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江戸の屋形船

江戸の町が明暦(1657年)の大火から復興して、景気も良くなってくる17世紀後半頃には裕福な町人たちが経済力をつけ豪華な屋形船を競って造り川遊びをするようになってきた。それは長さが70~80尺で十間もある大型屋形船もあったという。

しかし将軍が綱吉にかわり寸法規制がかかる。上口長さ27尺(8.2m)・幅4.6尺(1.4m)・屋根高さ5尺(1.5m)と定められてしまった。このサイズではたった二間しか取れず、三畳と二畳の合わせて五畳敷しかとれない貧弱な屋形船になってしまう。

ところが規制は緩むもので、18世紀初頭に作られた関東河川での川船に関する文書で川船奉行所が徴税対象の各種川船の船型確認の手引書として使っていた「船鑑(ふなかがみ)」に掲載されている屋形船(下の図)の絵には右上に「上口凡(およそ)二丈七八尺ヨリ五丈位、ヨコ八九尺ヨリ一丈四尺位 但先年ハ長七八丈、横一丈五六尺迄有之、当時ハ無之」と情報が記載されている。

当時の川船は一般的には上口長27尺~50尺(全長32f~60f)だが長さ78尺、幅15~16尺(全長90f)の大型の屋形船もあったとある。 
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図の船体の上口長さを四十尺(全長では48f位)として屋形寸法は長さ二十四尺、最大幅十二尺程度、座敷の広さは表から順に六畳、四畳、六畳の十六畳敷きとみられる。

時代は下り、豪華な遊山船の屋形船は少なくなり、代わりに手軽な屋根船が増えてきた。19世紀初めには江戸に500艘もあったという。

江戸っ子の川遊びは5月の両国の川開きから始まるのだろう。当日は日没から花火が打ち上げられ両国橋は人で一杯になり川面には大型の屋形船や中型の屋根船、小さい猪牙船まで数多く集まり、船上の大宴会組も橋上の大観衆も花火に熱中する。
花火見物船は乗合、貸切もあったのでしょうが、こんなに大イベントに予約を取るのは当時でもきっと大変だったと想像します。でも自家用船ならば予約はいらず好きな場所でゆっくりと見物できるので費用は掛かってもお金がある人には気分がいいものでしょうね。

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東都両国ばし夏景色 橋本貞秀 (19世紀中頃)
橋の川上、川下に10隻ほど停泊している唐破風などの屋根を持つ、大きな船が「屋形船」です。

最近、「黄金期の浮世絵 歌麿とその時代」という展覧会を見てきた。その描かれた時代は18世紀後半から19世紀初頭の頃だった。浮世絵の江戸美人も結構でしたが、ボクは背景に描かれた川船に興味があった!

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喜多川歌麿 両国橋 船あそびの女たち(18世紀末)
女性が乗っているのは屋根に唐破風がないので屋形船ではなく屋根船。画像右端の橋脚の向うに屋形船「河一丸」が見える。ちょっと気になるのは橋脚と橋桁の結合部のカスガイだ。こんなに頼りない方法で留めていたのかな?

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闇牛斎 円志 隅田川料亭図 (18世紀末)

川の左に屋根から竿をさす船頭がいる屋形船「川一丸」と右の櫓を押す屋根船が描かれている。

※上口長さとは、水押際から戸立までの長さ。又は舳船梁から艫船梁までの長さ。


参考資料:和船Ⅱ 石井謙治著
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by pac3jp | 2014-02-14 16:40 | 歴史・民俗  

姫路のお殿様の豪華ヨット?(1)

 神戸市中央区の相楽園で江戸時代に姫路藩主が河川での遊覧に使った川御座船の屋形部分を陸上で保存していて通常は紫外線劣化を防ぐ日よけを付けているが春と秋の年に二回だけ外観のみの一般公開している。

 世界遺産の姫路城を築城したのは播磨国五十二万石を領した池田輝政だが、新築の巨大な城郭は完成したがしばらくして鳥取に転封を命じられ、二代目姫路城主は本多忠正で領国は姫路十五万石のみと大幅に領地は減っているが大きなお城の主になった。しかし、十五万石で五十万石のお城を維持するには難しいのか?その後も目まぐるしく城主は変わり、奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家(天和2年~宝永元年 1682年~1704年)となり、錺金具の家紋などからこの元禄年間に姫路藩の川御座船が建造されたと推測される。

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日本庭園にある池の西側に左舷側を見せた船屋形が華麗な姿を見せている。

構造・形式
木造1重2階、切妻造段違、桧皮葺  桁行五間、梁問一間
1階:21.87㎡  2階:21.87㎡
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右舷側を後方からみると生垣より下の部分が陸上に上がった時にかさ上げされた部分。

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艫側から二階を望む。開いた舞良戸(まらいと)の横桟の間には金箔が押してある。天井まで木肌の見える春慶塗りと重厚な黒漆が塗り分けられて、長押や垂木の先端には金箔を押した錺金具が打たれている。正面上には本多氏の後に入った榊原家の金箔の家紋があるが裏面には本多家の紋が残っているという。

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船屋形は船に載っているものなので展示資料に船体の側面図があった。大きさは木割書「川御座船仕法書」によって寸法を当てはめてみると梁間内法は8尺なので肩幅16尺となり全長は約90尺(27m)と言うことになる。当時の川御座船は幕府所有の朝鮮通信使など国賓接待用の紀伊国丸が全長98尺(29.7m)肩幅20尺が最大なのでそれらにつぐ大きな船だったという。

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琉球使節を載せて淀川を遡上する川御座船船団、前方が宇和島藩、後が長州藩の川御座船。

このように姫路藩の川御座船も大坂を拠点に運用されいたのだろうか。船が建造されたとされる元禄年間から幕末までに朝鮮通信使は5回来ているし、琉球使節は13回も使節を江戸に送っている。その間お接待する藩はその都度指名されて務めるのでしょうが、きっとこの船も何回かは使節のお供などを乗せて淀川を上下したのかもしれない。

参考資料1:図説 和船史話  石井謙治著
      2:和船Ⅱ        石井謙治著
      3:詳説 日本史図録 山川出版社
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by pac3jp | 2014-02-03 15:37 | 歴史・民俗  

姫路のお殿様の豪華ヨット?(2)

 
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封建体制の中で180年余も姫路藩主の御座船として働いてきたが、明治維新の廃藩置県で姫路藩はなくなってしまった。明治初年には姫路藩のお船手組があった飾磨港付近に置かれていたようだが、まず高砂の川本氏の邸内に移築され、船框から下を継ぎ足して茶室として使われていました。この時の残存部分は「おもて(船首側)」からの二室分のみで、屋根を桟瓦で葺いているなど、船屋形としての影はほとんどとどめていない状態でした。

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その後、昭和16年に神戸市垂水区舞子の牛尾邸の敷地内に再び移築されました。この移築の際には、失われた「次の間」を付加して現在の上下三室構成とし、間仕切りを復旧し、屋根を桧皮葺に改めるなど、各所にわたり復原をおこない、もとの船屋形の形態に近づける努力が払われました。

三度目の移築は昭和55年のことで、昭和53年に前所有者の牛尾吉朗氏より神戸市が寄贈を受け、現在の相楽園内に修理・移築されました。

現存する船屋形としては熊本の細川家が参勤交代に使っていた海御座船の船屋形の一部が残っているのと、香川県宇多津町の西光寺境内に多度津城主の御座船の一部が船屋形茶室として1棟が残っている。

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細川家 波奈之丸舟屋形
ベースの船体は喫水のある軍船である関船を豪華に飾り立てた海御座船だ。もちろん河川や浅い海域では運用できない。今は熊本城小天守閣1階に展示されているのは御座船「波奈之丸」の御座所部分です。。
詳しくはここをクリック。

海の大名行列
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「帰国する藩主を乗せて豊後鶴崎に入る熊本藩の船団」という大絵馬(1798年)があります。
左手の大きな船が大櫓46挺立ての海御座船波奈之丸です。万延元年(1860年)の帰国の際には波奈之丸以下123艘が船団を組み、船頭、水主、水夫総勢2563人が藩主一行1186人を運んでいます。
画像をクリックすると大きくなります。

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西光寺船屋形茶室 (香川県宇多津町)

江戸時代末期に建造した旧多度津藩藩主の御座船と伝えられる船屋形です。
由来については定かでないが元治元年(1864)に船下しした六二艘立の「順風丸」とする説や三十五反帆を誇った海御座船「日吉丸」とみる説などがあってその伝承も一定していない。
詳しくはここをクリック。

ボクは最初、姫路のお殿様が河川で遊覧した豪華ヨットかなと思っていたが、姫路付近で90フィートもある大型船を乗り回せる川はないので河口か瀬戸内沿岸で使われていたのかもしれないが、常時は大坂で船蔵で保管され15万石の格式を見せるために参勤交代用にのみ使われたのかもしれないなぁ。当時の弁才船の寿命は20年~長くて30年位だ。それに比べて180年も持ったということは殆ど使われなかったか、維持管理に十分にお金を掛けられたかだが、多分、前者だったのでしょうね。

姫路の歴代城主に派手で遊び好きなお殿様はいなかったのかと探してみるとこんな記事をウィッキで見つけた。

1704年に再入封した榊原家は本多忠勝と並ぶ徳川四天王の榊原康政を祖とする譜代の名門で、3代30年以上にわたって姫路藩15万石を領したが、寛保元年(1741年)第8代当主政岑は将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけった。寛保元年春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれている。これは尾張藩主徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買い、藩主隠居の上榊原氏は豊かな西国の姫路から内高が少なく実収の乏しい北国の越後高田15万石に懲罰的転封されてしまった。

・・・と出てきた。将軍おひざ元の江戸で吉原遊郭の花魁を身請けするというほど筋金入りの遊び人なら江戸でも地元に帰った時にも榊原家の紋の入った専用ヨットで存分に川遊びを楽しんだ事は十分考えられるなぁ。


参考資料:日本の船 和船編 足立裕之著
      
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by pac3jp | 2014-02-02 16:23 | 歴史・民俗  

民俗学者・宮本常一先生の故郷を訪ねる

c0041039_8282028.jpg 2009年7月に屋久島で10日ほど過ごした時、宮之浦港のビジターセンターで屋久島など離島に関する民俗誌を読む機会があった。現地取材されたのはもう大分昔だが、現在発行されているガイドブックには載ってないない島の歴史や民俗習慣がたっぷりと記載され、時間も充分あったので大いに参考になったもんでした。

 左画像はその宮本常一著「屋久島民俗誌」です。硬そうな雰囲気の本ですが読みやすい文体で書かれています。

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 そして最近、宮本常一の代表作で英語にも翻訳・出版されている「忘れられた日本人」を読み、先生の生まれた瀬戸内海の屋代島・周防大島町平野にある資料館「周防大島文化交流センター」を訪ねました。

 屋代島の東部北岸の波静かな安芸灘に面した文化交流センターでは丁度、「宮本常一が写した昭和」の企画展が終わった後で常設の展示物だけで何か寂しい感じでしたが、関連の展示パネルと多くの宮本著作本が本棚に並んだ資料閲覧室で先生の業績を描いたVTRを見ていると遠くからやってきた甲斐があったと思いました。

 展示フロアでは海の生産用具が展示されている。島の南部の沖家室島の地先で使われていたタイやハマチの一本釣り用の小さな本物の木造漁船と木碇などが展示されている。この島の漁師たちは明治の頃には船団を組み国内はもとより、朝鮮、台湾、ハワイにまで果敢に出漁していたという。いつだったか、お盆に各地から大勢の島出身者が帰省するので「お盆に沈む島」として報道されていたのを覚えているなぁ。
 文化交流センターの隣(画像の手前)には町の施設と大島出身の作詞家「星野哲郎記念館」がある。こちらのほうが断然お客さんは多い!

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 上の画像は大正末期に使われた4人乗り組みの帆走漁船「沖家室船」の模型。風があるときはミヨシに小さい帆を巻いて帆走り、風がなくなれば櫓を押して航海し、雨が降れば苫を屋根に葺いて寝るという。「忘れられた日本人」にある対馬の老漁師に聞き取りした話では明治の初めに周防大島から対馬に出漁した漁船は5~6人乗りの「大釣」だったと言うのでこの模型よりは少し大きめのフネで船団を組み一月もかけて遠くに漁場を求めて移動していったわけだ。

 2005年5月にもヨットで周防大島南部の安下庄港にも入ったことがある。安下庄湾は広くて良い湾だが、港は細長くて狭い、その上潮汐の差が大きいので昼間はよじ登っていた岸壁が夜中になるとフェンダーが掛からないほどの潮高となり大慌てした思い出がある。残念ながら当時は民俗学者として高名な宮本常一先生の生誕の島だとは知らなかったので近くを散歩しただけで出港してしまったのだ。

 でも今回は車だったので結構大きな島だったが楽々と一周出来た。途中、沖家室島の対岸にある小さな岬、牛ヶ首にあのシーボルトが江戸参府の際、ここに上陸し植物採集やスケッチをしたという石碑が立っている。今は沖家室島は大島とあいだに橋が架かっているが昔はこの海峡が弁才船の航路、或いは泊地にもなっていたのでしょうね。

 ちなみにこの橋の建設記念碑には宮本常一先生の短い碑文が刻まれている。

 此の橋全国同胞 の協力によって できました 感謝します
                   沖家室島民


【参考Web】:周防大島文化交流センター 

【関連記事】:1.流れ着いた漂着物の所有権は? 
【関連記事】:2.屋代島西安下庄港です 
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by pac3jp | 2011-05-08 08:38 | 歴史・民俗  

日本の船(海から見た日本史) 画 谷井建三 解説 谷井成章

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 表紙は平成22年度NHK大河ドラマのハイライトだった慶応4年(1867年)坂本龍馬の海援隊が運航する「いろは丸」と御三家・紀州藩の「明光丸」が六島沖で衝突した現場が描いてある。

 船のイラストを描かせたたらどう見ても一番だろうと思っている谷井建三さんが小さな和船のイラスト集を故郷の富山・魚津市で出版されたので、つい最近買い求めた。 A-4版 39ページ 定価1,000円(送料など必要)

 和船系の書籍ではモノクロのイラストで表される和船の図を谷井さんが描くと、色彩豊かに船と背景、それに人物が配され誰にでもそのフネの大きさがちゃんとイメージできてとてもわかり易い。

 ページを繰っていると江戸中期の田沼意次の終わりの時代、天明6年(1786年)に建造された1500石積の「三国丸(さんごくまる)」が冬の日本海を間切り航行している絵があった。
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 三国丸は輸出用産物である俵物(干しあわび、フカヒレなど)を専門に運ぶ廻船で長崎~日本海経由の蝦夷地交易に従来の年1回の航海から冬季も運航をする海運の合理化を図るため耐航性のある新型廻船として幕府が建造した。ジャンク式の隔壁と肋骨が入った船体構造、舵は弁才船の吊り下げではなく楫釣木で支持する洋式、ジブ・スパンカーなど洋式帆装、そして和式の総屋倉を持つ和洋中の折衷船である。

c0041039_612399.jpg たった一隻だけ建造された折衷船「三国丸」の外観図は日本にはなかったのですが、ルイ16世から太平洋の探査を命じられフランス海軍大佐ラ・ペルーズ率いる艦隊は、日本海を北上中の1987年6月、隠岐の北東海上で日本船2艘に遭遇しました。ブロンドラ海軍中尉が目と鼻の先を通過した1艘の絵を残しています。特異な船首の洋式の補助帆と船尾廻りの形状からして、この船に該当するのは三国丸以外にはありえません。画家の観察眼は鋭く、一瞬すれ違っただけなのに三国丸の特徴が見事にとらえられています。
(ミツカンWeb「和船の技術と鎖国の常識」より)

 家康以来の農本主義が行き詰まってきた徳川幕府が財政改革のため、老中田沼意次の手により重商主義に大きく舵を切った時代だった。北方からはロシアが通商を求めて南下してくる。

■天明3年(1783年)仙台藩の工藤平助が著した「赤蝦夷風説考」により国防の緊急性や蝦夷地の金山の開発などを老中に建白。結果、老中田沼意次は丈夫な調査用新造船二隻を建造し蝦夷地に最上徳内らの調査隊を送ることにした。しかし、船は調査がすめば民間に払い下げ、建造費の一部を回収する。それに蝦夷地には空船では危険とかで往復とも交易品を積むとかして抜け目なく、総経費三千両でもって請負人の全責任おいて運用するという民間委託のようなかたちがとられた。

■天明5年(1785年)蝦夷地調査隊 江戸を出帆。

■天明6年8月(1786年)田沼意次罷免 長崎~蝦夷航路に「三国丸」就航した同じ年だった。

■天明8年(1788年)三国丸は完成からたった3年目に能登沖を航行中に暴風に遭い、乗組員は伝馬船で飛島に逃れ、船は出羽国赤石浜に漂着して破船した。

 田沼意次の失脚で政治はまた質素倹約の農本主義に逆戻りし、新しい機構を盛り込んだ新型廻船「三国丸」の同型船がもう造られることはなかった。


【参考Web】:谷井建三と成章のアート塾
【参考Web】:ミツカン水の文化センター 和船の技術と鎖国の常識

【参考資料】:和船Ⅱ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2011-01-23 06:24 |  

中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇

 波静かな瀬戸内海は大昔より物流の大動脈だったが、中世に入り商品の流通が活発になり海運業が盛んになってくるとそれに伴い海に関わる人々も多くなってくる。そして芸予諸島・防予諸島など多くの島々が集まる海上交通の要衝には「海の民や海の領主」としての海賊がいた。
 海上武装勢力として瀬戸内海の広い範囲に勢力をもつ海賊とは別に、浦々にも自分のテリトリーを持つ小さな海賊もいて各地で活発に活動していた。

 中世・瀬戸内海の船旅でそんな海賊に遭遇した記録を残している人物がいた。
 京都・東福寺の梅霖守龍という僧が寺の荘園がある山口県・徳地に年貢の督促のために出張した時の日記である。(梅霖守龍周防下向日記)

◎1550年(天文19年)9月14日 堺より11反帆(100~200石積)の船に乗る。船頭は塩飽(塩飽諸島の本島)の源三だった。乗客は300人もいて「船中は寸土なき」状態だったというが、さて、どんな人々が乗っていたのか大いに興味が湧くなぁ。

◎備前・日比沖で海賊に遭遇。
賊船一艘来たり、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺いて鏃をならべ鉄炮を放つ、賊船疵を蒙る者多く、しゅゆ(すぐに)にして立ち去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず

 一隻だけの海賊と通行料の談判が決裂し、攻撃されたが本船からの反撃で負傷者をだし早々に退散してゆく海賊。ある程度の武装はしているようである。日比と本島は距離にして8マイルほどなので当時でもごく近いと思うが海賊のテリトリーがもう違うのだ。

守龍さんは運悪く帰りの航海にも海賊に遭っている。
◎1551年(天文20年)4月1日 七ヶ月滞在した周防からの帰路 宮島から「室の太郎太夫」の船に乗る。堺までの船賃は300文で従者は200文を支払ったという。

羊の刻(午後2時)関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以って問答することひぐれに及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

 安芸の竹原沖で「関の大将ウカ島賊船十五艘」と遭遇、15隻と多数の海賊にとり囲まれたため船頭は小舟を出し午後2時から翌朝まで海賊とねばりにねばり交渉し、多めの礼銭を支払うことで決着し航海を続ける。

室:播磨・室の津
関:瀬戸内海で海賊は通行税を取る?ので「関」と呼ばれていた。
  上関、中関、佐賀関、下関など関と名がつく場所は通行税をとる海関があった跡。
ウカ島:尾道市岡島?

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↑中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(石井謙治「図説和船史話」による)

 1575年(天正3年)薩摩の戦国大名島津氏の一族、島津家久一行30人ほどが伊勢参りのために瀬戸内海を旅した記録がある。

◎彼等一行は2月に本拠地である串木野を出発。九州は陸路を、赤間関から船旅になるが順風が吹かず山陽道を陸路で安芸・厳島へ、参拝を済ませ陸路で備後・鞆に向かい4月2日に到着。ここから西宮までが船旅となる。

◎一行を乗せた客船は鞆を出航して塩飽(本島)に入り3~4日風待ちをし、5日の午後に船出する児島の沖に掛かると「ひひ(日比)の関」)、「のうしま(直島か)の関」が相次いでやってくる。島津一行は「いつれも舟頭の捌候」と書き記してあるが、おそらく船頭がその度毎に海賊に礼銭をはずんだのだろう。

◎その日は直島に停泊し翌早朝に出航した。やがて牛窓の沖にさしかかるとここでも「関」が兵船一艘でやってきた。牛窓も海賊の根拠地の一つだったのだ。ここも船頭の捌きで何事もなく収まり、一行は牛窓見物した。その夜は日生の大多府島に船掛りし、翌日は赤穂・坂越、相生・那波等を経て播磨の室津に停泊した。

◎室津では船頭が明石へ上乗りを頼みに行ったため1日停泊を余儀なくされる。どうも播磨・室津が東西海賊の縄張りの境界だったようだ。

◎上乗りの海賊はやってきたが順風が吹かず長い停滞に、それに時代は戦国なので到着地の堺が三好勢と信長の軍勢が戦う場になり、船の運航は室津で打ち切りになってしまうが、相客同士で淡路・岩屋船を借り切り旅を続けることになる。

 相客は宗教系の熊野衆、高野衆、それに武士の日向衆、堺・兵庫の商人たちと多彩な人々が瀬戸内海の客船に乗り合わせていた。長い停滞には互いに酒を飲み交わし、困難に当たれば力をあわせて乗り切ってゆく、そんな船旅をしていたようだ。

 梅霖守龍が瀬戸内海で海賊に遭ってから25年後の1575年の島津家久の船旅にもちゃんと同じ場所でローカルな海賊たちが通行料を要求している。しかし、その後13年が経ち、戦国は終わり豊臣秀吉が天下を統一して1588年(天正16年)に刀狩令と同時に海賊禁止令がでて最早規模の大小に関わらず海賊たちが自由に活動できる海はなくなってしまった。


【参考文献】:「中世 瀬戸内海の旅人たち」 山内 譲著 吉川弘文館
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by pac3jp | 2010-11-29 15:15 | 歴史・民俗  

彎窠羅針(わんからしん)と船磁石

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 伊能忠敬は従来からあった導線法という測量法に交会法と天測をあわせて日本全国を測量した。
 曲がった海岸線を測量するとき、直線の連続になるように梵天をたて、杭を打ち、測線を設定し、その距離と曲がり角の方位を測りながら進んででゆく。距離は間縄や鉄鎖それに歩測も、方位は小方位盤(彎窠羅針(わんからしん)または杖先磁石ともいう)で測る。

 銅像の伊能忠敬が右手に持っている杖先磁石を特別講演で先生は「彎窠羅針」とおっしゃていたのでこの呼び名が正式名だろう。彎窠(わんか)という難しい漢字だがどうも「ジンバル付きコンパス」というイメージのように感じている。

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c0041039_5595773.jpg ↑会場にこの「ジンバル付きコンパス」の複製品が展示してあった。(覗尺は収納状態です)
 方位は十二支で表示されているが目盛りは360度切ってある。でも「逆針」(さかばり)である。この時代に精密な目盛りを切り、磁針の軸受けに水晶を使い、尚かつジンバルに乗ったコンパスは伊能忠敬のアイデアだそうだが中々大したものである。

 ちなみに、1560年にイタリア人が船舶用のジンバルを発明しているので彼は書物などそれを知り応用したのかもしれない。


c0041039_61247.jpg 逆針の磁石といえば和船の船磁石(右画像)を思いつくが測量の分野でも使われていたとはボクの新しい発見だった。
 でも、梵天の角度を測るとき覗きスリットを梵天に合わせ磁針の示す角度を読めば方位が分るので簡単で便利である。
 「逆針」は磁針タイプのコンパスを使い続けた日本独特のアイデアで、一番最初は船乗りではなくやっぱり測量家が考え使い始めたという。

 和船では操舵用として磁石の子-午(北-南)の方向が船首尾方向に固定して使用し、逆廻りになっている方位の磁針が指す針路が現在の進行方向になる。勿論、目標の方位を測定する普通の磁石もあったのでこちらは「本針」といったそうだ。

 和磁石の構造は轆轤でひいた木製の円筒を台盤としてその中をくり抜いた中心に鋼の支軸を立てその上に磁針を乗せた簡単なもので方位目盛りは十二支だが、中間点の刻線によって24方位となっている。製作者は「はりや久兵衛」「さかいや仁兵衛」など大坂の業者が大半を占めていた。船磁石に彎窠羅針のジンバルのような揺れにたいして安定した針路を示す機構が取り入れられなかったということは弁才船など殆どが沿岸航海でコンパスがそう重用されなかったからでしょうね。

 一昔前にヨットで使っていた同じような道具、「ハンドベアリングコンパス」は方位を測定する方向に向け、そのコンパスカードを読めばとっても簡単?なのだが、揺れるヨットのデッキでコンパス方位の測定は意外と難しかったですね。
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by pac3jp | 2010-09-14 06:14 | 歴史・民俗  

室町時代の遣明船

 兵庫県立考古博物館で大手前大学・小林先生の「山名氏と室町幕府」と題する講演を聴いてきた。えらい人気で開演30分前には会場に到着したのにもう殆ど満席だった。中世の歴史に興味があるのだろう結構若い人たちもいる。定刻前には追加したイスにも座れない立ち見の客さんが大勢いた。

 内容は山名時熈から持豊(宗全)にいたる時代が中心のお話だが、恐怖政治をした将軍足利義教や播磨守護だった赤松満祐の嘉吉の乱などで聞き覚えのある名前が出てくるので古い出来事でも身近に感じられる。

 レジュメに永享6年6月 山名時熈、日明貿易で不正疑惑で政治力後退 という項があった。

 記録によると前年、義教が再開した第8次遣明船団が 永享5年(1433年) 正使を龍室道淵とし、幕府・相国寺・山名氏・大名寺社十三家・三十三間堂らが共同で船団を送っている。この航海で山名氏に不正があったのかも知れない。

 遣明船は室町時代の応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)に渡り、日明貿易(勘合貿易)に用いられた船のことである。

 遣明船は遣唐使船のように歴史上の著名な人物が航海で苦労した物語が後世に伝えられ、21世紀の現在、各地に復元遣唐使船が出現するほど有名ではないが当時の貿易船として室町幕府や守護大名、有力寺社などの重要な収入源にはなっていた事は確かである。

 遣明船はどんな船だったかは興味がわくが、実はよく分らないらしく史家は15世紀の史料や絵図から想像するという。
 『真如堂縁起』の「円仁を乗せて帰朝する遣唐使船」が切手などで遣明船のモデルにされていますが、下の絵も同時代の絵画で遣明船をモデルに描かれた可能性があります。
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 ↑画像は神功皇后の軍船(神功皇后縁起 永享5年)となっていますが船尾に黒く見えるのが刳船部材だというので準構造船ともいえるのですが構造船にいたる前棚板造りの船でしょうね。絵師が将軍義教に同行して兵庫で再開第一次の遣明船を見送った時に写生した遣明船をベースに兵士を配し神功皇后の軍船として描いた可能性があります。
 当時の絵画は時代考証などは一切なく描かれた当時の風物をベースに過去の想像図を描いていたといいます。ちなみにこの船の艫を押している白い装束の人物は住吉明神だそうです。

 遣明船は当初から対外貿易用に建造された大型商船を外交使節や商人などの居室用の屋形を増設するなど大規模改修を行って用いた。大きさは150人から200人の乗員に加えて食糧、貿易商品などを搭載したので1000石~2500石積くらいの大船だったと思われる。

 航海は兵庫から瀬戸内海を通り、博多に集結し準備を整え渡海するのが常だった。季節風を利用し春は南方の五島奈留浦から、秋は北の肥前大島小豆浦から寧波(ニンポー)を目指しました。帰りは夏に多い南西の季節風を利用した。風が悪ければ翌シーズンを待つ慎重さもあったという。
 応仁乱以降は堺から四国南岸をまわり九州を迂回する南海路も開かれます。これには勘合貿易の権利を争った細川・大内両氏の対立が激化したことが大きいが安全性や経費の面では瀬戸内経由の方が優れていた。

 それに航海技術の進歩があった。12世紀前期には中国船は磁石を航海に用いているので頻繁な交流があった日本船も15世紀には一般的に磁石が用いられはずで格段に航海の安全が向上していたのでしょうね。帆は莚帆だったが当時は高価だった高性能な鉄の錨が装備されていた。

【参考文献】:「日本の船」和船編 安達裕之著 船の科学館 
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by pac3jp | 2010-06-09 11:43 | 歴史・民俗  

兵庫県立考古博物館の復元古代船「ヒボコ」

 ボクは色んな博物館に行くのは好きな方で、展示されているテーマが「海や船系」だと是非にでも見てこようという気になってくる。昨年には姫路城に隣接した兵庫県立歴史博物館で開催された「船と海の博覧会」などにも行ってきた。ここには近世に活躍した弁才船の大型模型が2隻あり、司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」で有名になった高田屋嘉兵衛の解説コーナーもあった。

c0041039_1681414.jpg ところが、3年前に我家から南西に17kmほど離れた播磨町に兵庫県立考古博物館が新しくオープンした。ここは県内各地の遺跡から出土する壷や皿などを展示していてフネ系の展示物はないだろうと思って今まで有料ゾーンには入らなかったが、今回、中世に滅びた「但馬守護 山名氏の城と戦い」という特別展を見学にいった際、初めて常設の有料ゾーンに入った。
 (上の画像は大きな見張りヤグラが象徴的な兵庫県立考古博物館 西方から撮影)

 入り口に入ると中央部の「交流 みち・であい」のコーナーに大きな刳船の準構造船が据付られているのが目に入る。早速近くで詳しく見学することに。
  
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 この復元古代船は博物館ができた時、テーマ展示用に古事記、日本書記、播磨国風土記などに但馬・出石に関わる「アメノヒボコ伝説」からヒボコが朝鮮半島・新羅から倭国にやってきたときに乗ってきただろうと思われる船を遺跡から見つかった板図や古墳から出土した船形埴輪などを参考にデザインし、建造されたという。

 船体は長さは11m余りで幅は2.5m位だろうか、分厚い前後の竪板と舷側板が波から荷物と乗員を護っている準構造船だ。船底は単材で単純な構造だが外観はチョウナで削った跡がきれいな仕上げ模様になっている。当時は鉄釘がないので船底部と竪板は木組みで、舷側板はさくらの皮(黒いテープ状のもの)をつかって繋いでいた。隙間はマキハダを打って水漏れを防いでいた。

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 船内は後ろ向きに立って櫂を漕ぐようになっている。固定の舵は平安時代までないのでこの当時は大きめの櫂で操船していた。
 命名・進水式は日本海の造船所で行われたので展示用とはいえ、ちゃんと船首と船尾に係船ビットが設けられているのが面白い。でも、船底材と曲がった船首材を結合する役目もあるのかも知れない。

 復元船の原木は直径2m、樹齢800年くらいのベイマツを使っているという。本来はクスノキでしょうが、もうこんな大きな材は手に入らないでしょうね。しかし、時代設定が三韓時代の朝鮮半島なのでクスノキやベイマツは生えてないが太いマツはあったと思うなぁ。

 ちなみにこの復元船を建造中の様子がネットワーク広場の映像ブースのビデオで見ることが出来ます。

【関連記事】:古代の大海戦 白村江の軍船は?

【参考Web】:1.アメノヒボコ
【参考Web】:2.兵庫県立考古博物館
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by pac3jp | 2010-05-11 16:21 | 歴史・民俗  

テレビドラマの時代考証

 4月上旬に放送されたNHKテレビドラマ「大佛開眼」は奈良の「平城遷都1300年祭」の関連番組だろうか、初期の遣唐使船で帰国した吉備真備を主人公に貴族が権力を争うなか国家が大佛を建立する大事業に挑む天平時代の物語だ。その後編を、つい最近になってやっと録画を見た。

c0041039_9231355.jpg 古代ドラマは衣装や建築物など専門家が時代考証をしてから撮影されるのものだと理解しているが、このドラマを見ていてボクは最後の部分の二ヶ所ほど違和感を覚えたシーンがあった。

 それは藤原仲磨呂が戦(惠美押勝の乱)に破れ、傷を負い、ただ一騎で琵琶湖湖岸にたどり着き、岸に舫われた小舟で脱出しようとする。小舟は古びた色合いにしてはあるが、構造は今も使われている棚板つくりの伝馬船だったことだ。

c0041039_9234245.jpg この時代の小型船は刳舟(丸木舟)だった可能性が高い、大型船は刳船の船底部と舷側板を持つ準構造船になっていた。それが刳船部分が航(かわら)になり、棚板つくりになってくるのはずっと時代が下って16世紀中期からで、磯で漁をする小型漁船などは原始の時代から、そう進歩のない丸木舟が昭和の時代まで使われていたという。
 右上の画像は男鹿半島で使われていた「エグリブネ」と呼ばれる丸木舟。

c0041039_9241489.jpg また、最後のシーンはその小舟に真備が乗り、船頭が櫓を押し沖に漕ぎ出してゆく場面がある。これも少し引っかかる。櫓は7世紀中頃に中国から伝わり、平安時代に海船から普及したといわれているので、天平の時代に琵琶湖の小舟が櫓を装備しているのはちょっと早いと思いますね。まだまだ櫂の時代でしょう。しかし、映像では櫓も当然のように江戸時代初期に使われ始めた二材を継いだ継櫓だったが、初期の櫓は棒のような棹櫓だったのに・・・。

 スタッフリストに古代船の時代考証を担当した名前もあったが、多分、荒海を往く遣唐使船のシーンだけをを担当したのだろう。巨大な大佛のセットで予算が食い込み、時代に合った小舟を再現する予算が足らなかったのかもしれないなあ。


【参考Web】:NHKプレマップ「大仏開眼」Ver.2(ユーチューブ動画)
【参考図書】:日本の船 安達裕之 著 
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by pac3jp | 2010-04-28 09:35 | 歴史・民俗