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未来のコンテナターミナル

 先日訪れた神戸築港資料館「ピアしっくす」の展示室正面には未来のコンテナターミナルの模型がある。これは港湾管理者が描いた近未来のコンテナターミナルの姿だろう。

 ケースに収まった模型を見ると、まず、バースの岸壁がドックタイプになっていて、スイッチを押すとコンテナ船が出入港し、門型のガントリークレーンが動き、コンテナがターミナル内を効率よく移動する様子が理解できる仕組みになっている。(下の画像)
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 現在のターミナルと構造上大きく変わっているのはコンテナ船がドック型のバースに入っていることと、そのバースにコンテナを両舷から迅速に荷役できるガントリークレーンが設置されていること、それにコンテナの並ぶ方向が異なる。

 一方、コンテナ船を運航する船会社(NYK)が思い描く近未来のコンテナターミナルは、これから始まるCO2や運航経費の削減をも含めたスーパーエコシップへの移行も考え、近未来の港湾は船舶のモジュール化に対応した下の画像のようになるといっている。(画像はNYK・HPより)
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 荷役方法も上部デッキはガントリークレーンで下部デッキは自前のクレーンでとダブルのシステムを駆使してスピーディな荷役をして港の停泊時間を減らし、その時間分だけ航海速度を下げることができ、CO2の削減に有効だという。

c0041039_15383173.jpg 近未来のコンテナターミナルをあわせて見ると役所が考えるターミナルと民間の船会社が考えるターミナルでは大分違うということが分る。
 荷役をスピーディに行うのは当然だが、船舶のモジュール化など運航コストにかかわる部分で港湾施設を柔軟に整備するなんてことは難しいことだろう。
 しかし、大手の船会社は各地に専用バースを持っていて、港間の競争も激しいから管理者との交渉次第では新型岸壁を造ってもらえるかもしれない。

 でも、こうして新しい港の形を見ていると、昔の突堤は上屋付きの串桟橋だったのがコンテナ化で長い1本の岸壁になったと思ったらまた幅の狭い串桟橋に戻って行くようで、なにか港まで歴史は繰り返すのかと思うね。

 ボクも昔はスターンのブイをひらって槍付けの係留だったので、強い横風が吹くと係留に苦労したものだ。その後、浮桟橋のハーバーに変わるとなんとラクチンかと思ったが、芦屋にあるベルポートでは1隻専用の浮桟橋で、右舷からも左舷からも乗降できるし、風で流されることもなく舫いを取れるという。このような高級マリーナで過ごしていると操船の腕は落ちますよ、確実に!
まぁ、大きなお世話でしょうね。
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by pac3jp | 2009-12-08 16:03 | ウオッチング  

神戸築港資料館「ピアしっくす」

c0041039_17314864.jpg つい最近、国交省の出先機関である神戸港湾事務所が管理運営する神戸築港資料館「ピアしっくす」に行って来た。この資料館は神戸港の中心から少し東に離れた第6突堤の根っこにある。平成16年8月オープンだというのでもう5年も経っているが、知る人ぞ知るという存在でし
ょうか。
 ボクは昨年の8月に続いて2回目の見学だ。「ご自由にお入りください」とドアに張り紙があり入り口は開いている。今回も施設の照明は自動点灯だったし、見学者は勿論、留守番の係員もいなかった。少々不用心だと思うが泥棒が持っていきそうな物は何にもないのでその点安心なのかな。

 港湾工事が専門のお役所が造った資料館なので港湾土木工事に関わる機材や工法の展示物が並んでいる。それだけだと愛想がないので神戸港の歴史が年表や図表、写真資料などで展示してある。割合広いスペースを割いて港系?セミナーコーナーもある。

 ボクはマリコンの仕事にも興味があるので、今回は防波堤の構造や工事方法について説明してある展示に注目した。防波堤はどこの港でもあるが、構造まで知っているヨットマンは少ないと思われるので少しお勉強を・・・。

 模型もあったが、一緒に置いてある防波堤工事のイラストの方がよく分る。↓画像
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 イラストを見ての感想は、主になる構造物である大きなケーソンは港湾用地の端の方でよく造られているし、沖で見る防波堤の工事ではガット船、クレーン船、ダイバー船、引き船などが仕事をしているのだが、見える部分は海面に出ている部分だけで殆どは海中にあってヨットからどんな仕事をしているのかは見えないので一度は海中の仕事も見学したいものだと思っていた。

イラストに1~7の番号が打ってある。
1.まず2000トンのケーソンの製作、それを浮かべてタグボートで据付する場所へ曳航する。このシーンは周防大島で見たことがあるなあ。
2.海底に潜水士が基礎石を積んで長い防波堤の基礎を造る。
3.その上にケーソンを沈め潜水士らが据え付ける。
4.ケーソン内部に砂を詰める。
5.上部にコンクリートを打ち蓋をする。
その後、順々に工程を進め、外海側に波消しブロックを積み上げ防波堤は完成する。

c0041039_17362222.jpg ボール紙で作ったようなお粗末な埠頭の模型だがグレーはケーソンやコンクリート部分、茶色は基礎石及び裏込石が入り、海底の地盤は白く改良(砂の杭)され耐震埠頭のように見える。

 阪神淡路大震災の時、耐震化が考慮されてなかった西宮一文字防波堤は沈下してしまい、満潮時は水面下で港の景色が変わったように見えて、どうなるのかと心配したものだが、今は重要な港湾設備は耐震化がはかられいるという。

 今年の夏、南の島々を回ったが、瀬戸内の防波堤と違って外洋の大波を防ぐ防波堤は大きいので時間も掛かるし工事も大変だ。でもしっかりと守られた港に入ると安心する。そして、ヨットが安心して停泊できるスペースがあればもっと嬉しいなあ。
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by pac3jp | 2009-12-05 17:42 | ウオッチング  

神戸大学 海事博物館

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 各地の博物館で海事関係の催しがあるとき「神戸大学 海事博物館所蔵」と表示された展示物を時々見かけることがある。 一度は本家に行って見たいと思っていたが中々機会がこなかった。
 
 この博物館(資料館)は神戸商船大学の付属施設としてずっと前からあることも知っていたし、大学の前は通勤とハーバー行きで毎日通っていた。しかし、開館日が月水金の午後だけなので長らく行きそびれていた。

 先週の金曜日、近くで会合があり、それが早く終わったので、突然思い立って神戸大学深江キャンパスの海事博物館を訪れてみた。
 沖から構内の練習船などが係留されている泊地を覗いたことはあるが、正門からは入るのは初めてなので守衛さんに挨拶をし、あっちと言われた駐車場に車を回す。
 
 博物館は大きな講堂の1階部分を占めている。今は企画展「戦前・戦後のポスターにみる日本商船」として山田早苗コレクション「日本商船隊の行動記録」、「徴用船」の記憶などの展示がされている。

 ボクは今、和船に興味が出ているので「企画展」と反対回りで見学する。そちらは常設の展示物で北前船など各種弁才船の模型や沖縄のヤンバル船、西洋型帆船の模型、それに沖縄の刳りブネである「サバニ」の実物もあった。

 貴重な近世の航路図や絵馬、船箪笥など骨董品は当然ながらガラスケースに入っている。また昔の学生が学んでいたのか三連成蒸気エンジンの模型やレーダー、ジャイロなど古い航海機器の展示もある。へー、と思ったのが本船の測深をまだ重いハンドレッドに獣脂を詰めて使っていた時代の大きな自動測深器を見たことだ!

 午後3時に入り、あれこれ見ているとすぐに時間が過ぎてしまう。午後4時になると今日はもう閉館ですと告げられてしまった。ああ残念。
 ボクと一緒だった一般見学者は4人くらい、当日の入場者名簿を見ると16名となっていた。海事博物館の入場者ってこんなもんですかね。

 一般の博物館に較べて海事について専門に研究している大学が設置している博物館なので詳しいことは当然でしょうね。今は時間に余裕があるのでまたテーマを持って見に行ってみようと思っている。

 余談だが、ボクの仲間や知り合いには神戸商船大学出身のヨット乗りは結構いらっしゃる。そして皆さん紳士であることが共通しているなぁ・・・。

【参考Web】:神戸大学 海事博物館
【ご参考に】:企画展にあわせて第3回市民セミナー「博物館資料と戦時徴用船」が開催される予定だ。 10月3・10・17・24日 11月7日(無料)
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by pac3jp | 2009-09-29 13:03 | ウオッチング  

兵庫県立歴史博物館「船と海の博覧会」

c0041039_14205388.jpg 世界遺産・姫路城の北側にある兵庫県立歴史博物館で地元の姫路港開港50周年記念事業として「船と海の博覧会」が開催されていると新聞広告に出ていたので先日見学に行ってきた。

 「博覧会」という名称と夏休み期間の特別展と言うこともあって余り期待せずに行ったが、やっぱり小・中学生向けの展示だった。

 メインの展示は自館所蔵の1/10サイズ弁才船の菱垣廻船と北前船の2隻が大型で、あとは小型模型と残りは1/500サイズのミニ模型がずらっと並んでいた。それに「船の科学館」から借り出した巡回用だろうか、子供向けの海イベント用機材も並んでいる。

 でも一つ、収穫は弁才船の船主が自分の趣味で彫刻など取り付けている場所や杉や松材で造られる船体に大きなケヤキの一枚板を貼り付ける場所などを再発見しただけだった。

 1階の無料の常設展示室にもう一隻の弁才船で1/10サイズの樽廻船が置いてあった。ここでは高田屋嘉兵衛と北前船について解説してもらっている人がいた。そして、かなり知識のあるお客さんらしく学芸員が北前船と樽廻船や菱垣廻船の海損保険の制度についても説明していた。

 ここでじっくりと近世の海運について聞いてみたいとも思ったが、残念ながらもう帰る時間がきてしまった。またにしようか!

 この企画展は日本財団の助成事業なので「海と船の博物館ネットワーク」に各地で開催される色々な展示情報が見れます。

【参考Web】:兵庫県立歴史博物館 
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by pac3jp | 2009-09-18 14:31 | ウオッチング  

昔の漁船が使っていた碇(レプリカ)

 現在は船の錨と言えば金属製でもっぱら鉄で造られたものが普通だが、近世までの日本では鉄は砂鉄から製鉄されていて結構高価な素材だった。従って近世当初は多量の鉄材が必要な錨などはかなりの資力がある領主の船舶や裕福な商人の大型商船しか購えなかったらしい。

c0041039_1641849.jpg 江戸時代の物流に大活躍した、菱垣廻船や樽廻船などの弁財船(千石船)は大小合わせて八本の四爪錨を装備していたと言われている。大阪港のなにわの海の時空館にある復元船「浪華丸」の一番錨は80貫(300kg)もある鉄の錨である。以下、番が一つ下がる毎に5貫目軽くなり画像の立っている七番錨は50貫(188kg)ある。

 一方、昔から沿岸で漁をしていた舟は今も使っている鉄と木を組み合わせた唐人錨などを積んでいたのだろうか、あるいは昔ながらの石の碇を使っていたのだろうか、どっちだろうかと前から思っていた。

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 今年のクルージングでは種子・屋久~奄美・沖縄までの博物館や郷土資料館で地元の漁業に関する展示の内「イカリ」に注目して見て来た。そこでは大昔の刳り舟の時代から、サバニやイタツキ船などが小さいエンジンを搭載する以前は、沿岸で漁労をする小舟の碇は石と木を組み合わせたもの、あるいは綱を取り付けやすい穴をあけた丸い石、石を網袋に詰めたものなどであったという。

c0041039_1685537.jpg 碇のレプリカを見ると現在の漁船のバウに載っているアンカーも素材が木からステンレスになっているが同じ形をしている。岩場やサンゴ礁に引っ掛けて船を止め、もし外れなければエンジンパワーで引けば爪が伸びて岩から錨が外れる。原理は一緒だが昔の木の爪の方がサンゴ礁には優しそうだなぁ・・・。

 そう見ると小型の沿岸漁船が唐人錨などを使うようになったのは鉄が大量生産で安くなった事もあるが多くの漁船がエンジンを搭載し、今までより沖合いで漁をするようになり効率の良い錨が必要になってきたからだろう。

そして、石と木の碇はそこで有史以来の長が~い寿命が尽き、やっと博物館入りしたわけだ!

【関連記事】:古い碇
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by pac3jp | 2009-08-17 16:21 | アンカー  

弁才船の帆走 Part2

 前の記事にある2枚の船絵馬をどうご覧になりましたか? 一見どちらも追風帆走のように見えますが、上の船の帆は右舷船首寄りの風を受けています。そのため風上になる帆の前部(ラフ)から船首方向に数本の両方綱が引かれているのがかすかに見えます。
 と、言うことで上の船絵馬が逆風・横風帆走中の弁才船です。下の船絵馬は両方綱が後に回っているので追風帆走です。

 因みに弁才船の積載量は本帆の反数で大体決まっています。上の船絵馬の本帆の反数(細長い部分)を数えてみると28反帆だったのでこの船は1300石積で、下は22反帆なので700石積という具合になります。

c0041039_16554092.jpg 弁才船の風上帆走性能については当時の船頭の航海記録などによると60度まで上ることが出来ると書かれているそうだが、「なにわの海の時空館」の復元・菱垣廻船「浪華丸」(25反帆の1000石積)で実際の性能を大阪湾で検証したときには70度まで上ったとされている。(左画像上)

 帆船の逆風性能にはリーウェイをどう押さえるかが問題だが、時代と共に大きくなってきたあの巨大な舵(1000石積で6畳敷大)もキールのような効果があったという。

 普通のヨットでは最大45度風上に進むと次はタッキングして反対タックで風上方向に向いながら風位の方向に進んでいくが、積荷を満載した上に上り角度も悪い弁才船はタッキング(上手回し)はしないそうで、ウエアリング(下手回し)でタックを入れ換える効率の悪いマギリ航法になる。
 白石一郎の海洋時代小説では上手回しの場面も出てきたように思うが、かなり海の条件がよくないとタッキングはできないのかもしれない。

 ボクも強風で波の悪い海をクルージングしているとき、安全を考え、ジャイブ回りで風上に向かうことも度々あった。でも帆走性能がよいレーシングヨットに乗っていたらボクでも絶対しませんね。

c0041039_16594578.jpg 画像左は「浪華丸」が右舷後方からの強風を受け、7ノットで追風帆走しているショット。帆船が一番よく走る風だが船首が低く甲板の防水が弱い弁才船が波の高い海を航海するときは大変だったのだろう。

c0041039_1703156.jpg 以前は弁才船である菱垣廻船や樽廻船が一枚の大きな帆だけで帆走していると思っていましたが、実際に速さを競う番船ではスピードや操船上必要な各種の補助帆を用いていたようで、右画像は19世紀中頃、「新綿番船船出帆図」に描かれた総帆を揚げた新綿番船。一番前の弥帆・中帆・伝馬帆・副帆・艫帆と目一杯帆をあげている。


【参考資料】1:なにわの海の時空館
      2:日本の船 和船編 安達裕之著
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by pac3jp | 2009-04-06 17:11 | 帆船  

遣唐使船の島 広島・倉橋島

 久し振りに神戸・元町の海文堂書店に寄った折、二階の海事関係の書棚で小さなタウン・マガジンを見つけた。雑誌名は「港町から」そして「瀬戸内海 倉橋島」を特集した創刊号のようだ。副題に遣唐使船の島と書かれている。

c0041039_13571620.jpg 倉橋島は九州方面クルージングの途中で数回寄港したことがあり、そこには古くは遣唐使船を建造してきた古代から木造船に関わってきた島の歴史が展示されている「長門の造船歴史館」があり、施設の中央には復元された遣唐使船が展示されていた。
(画像は復元遣唐使船の模型)

 遣唐使船は奈良~平安時代の1200年も昔、平均して一隻に150人が乗り組み4隻船団で600人が南シナ海を渡っていったと聞いていた。それを見て、150人乗りとしてはボクの想像よりもずっと小さかったが船体のつくりが立派なのが驚きだった、それに遣唐使船の派遣が菅原道真の建議で中止になってからその造船技術は全く途絶えてしまったという。そんな資料が乏しい古代の船舶をどのようにして復元したのだろうとズーッと思っていた。

 そんな疑問も見つけた小さな雑誌でみんな解消した。

この↓復元遣唐使船は20年前「'89海と島の博覧会・ひろしま」のメイン展示物として建造された。
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長さ :25m
幅  :7m
帆柱高:17m 
平成元年(1989年)建造

 「一枚の絵巻から復元した遣唐使船」には 設計及び建造監修者 松木 哲さん(神戸商船大学教授=当時)に取材した記事があり設計の意図も分かった。絵巻は吉備真備が乗った遣唐使船を描いた有名な法隆寺の絵巻「吉備大臣入唐絵詞」のイメージで外観は設計された。船の大きさは、一人寝るには畳み一畳は必要というところから100人~120人が同時に寝るとすると大体25m位の大きさになる。当時の中国船も凡そ25m位だったのでそれにも倣った。

 船体構造については、遣唐使船も前期は壱岐・対馬から朝鮮半島の沿岸を航海できたので内海用でも良かったが、白村江の戦い以降は友好国だった百済が新羅に破れたので外洋を航海し、唐に直行しなくてはならなくなり遣唐使船は耐航性のある構造船に変わっていったと考えられる。

c0041039_13585415.jpg 最初、復元船は展示物なので一番大事なのは外観だ、ということで内部構造は地元の船大工さんが手馴れた木造機帆船の構造になった。そして建造は桂浜の洋式ドック跡(画像右)で始まった。
 この建造を取り仕切った船大工の棟梁はフレームは全て檜、外板は杉、それも最高の日向弁甲を選び、棟梁以下船大工12名、槙皮職2人、帆職人、宮大工など17名のスタッフで8ヶ月にも及ぶ建造に取りかかった。

 やがて、船がドックでその姿を現せてくると展示物は海に浮かべようということになり本物の船になってしまった。その時期、広島で和裁教室を開いていた女性から「自分の70歳の記念に当時の衣装を全部作って差し上げましょう」という申し出があり、わざわざ京都まで調べに行って正一位から漕ぎ手までの衣装を作ってくれた。
 そして、はれて進水の日を迎え、鮮やか船体を海に浮かべ会場に向け出航するときには、古式豊かな古代の衣装に身を包んだ関係者達をのせ瀬戸内海を航海していった。船上には最高位、性一位に衣装に太刀を佩いた設計者の姿もあった。

 そんな復元遣唐使船も今は倉橋町の「長門の造船歴史館」に保存展示されていて、地元は遣唐使船と倉橋に関する歴史と文化を「くらはし遣唐使まつり」などで次代に伝承してゆくという。


【関連記事】:古い碇
【関連記事】:「合いの子船」 
【参考資料】:「港町から」第1号 08年10月30日発行 株式会社 街から舎
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by pac3jp | 2009-02-25 14:18 | 特殊船  

曳航測程儀(パテント ログ)

 以前に自作のハンド・ログについて書いたが、歴史の順から言えば次は曳航ログの番だがこの航海計器は簡単に自作は出来そうにない構造を持っているし、身近なところではもう見かけないのできっと博物館にしかないだろうという話になっていた。

 神戸港メリケンパークに神戸海洋博物館という名の博物館はある。いまや間借させている「カワサキワールド」のバイクやヘリコプター、そして新幹線車両の展示の方が人気がある。本家の海洋博物館は模型の船舶を並べただけで「海洋」についての内容は本当に寂しい展示なのでよっぽど暇な人しか入っていない様子だ。

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c0041039_16382149.jpg そんな海洋博物館で本船用の曳航測程儀(パテント ログ)を見つけた。一度も使われてない新品のようだった。現役当時はバックアップ用として大切に保管されていたものだろう。

 ボクはヨット用のウォーカー式の曳航ログは見たことはあるがこれは随分大きい。ローテーターの長さも40cmくらいはありそうだった。ログラインはないがハンドルのような調速機が面白い。使い方と名称はイラストをご覧ください。この展示されたセットには指示器だけで室内でログが読める受信機はついてないようである。

 イギリス人トーマス・ウォーカーは1878年ローテーターがログラインを介して船内にある指示器を動作させるという考え方で特許4369を取った。1890年にはローテーターをブリッジの横から出した円材から曳航させ特殊なジョイントで回転を直角に曲げてブリッジ内に導く方式を提案した。これは電気式が採用される1902年まで多くの客船でつかわれていたという。

 ウォーカー・ログはパテントをとったことから、P・ログといわれ長らく親しまれてきた。日本でも1955年頃、一般商船ではもう船底動圧式ログが使われていたが、タンカーだけはまだP・ログが使われていた。その理由は電気式である動圧ログ装置が積荷の油から発生するガスに引火する危険があるため電気を使わないパテント・ログがタンカーだけに用いられていたのだった。

 こんな話 《船酔いP・ログ》
船に弱いものをP・ログといってからかうことがある。P・ログは航海中は海中で横(寝て)になっていて、航海が終わると立てかけて格納しておく。船に弱い者は航海中は寝ており、港に入ると立っていることから、P・ログになぞらえて「P・ログのようだ」というわけである。


 一方、船底に穴を開けたくない人や電気がないヨット用にはウォーカー社から曳航索が20mばかりの小型のものが昔は販売されていたらしいが、今はもう骨董屋さんで探す部類でしょうね。野本先生のご本、スピン・ナ・ヤーンには速度も距離も測定でき電池で動くSTOWEの電子式曳航ログを常用していたと書いておられるが、いまでも販売されているかどうかは残念ながらボクは知らない。


【関連記事】:ハンド・ログ 
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【参考図書】:航海技術の歴史物語 飯島幸人著
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by pac3jp | 2009-01-10 16:43 | ヨットの艤装と艤装品  

「海路安心録」

 日本人が近代的な航海術に出会うのは長崎に設置された海軍伝習所(1855年)でオランダ海軍の教官から幕府海軍の候補生達が習ったのが最初ではあるが、それ以前からも天文や測量の計算に和算を使っていた人達が推測航法や漂流してしまい船位を失った時、天体観測などで本国に帰る方法などを論じた航海?の本が幾つか刊行されていた。

c0041039_11324854.jpg 特別展「描かれた船」で面白い挿絵を見つけた。それは江戸時代後期(1816年)に発行された航海書「海路安心録」坂部勇左衛門広胖の著作の中にあった。

 タイトルは「洋中水を取全図」とある。この著者によると、充分沖合いの大洋では五十尋(約90m)以上の水深に真水があり、それを採取する方法を図で説明している。

 50尋以上の綱に栓を付けた樽を括り樽の底に碇をつける。栓は綱にそわせてある細綱に繋ぐ。船から綱を下ろし、予定の水深まで届くと伝馬船の男が栓を引き抜く。すると真水が樽に充填され、それを引き上げ、伝馬船の水桶に入れるという段取りだ。

 一方、前記の本より6年前(1810年)に刊行された「廻船安乗録」では航海中に真水をとるにはランビキの法があるけど、やはり塩気が多く、海水を真水にする法を知る人はいないかと記し、大洋の水深五十尋に真水があるとは全く触れてない。

 この著者、服部義高は、官船船頭として長く伊豆八丈島の航海に従事していた人で、伊豆八丈島は、伊豆七島中最も江戸との海路交通往来の頻繁な所であった。また、江戸以外の附近の島嶼との海路交通の必要もあった。これらの航路は危険が多かったので、造船・航海術等が進歩発達した。本書の記述は著者の実際的経験から出たものであるので何れも適切であり、簡明でしかも要を得ている。(図書の解説から引用)

 以上のように実務経験のない和算家が書いた本と、海上経験が深い船乗りが書いた本には実務面での記述に大きな相違はある。

c0041039_11462462.jpg 現在では本船を捨てて、ライフラフトで漂流した場合、救命水が無くなれば、真水を採取するためにランビキと同じ原理の黒いビニールの容器が積み込まれていたように記憶しているが、今は搭戴品リストに入ってない。どうなっているのだろう。(効果があるとは思えなかったが・・・)

 最近では手動の造水機が手っ取り早いので、皆さん緊急脱出用品として準備されているようですね。

参考図書:日本航海術史 飯田嘉郎著

【関連記事】:ライフラフトの救命水と応急医療具 
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by pac3jp | 2008-03-07 11:48 |  

江戸時代に外国船をサルベージした男

 先日、兵庫県たつの市の龍野歴史文化資料館で開かれている「描かれた船」という特別展を見学してきた。室津の賀茂神社の古い船絵馬が修復されたのを記念して帆船と関連する資料が集めらて展示されていた。

その中で特にボクの興味を引いたのが「長崎蘭船挽揚図解」だった。

 1798(寛政10)年10月、出帆しようとしたオランダ船が急な嵐で長崎港外で沈没した。これを周防国櫛ケ浜村(現、周南市)の廻船業 村井喜右衛門が引揚げに成功し、再び同船を日本から船出させるまでを描いた絵図。この成功は国内だけでなく海外までも知られたという。
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 上の図は全体の流れを描いている。

 嵐で長崎港外唐人ケ瀬で座礁(左下)→マストを倒して浸水した船を港内に曳航している(下中)→やがて木鉢浦まで引き寄せたが沈没→沈没した船を浮上させる(右中)→ 多くの大船・小船が帆をあげ岸近くへ曳く(中)→砂浜に乗り上げ積荷を降ろし修繕を始める(左上)
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↑図は難破したオランダ船を修理している作業場の海上風景である。船の修理用材が肥前の国からやってきた(中上)。マスト材は地元の寺社林から大杉を切り出したという。
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↑図は難破した6000石(900トン)もある大きな木造帆船の引揚げを請負った喜右衛門が考えた仕組みを詳しく図で説明している。

 長崎奉行へ提出した資材リストには、大柱は長さ13尋、廻り6尺余もの2本、長さ8間、廻り5、6尺もの20本、スギ柱長さ6尋もの240本など柱だけで1444本、竹は廻り1尺ぐらいのもの600本、板は長さ6尋、幅5尺、厚さ8寸ものなど60枚、これらをくくりつける綱は苧(お)綱、市皮綱、ヒノキ綱が300本、4斗ダル250個、土俵2000俵、タイマツは5尺〆もの3000把、滑車大小合わせて900余個。など厖大だった。
 作業船は毎日60石積み(9t)を75隻から150隻、作業員は600人前後。柱を船の回りにたて干潮のとき沈没船と引き船を結びつけておき、満潮で浮上すると、すかさず沈没船の下へ土俵をつめる。つぎの干潮でまた同じ作業をするとあった。


 ボクの疑問は何故、長崎で難破した外国船を防州の人間が引き揚げるようになったかだったが、Webで調べてみると、この事件はかなり有名で、サルベージの先駆者として長崎や山口県に多くの資料があった。

 寛政10年といえばまだ鎖国の時代。幕府は長崎を窓口にオランダとだけ通商をしていた。船の年表によれば近藤重蔵が蝦夷を巡視し、エトロフ島に至る。高田屋嘉兵衛が国後島やエトロフ島に漁場を開く。ロシア船が日本の周辺に現れ始めていた頃である。

 その今から約200年も昔、国内ではまだ千石船が運航していた時代に、6000石もある外国帆船のサルベージをした村井喜右衛門の仕事もすごいが、商人の仕事なのにちゃんと現在まで記録が残っているのも素晴らしい。

防州出身のボクのお友達に聞けば、こんな話はきっと詳しくご存知でしょうなぁ・・・。

参考Web:村井喜右衛門
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by pac3jp | 2008-03-05 16:57 | 歴史・民俗