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海路図一里の距離は?

 神戸大学海事博物館に所蔵されている江戸時代の海路図のいくつかが電子化されたのに伴いそこに記載されている航海情報から当時の航海術を検証するという市民セミナーを聞く機会があった。

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 上の表は 1826年、紀州藩が海防の必要から作成(写し)したといわれている「自浪速至東都図解」に記載されている海路行程表です。

 ボクは以前から江戸時代の海路図を見ていると航路の方位は12支24方位で、距離は里で表示されているのは知っていたが、この海路図の一里は航海に便利な“海里”にしては数字があわないなあと思っていた。

 一番身近な大阪湾を縦断する大坂川口~紀州加太を見ると13里となっているが現在の海図では28海里になる。但し陸上で使われる1里を約4kmとするとほぼ同じ距離になる。
 表の内、比較的近い湊間はほぼ海図に近い距離が表示されているが、鳥羽~伊豆下田は75里となっているが実際は100海里でかなり長めの距離になっている。
 また「図解」の中には沖乗りの伊豆諸島の利島~三宅島は5里(実は28海里)、三宅島~八丈島は60里(実は62海里)と記入され誤差が大きくなっている。

 正確な海図も速度や距離を計測する計器もなかった頃に陸上の距離や目測、それに長年の経験から判断した距離だが近距離は良く合っているが長距離や伊豆諸島などの離島間では誤差が大きい。

 距離の換算は以下のようになる。

1里=3.927m=2.12海里

 この海路図に表示されている距離と海図の海里を比較すると平均で1.87(海里/里)になり差は 0.25 で経験値にしては精度が良いと説明されていた。(2.12-1.87=0.25)

 昔の廻船船頭さんは殆どが地乗り航海で、海路図などではなく記憶した沿岸の目標をたどるか、あるいは目標を書いたメモで走らせていたのではないかといわれています。また、初めての海域に入る時はその海に詳しいガイドを雇ったといいます。

 1海里とは緯度1分の距離のことなので海図による航法計算がとても簡単になるのですが日本の商船ではいつ頃から“海里”使われ始めたのだろうかと想像してみると、やっぱり航海用にちゃんとした海図があり位置や速度も測れるようになった明治8年、三菱の横浜~上海航路の外航船くらいからでしょうかね。

 江戸時代のきらびやかな海路図は沢山残っていますが、海上で実際に使われることはなく幕府・藩庁などの役所や富豪のお座敷の装飾として存在していたのだろうと思われる。紀州藩のこの図は屏風ではなく折りたたんであるので紀州藩のお役所で実際に使われたのかもしれない。

 つい最近も1821年に幕府に上呈された復元伊能大図を見てきたので「自浪速至東都図解」の紀伊半島部分がコピーかと思って注意深く見たがその海岸線はマンガ的でどうも伊能図のコピーではない様である。


【ご参考に】

里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。1里は1800尺(360歩、6町)四方の面積を表しており、後にこの1辺の長さが距離の単位「里」となった。1尺を30cmとすると1800尺は540mとなる。その後、時代により変動があるが、今日の中国では500mを1里としているので、周代の里に戻ったことになる。

日本では1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになるが、目的地までの里数だけで所要時間がわかるという利点がある。しかし、やはりこれでは混乱を招くということで、江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。明治時代に入り、メートル条約加入後の明治24年(1891年)に制定した度量衡法では、1里=36町とし、それ以外の里の使用を禁止した。 (ウイッキペディアより)

1里=36町=2160間=12960尺=2.12海里=3.927m
1町=60間
1間=6尺
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by pac3jp | 2010-10-17 14:49 | 歴史・民俗  

伊能図のコンパスローズ

 コンパスローズといえばチャートのアチコチに印刷されていて真方位と磁針方位の目盛りが打ってあり、装飾性は一切なく機能のみが正確に記入されたチャートの一部分であるという認識である。

 ところが並べられた伊能図では色合い豊かなコンパスローズがたくさん散らばっているのが目につく。ここではコンパスローズが伊能図をつなぐ合いマークとして使われている。

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    (クリックすると少し大きくなります)
 今回は大図の内、特に色彩豊かで精巧に描かれた長州藩・平戸藩に献納され伊能図副本と言われる大図の周りから撮影したが、他の地方のものもある。明治に複製した図にはこのコンパスローズを丁寧に書いていない図もあるという。

c0041039_6525161.jpg 左上の画像がやや荒っぽく描かれたコンパスローズ。半分より下はきちんと写されているが、上にくる地図の写本の完成度がやや低いのだろう色合いや方位文字の記入がない。

 左下画像は古いハンドベアリングコンパスを撮影した。文字が反転しているのは方位をプリズムで読むからです。

 この伊能コンパスローズを見ていると、つい最近まで使われていた磁気コンパスカードの北には「N」が入っておらずに特徴ある絵柄が配置されていた。これはブルボン家の百合(Fleur-de-Lys)というが、これとよく似たデザインが北を示す位置に描かれている。

 16世紀、ヨーロッパの大航海時代のコンパスにはブルボン家の紋章が既に使われているが、鎖国の日本にも200年前、19世紀初めにはこの紋章が「北」のマークとして地図に描かれていることが面白いですね。
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by pac3jp | 2010-09-18 06:57 | 歴史・民俗  

彎窠羅針(わんからしん)と船磁石

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 伊能忠敬は従来からあった導線法という測量法に交会法と天測をあわせて日本全国を測量した。
 曲がった海岸線を測量するとき、直線の連続になるように梵天をたて、杭を打ち、測線を設定し、その距離と曲がり角の方位を測りながら進んででゆく。距離は間縄や鉄鎖それに歩測も、方位は小方位盤(彎窠羅針(わんからしん)または杖先磁石ともいう)で測る。

 銅像の伊能忠敬が右手に持っている杖先磁石を特別講演で先生は「彎窠羅針」とおっしゃていたのでこの呼び名が正式名だろう。彎窠(わんか)という難しい漢字だがどうも「ジンバル付きコンパス」というイメージのように感じている。

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c0041039_5595773.jpg ↑会場にこの「ジンバル付きコンパス」の複製品が展示してあった。(覗尺は収納状態です)
 方位は十二支で表示されているが目盛りは360度切ってある。でも「逆針」(さかばり)である。この時代に精密な目盛りを切り、磁針の軸受けに水晶を使い、尚かつジンバルに乗ったコンパスは伊能忠敬のアイデアだそうだが中々大したものである。

 ちなみに、1560年にイタリア人が船舶用のジンバルを発明しているので彼は書物などそれを知り応用したのかもしれない。


c0041039_61247.jpg 逆針の磁石といえば和船の船磁石(右画像)を思いつくが測量の分野でも使われていたとはボクの新しい発見だった。
 でも、梵天の角度を測るとき覗きスリットを梵天に合わせ磁針の示す角度を読めば方位が分るので簡単で便利である。
 「逆針」は磁針タイプのコンパスを使い続けた日本独特のアイデアで、一番最初は船乗りではなくやっぱり測量家が考え使い始めたという。

 和船では操舵用として磁石の子-午(北-南)の方向が船首尾方向に固定して使用し、逆廻りになっている方位の磁針が指す針路が現在の進行方向になる。勿論、目標の方位を測定する普通の磁石もあったのでこちらは「本針」といったそうだ。

 和磁石の構造は轆轤でひいた木製の円筒を台盤としてその中をくり抜いた中心に鋼の支軸を立てその上に磁針を乗せた簡単なもので方位目盛りは十二支だが、中間点の刻線によって24方位となっている。製作者は「はりや久兵衛」「さかいや仁兵衛」など大坂の業者が大半を占めていた。船磁石に彎窠羅針のジンバルのような揺れにたいして安定した針路を示す機構が取り入れられなかったということは弁才船など殆どが沿岸航海でコンパスがそう重用されなかったからでしょうね。

 一昔前にヨットで使っていた同じような道具、「ハンドベアリングコンパス」は方位を測定する方向に向け、そのコンパスカードを読めばとっても簡単?なのだが、揺れるヨットのデッキでコンパス方位の測定は意外と難しかったですね。
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by pac3jp | 2010-09-14 06:14 | 歴史・民俗  

伊能中図・伊能小図

 体育館のフロア一杯に2万6千分の1サイズの大図が並べられている一角に中図(1:216,000)8枚と小図(1:432,000)3枚が並んで展示されている。これらは大図と違って地図記号のほかに経緯度線と岬、山など遠方の目標からは方位線が引かれより地図らしさがある。

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 画像手前がフランスで発見された伊能中図。右上が伊能小図、この図の半分の大きさのでカナ書きされた特別小図がシーボルト事件で問題になったなど幕末の日本でこれらの図がいろんな騒動や事件に絡んできた。

中図 
 この8枚組の図はペレイ図といい、パリ郊外に住むイブ・ペイレ博士がディジョンの近くの小さな町に持っていた別荘の屋根裏を整理していて1970年頃に発見したもので針穴のある副本だった。描画、色彩、保存も優良で記入内容も充実している。でもなぜこのような優れた伊能中図がフランスに渡ったかは不明。

 筆者(渡辺一郎さん)の推測によれば、幕末、幕府にはフランスの軍事顧問団が雇われていた。徳川幕府の崩壊で幕府艦隊を引きつれ江戸を脱走した榎本武揚と共に函館に渡ったフランス軍人大勢いた。それに榎本武揚の父親は伊能測量隊員だったので当然その地図の存在は知っているはずだし、江戸から東北、北海道と転戦しながら航海するためには正確な地図は是非とも必要なため江戸城から持ち出したのだろう。やがて五稜郭も落城し、フランス軍人も故国に帰えることになるが敗戦で何も上げる物がない武揚は伊能中図を差し上げたのかもしれないと・・・。
 当時函館で戦ったフランス軍人のなかには本国で陸軍大臣や将軍に出世した人もいたという。

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小図 
 この3枚組の図は昌平坂学問所に伝存したものが東京国立博物館で見つかりその針穴がある副本を修復(重文)したものから作成された。

 攘夷だ開国だと騒がしい幕末の1961年(文久元年)、アクティオン号を旗艦とするイギリス海軍の測量艦隊が来日し沿岸測量と測探を行った際、監督の幕府役人が持ち込んだ伊能小図を艦長のワード中佐が見て、その優秀さに驚き、幕府に依頼して同図を譲り受け、沿岸測量を中止して引き揚げた。
 そして、1863年(文久3年)イギリス海軍水路部は伊能小図をもとに「日本政府の地図から編集」と明記して「日本近海の海図No.2347」を大改訂した。このときの伊能小図は英国海軍水路部に現存し、グリニッジの海事博物館に保管されている。

 この話はよく聞いていたのでどんな地図を渡してうるさいイギリス海軍を引き下がらせたのだろうと思っていたがやっと現物(複製)を見て念願がかなったなあ。

 長州が英米仏艦隊と交戦した翌年、1865年(慶応元年)勝海舟が幕府開成所より伊能小図をもとにして初めて「官板実測日本地図」(木版刷り)を発行。

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伊能中図による明石海峡付近(クリックすると大きくなります)

 海岸沿いにお馴染みの地名が並んでいる。伊能隊は大蔵谷と須磨それに淡路・岩屋で天測したの星マークがある。神戸西区の雄子山、雌子山から淡路島・江崎と岩屋に方位線が引かれている。現在の山名とは入れ替わっているが図の東側の少し高い雌岡山(めっこ山)から岩屋港は353度、雄岡山(おっこさん)は359度だ(真方位)。当時の江戸には偏差はなかったし、隠岐でE2度くらいだと聞いいていたので較べてみたいと思っているが和磁石の読み方と図の字が少し崩れているともう苦労する・・・。

 現在の地図ならば明石に東経135度の子午線が通っているが当時の日本は京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準としたのでこの当たりに経緯線は書かれていない。


【参考資料】:伊能忠敬の全国測量 渡辺一郎 編著 伊能忠敬研究会 発行
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by pac3jp | 2010-09-11 18:23 | 歴史・民俗  

完全復元伊能図 全国巡回フロアー展 in 加古川

 もう20年にも前になるが、井上ひさしさんの著書「4千万歩の男」という伊能忠敬を主人公にした小説を読んで以来、是非とも伊能忠敬が歩測で日本全土を測量したという地図を見たいという願望はずっともっていた。地元の博物館で部分的に公開されることはあっても全部となると大変だなと思っていた。(正確に計算するとじつは「5千万歩」だったらしい・・・)

 ところが近年、数多くの伊能図がアメリカで見つかり里帰り展示会を開催するなどのニュースが聞こえてくるようになった。そして先月の8/26~30日まで加古川市の兵庫大学で「完全復元伊能図 全国巡回フロアー展」が開かれ、2日間、ゆっくりと214枚の伊能大図を、そして研究者の特別講演会、映画「子午線の夢」など「伊能忠敬と伊能図」にどっぷりと浸ってきた。

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 大学の体育館に並べられたタタミ一帖分の大きさがある214枚の伊能大図、施設の広さの関係で北海道が別の場所にあるが手前が九州・鹿児島で奥が東北・青森である。西日本地域に並ぶと北海道の広さが実感できる。人が集まっている場所が近畿の瀬戸内地方である。東北や関東地方には細かく見る人は少ない。会場には数人の伊能忠敬研究会のスタッフ、元国土地理院の院長だった星埜先生などが色んな疑問に気さくに答えてくれる。

 伊能忠敬とそのスタッフが長きに亘り測量し、「大日本沿海輿地全図」として大図214枚、中図8枚、小図3枚が作成され、文政4年(1821年)に幕府に提出された。そして公刊されることなく江戸城の奥、紅葉山文庫に秘本として収納された。

 でも、こんな大量の地図が今日まで一括して無事に保管されてきたわけではなかった。

■1973年(明治 6年):52年後に太政官内の地誌課に保管されていた伊能図が皇居炎上により伊能図正本の全てが失われてしまう。(前年より借用していた伊能家副本の献納を受ける。)
■1923年(大正12年):関東大震災により東京帝大図書館に保管されていた伊能図副本の全てが燃失する。

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 ↑フロアに展示された伊能図大図214枚の出展先の一覧がパンフレット表示されている。

●アメリカ議会図書館:145枚 明治の陸軍が模写したもので戦後、米国に渡ったが経緯は不明。
●日本国会図書館  :43枚
●国立民俗博物館  :5枚
●海上保安庁海洋情報部:13枚 明治の海軍が海図作成のため模写したもの。 
●山口県文書館毛利文庫:6枚 伊能隊より長州藩に提供された。
●松浦史料博物館   :2枚 伊能隊より平戸藩に提供された。 

 長らく行方不明だった伊能図の67%がアメリカにあったのだ。その図を最初に日本の研究者が発見した時は割りと粗末に扱われていたが、歴史的価値などその値打ちが分った後はアメリカ議会図書館でも2番目の貴重な史料として大事に保管されているという。

 地図が作られた時代に長州藩と平戸藩に提供された伊能大図は後世に模写されたものより彩色などが美しく、合いマークのコンパスローズなどの意匠も優れている。伊能隊が原図から複写する時、測点をピンで突いて位置を正確に写すため「針突法」が使われたのでこれらには針穴が見えた。

 明治に地図の専門家が模写した図は絵から今のような地図記号に置き換えられているものもあるというが、ボクはその確認を忘れてしまったなぁ。

 一番関心があったのは子供の頃遊んだ神社の海岸からの参道が、今は海になっているが「昔はもっと南あった」という祖母の言葉を確認したかったのだが、200年前もそう変わってないように見えるので3万6千分の一の縮尺では判断できないのかもしれない。


【参考資料】:伊能忠敬の全国測量  渡辺一郎 編著
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by pac3jp | 2010-09-09 07:20 | 歴史・民俗  

神戸大学海事博物館「江戸時代の海路の賑わい」を見学する

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 2010年8月6日(金)深江の神大海事博物館で企画展「江戸時代の海路の賑わい」で当時の海図と海路・道中図などの展示がされて開催されているので見学してきた。昨年、同時期に別の企画展を見学したのだがあれからもう一年だ、時間の経つのは全く早い!

c0041039_1011461.jpg 当日の博物館の来館者はボクを含め3人、記入した名簿の上の欄にはこのジャンルで著名な大先生の名前が記入されていた。そして管理事務所の方から賑やかに談笑する声が聞こえてくる。
 さて、どちらからと算段していると当番?のボランティア・スタッフ氏が「こちらからどうぞ!」とおっしゃる。お喋りをしながら次々と展示物を楽しく見学するが、いつものマイペース見学に馴れた身にはちょっと忙しかったが一通り見学してきた。

 展示のメインは自前の海路図屏風六曲一双の2枚だ。金泥多彩色の華麗な航路図屏風は元禄の頃の作と考えられ、大坂から瀬戸内海・周防・長崎にいたる航路を里程と島々や海岸部のお城や寺社などが描きこまれた素晴らしいものです。とても航海の用に使うものとは違いもっぱら豪華なお部屋の装飾品ですね。

 長崎の町が特に大きく描かれているので長崎にゆかりの深い絵師の作品か、あるいは元禄の頃、大坂から見る長崎は外国に開けた素晴らしく大きな町だというイメージが定着していたのかもしれない。

 その他の展示された海図や航路図の内、数点はペリー来航前後の幕末の作成で、藩が海防の為に作成したものや実際の航海にも使えるように方位と距離が記入された海図、それに仙台藩が自力で建造した洋式帆船「開成丸」の江戸~仙台の実測航跡図もある。その航海も終わりに近づく頃、目的港方向から吹き出す強風の風上航に散々に苦労している航跡が描かれている。

 バーチャルミュージアム「海図」というパソコンと大型モニターで古い海路図を大きく見せる展示があるがどうも解像度がいま一つで地デジで見る鮮明な画像に慣れた目にはもうちょっとはっきりした絵にして欲しいなあと思ってしまう。

 ボクが気になったのは「外国船来航と当時の人々」の展示でケースに入っていた数冊の和漢書で「スループ備方法則」と後の書名は忘れたが面白そうな口絵が描いてある本だった。多分ここの海事科学部の図書館に行けば見せてもらえるはずだが、さて、読めるかな・・・。

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 上の画像は企画展のパンフレットです。クリックすれば大きくなります。
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by pac3jp | 2010-08-08 10:05 | ウオッチング  

プレジャーボート・小型船用港湾案内をWebで見る

c0041039_9132058.jpg  クルージングに出ると航海中はチャートで位置の確認をする(もう少数派か?)が、目的の港に近づくと港周辺の状況や港内の桟橋の様子などは「プレジャーボート・小型船用港湾案内」を使って本日の係留場所を考える。全ての港が載っているわけではないがそれなりに有効なヨット・ボート用の簡易版の水路誌である。

 日本水路協会から日本沿岸を12冊の本に分け、発売されている。1冊は3,675円と3,990円の2種類。日本一周しようと思うと全冊必要だが、限られた数の港へ入る為の情報を得るにはインターネットを使って閲覧することが出来る。

 平成19年9月現在、以下9冊分のプレジャーボート・小型船用港湾案内がWebで閲覧できる。

●H-810 北海道南岸・東岸・東方(白神岬~択捉島)

●H-811 北海道北岸・西岸(知床岬~松前港)

●H-805 本州北西岸 品切れ中

●H-806 本州北岸・東岸 H-806Wになり発売中

●H-807 南方諸島(伊豆諸島・小笠原諸島)品切れ中

●H-803 瀬戸内海東部(大阪湾・燧灘) H-803Wになり発売中

●H-808 九州北西岸 H-808Wになり発売中

●H809 九州南西岸・東岸・南西諸島(与論島以北)品切れ中

●H-812 南西諸島(沖縄群島・先島群島・大東諸島)

 海図は既に世界測地系に切り替わり、小型船用港湾案内もその必要があったのと、作成されてからかなりの年月が経ち情報が古くなり改訂の時期がきたのだろう。

日本水路協会は以下のように説明している

リニューアルの主なポイントは、
① 日本測地系から世界測地系にしました
② 経緯度線を図載し、位置を求めやすくしました
③ コンパスの偏差を図載しました
④ ロケーションが図載され、場所(位置)が分かりやすくなりました
⑤ 「フィッシャリーナ」、「海の駅」を新たに掲載しました
⑥ 多色刷りで、より見やすくなりました

その結果、3,675円 → 3,990円に値上がりしている。

 でも、改訂作業の遅れか3冊が現在品切れ中だ。いずれ近い内に改訂版が出てくるが、この海域を近く航海しようと思っている人は友人に借りるなど対策が必要ですね。
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by pac3jp | 2007-09-25 09:37 | シーマンシップ  

暗岩・洗岩・干出岩

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 ヨットの大敵、「暗礁」はチャートで暗岩は+マーク、洗岩は米(こめ)マーク、干出岩は*・※マークが記されている。潮位が高くなれば暗岩は勿論だが、白い牙を剥いている危険な干出岩や洗岩もほぼ隠れてしまい、ただ静かな海面が広がっているようにしか見えない。

 和歌山・加太の田倉崎はプレジャーボートが暗礁に乗り上げる座礁事故の多い場所だと和歌山海上保安部がWebで注意を呼びかけているし、同じく田辺湾では暗岩、洗岩、干出岩、干出浜(岩)と海図図式の見本のように危険な障害物が並んでいて、不注意な船乗りを狙っている。ボクの知り合いもここで座礁してしまったフネは知ってるだけでも3隻はいる。

 こんな危険な海域も航路であれば浮標が入っていて、詳細な海図があれば容易に安全な航路を辿って行ける。でもヨットの航海はいつも本船航路ばかり走ってはいない。今日の停泊地が本船航路から外れた初めて入る小さな港や、湾奥の岬の脇にある小さな桟橋だったりする。

 入港には港域を詳細に記した港泊図が必要だが、そこまで完璧に海図を揃えているヨットはそうないだろう。最もその泊地が港泊図や小型船港湾案内にも載っていないかもしれない。その場合は手持ちで一番大尺度の海図を用意して、危険な場所を避けアプローチのコースをひく。後はチャート上で船位を確認しながら泊地に入ってゆく事になる。

 例えば9月29日付《前方ソナー》で書いた広島・江田内「能美海の駅」はチャートは広島湾(1/60000)である。港泊図はない。湾内の海面は広島名物の牡蠣筏が一杯である。目的の係留場所は暗礁地帯の東側にある。桟橋の管理者は「大回りして入ってください」といっている。

 こんな状況には紙海図とGPSの組み合わせでは位置の確認は大層だが、電子チャートとGPSによるナビゲーションは非常に簡単である。
 ↓は紙海図に出航コースを書き込んだもの。入港はショートカットをして大騒ぎになった!
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 同じく電子チャートが描く付近のチャート↓。 実際はフネの位置と航跡が表示される。
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 干潮時に入れば洗岩、干出岩などの概要は判るが、運悪く満潮時に当たるとその暗礁がある海面に小さいボールブイが浮かんでいるだけだ。これは地元船のみが理解できるブイでビジターは全く何かわからない。こういう危険な場所には海保でしっかりとした浮標を入れて欲しいもんだとのご意見(仲間内で・・・)もあるが、まぁ、しっかりとナビゲーションするしかないでしょうね。
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by pac3jp | 2006-10-02 09:48 | シーマンシップ  

日本測地系の海図


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2002年4月1日から改正された計量法が施行されて、海図の測地系が日本測地系からアメリカが提唱する世界測地系にかわった。

「日本測地系の海図が使えなくなりますよ、新しい世界測地系の海図を買いなさい。」と、海上保安庁がキャンペーンをしていたね。

皆さん、法律が施行されてからもう3年になりますが新しい海図に買い換えましたか?

今、自分のフネには今まで航海してきた海域の日本測地系の海図をかなり持っている。チャートに色んな書き込みがしてあり、私の航海の歴史が詰まっているのだ。簡単に捨てられない。

日本測地系の古い海図も地文航法や天文航法ではGPSと関係ないので充分使えるが、水路通報等の船舶安全情報に採用する経緯度についても、全て世界測地系により位置等の通報を行うこととなっているので海図の改補が出来ない。

まぁ、2等航海士が乗ってない?ヨットで海図の改補をしている人を私の周りでは見たことはないけれど・・・。もしもの時に救助が遅れることも考えられるがGPSはいつもはWSG84で使っているので通報する座標に問題はないね。

GPSがWSG84で海図が日本測地系の場合、北西へ400m~450mくらい位置の表示がずれるみたいだ。普通、広い海上をヨットで航海しているときにはこれ位の誤差は問題ない。
だが、夜間や視界が悪い条件下で、本船航路とのり網等の障害物に挟まれた狭い海域を正確にコースを維持したい時、その450mの誤差が問題になってくる。ボクはすぐにGPSを海図にあった測地系「tokyo Datum」に変更する。

友人が日本の海上保安庁が発行した5~6年前のタヒチの海図を持ってきた。データはニュージーランドのものと記載がある。測地系は何処だろうといってきたが、測地系は国の数ほどあるので多分タヒチだろうと言ったが、自信はない。

そんなことよりその海域に必要な海図を持たずに航海しているヨットが増えてきたように思う。GPSプロッターは殆どのクルージングヨットに付いているだろうが海岸線と現在位置以外の航海に必要な多くの重要な情報が表示されない。電子チャートをパソコンで表示して海図の代わりに使用するからだろうが、まだまだ、ヨットで電子チャートを海図の代わりに使うにはハードもソフトも信頼性に劣るとボクは思っている。海図をバックアップするツールとしてはかなり便利で有効ではあるが。

また、海図を持っていても大切に仕舞ってあるのですぐの役には立たないフネもある。海図は大切なものだと教えられて、その考えが染み付いているんだろう。海図は安全な航海をするための道具である。紙だから使えば消耗もする。ボクは航海中チャートは4つ折で使っている。狭いヨットのコックピットでロールした全紙のチャートは使い物にならない。どうせ海図の改補もしないのだから痛んだ海図はチョット高いが思い切って買い換えよう!
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この春、新しい海域へクルージングに出かけるようになったので世界測地系の海図を20枚くらい買った。

高かった!!
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by pac3jp | 2005-08-09 10:57 | シーマンシップ