by pac3jp | 2008-08-13 12:10 | 映画・演劇  

旧陸軍が運航していた船艇

近くのJMSDF阪神基地に年季の入った上陸用舟艇が停泊していた。
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LSU 4171「ゆら」 基準排水量590t / 全長58m・喫水1.7m / ディーゼル2×2 3000PS / 速力12kt / 20mm機関砲×1

 太平洋戦争が終わってから61年。毎年8月になると当時の話が色々と報道されるが、ボクはこの伝統的なスタイルをもつ小型の上陸用舟艇をみて当時日本軍がした上陸作戦を少しだけ調べてみた。

 戦前の日本の軍隊は敵前上陸作戦は陸軍の受け持ちだった。海軍は輸送船の護衛はするが直接上陸用舟艇で兵士と物資を送り込む任務はしなかったようだ。陸軍が本土から兵士と陸軍が開発した「大発(大発動機艇)」と称する(長さ15m・幅3.5m兵員なら70名、物資だけなら11tが積める)上陸用舟艇を一般商船を徴用した輸送船のデッキに積み、その他全ての物資を船で現地に運んでいた。そして大発などの上陸用舟艇は陸軍工兵隊が運用していた。

 作戦では、輸送船のデッキから大発を降ろし、海上で兵員や物資を積み込む作業をするが、風波がある状況では時間かかるので、陸軍は前もって兵員を大発に搭載したまま母船を発進できる神州丸を1934年(昭和9年)に造った。2000名の将兵を収容する設備と一度に1000名以上の兵員の上陸を可能にした今でいう強襲上陸艦を世界で初めて造ったのである。だが、同型船が実戦に投入されたのは10年後の戦争末期だった。

 日本の敵前上陸作戦は兵員が上陸した後、弾薬、燃料、糧秣等の物資が人力で陸揚げされるのだがその際、リヤカーが大活躍したそうだ。でも海岸に集積された物資は全く敵の攻撃に対して無防備だ。燃料や弾薬にに引火し苦労して運んだ物資が失われてしまう事も多かった。敵対するアメリカは自動車の国である。上陸用の物資はジープやトラック、又牽引用トラクターに引かれて上陸してくる。リヤカーとトラックでは全く勝負にもならない。

 そこで陸軍も海軍も輸送車両や戦車が揚陸できる大型の揚陸艦 LST LSMらを造ることにしたが既に敗色が濃くなってきた時期だった。制空覇権がない海でもう上陸させる戦車も車両もなくなっていたので、その機能を生かす事もなくただの輸送船になってしまっていた。陸軍も太平洋に展開する部隊に補給するため民間の輸送船をつかったが敵潜の雷撃で消耗が激しく最後は自前の潜水艦まで使って物資の輸送をしていた・・・。

 現在、上陸用舟艇の運用は海上自衛隊がやることになっている。LSTは空母型の「おおすみ」クラス(8900t)3隻が主力になっている。戦車と兵員は2隻のホバークラフト(ガスタービン 16,000PS/40kt)で揚陸し、物資はヘリで空輸する。

 画像の「ゆら」は舷側外板のへこみからも想像できるが、このフネは昭和56年の進水だということなのでもう26年も経っているのだ。でも喫水も1.7mと浅く平時の大地震など災害救援にぴったりサイズの輸送艦なので、小回りも効き使い勝手がいいのでしょうね。
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by pac3jp | 2006-09-08 08:55 | ウオッチング  

アメリカ大陸を爆撃した潜水艦


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 呉市の大和ミュージアムでは旧海軍呉工廠で造られた艦船をパネルやモデルで展示している。メインは勿論、戦艦大和だが見学していると伊401号潜水艦のモデルがあった。前方デッキのカタパルトに攻撃機が2機搭載さている。これらの攻撃機でアメリカ本土に爆撃を加えようとする計画で製造された巨大な潜水空母で基準排水量3,530トン、全長122mで航続距離が14ノットで42,000浬。攻撃機「晴嵐」3機を搭載している。
 だがこの潜水艦は戦争末期の昭和20年に2隻が就役したが結局、戦局を変えるような戦力にはならなかった。

 この巨大な潜水艦を計画するきっかけになった戦勲をあげた潜水艦があった。伊25号がアメリカ本土の沿岸砲台を砲撃し、搭載されている水上偵察機がアメリカ・オレゴン州の森林を2回に渡り焼夷弾攻撃をしたのだった。
(伊号第25潜水艦乙型 全長108.7m 基準排水量2108トン 16kn-14,000浬 乗員94名)

 アメリカ本土を直接攻撃する為に風船爆弾を作って、というのは聞いたことはあるが、潜水艦とはいえ軍艦の艦載機で実際に爆撃したとは痛快だ。結果、双方に怪我人もなく火災も大したことなく、アメリカ人がビックリしただけだったが当時の日本人は大喜びしたのだろう。
詳しくは参考ホームページ「アメリカ大陸爆撃物語」をご覧ください。

 大西洋でドイツ海軍は小型のU-ボートを群狼のように使い、英米間の通商破壊に戦果を上げたが、日本海軍の潜水艦は大型で偵察機を搭載したものも多く、運用も艦隊付属で運用されたので輝かしい戦果は少なかったようだ。敗戦直前の大型潜水艦は回天等の特攻潜水艇の母艦として使われていた。

 余談だが、昔、仕事でお付き合いのあった人から「俺は陸軍の潜水艦乗りだった」と話を聞いたことがある。当時は信じられなかったが、南方の諸島で戦っている陸軍将兵に食料や武器の輸送が必要な為、魚雷などの大物兵装のない300トン弱の「ゆ1型輸送潜水艦」を陸軍が運用していたと記録にあった。
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by pac3jp | 2006-05-19 08:34 | 徒然に