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日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」

先日、神戸・元町の海岸通りに全日海が運営する「戦没した船と海員の資料館」の見学に行った。

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日本は昭和16年12月8日から米・英・蘭・中など連合国を相手に太平洋戦争を始め、敗戦までの3年9か月に及ぶ長期間、日本近海を始め太平洋や遠くインド洋でも戦いました。陸海軍艦船は勿論ですが、民間の商船も多数徴傭され戦争遂行のために働き、多くの船舶が潜水艦や航空機の攻撃で失われてしまいました。その数、凡そ2800隻、乗員は60,608人が命を失いました。そして、資料館はこれら船舶の在りし日の写真が年度別に分類され展示されている。

パネルには一般の汽船が殆どだが中にはアメリカ海軍の軍艦が獲物にするには小さすぎるだろうと思われる遠洋漁船の写真も入っている。

展示物は写真パネルばかりでなくモデルシップもある。ケースの中に空母らしきモデルがある。

以前の記事「旧陸軍が運航する船艇」にも書いたが陸軍が上陸作戦専用に1934年(昭和3年)建造した「神州丸」の発展型で飛行甲板を持つ揚陸艦「あきつ丸」だ。戦没した商船だけが展示されているので何故と思ったが、解説文に日本海運所属 陸軍特殊貨物船とある。
(陸軍は戦時の際に徴用することを前提として海運会社に補助金を出し、上陸舟艇母船を民間籍の商船として建造させている)

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【仕  様】

総トン  :9,433t
全 長  :152m
水線長  :143.8m
全 幅  :19.5m
吃 水  :7.86m
飛行甲板:全長123m
全 幅 :22.5m
機 関  :重油専焼水管缶4基+ギヤード・タービン2基2軸
最大出力:13,000hp
最大速力:21.0kt
乗 員  :
兵 装  :八八式 7.5cm単装高射砲2基(1943年:4基)・三八式 7.5cm野砲10基
      九八式 20mm 単装高射機関砲8基・九六式 25mm単装高射機関砲2基
搭載機  :九七式戦闘機13機・三式指揮連絡機8機・ (輸送任務時には一式戦闘機「隼」等20~30機弱を搭載可能)上陸用舟艇:大発動艇27隻


旧陸軍が上陸作戦用の大型の揚陸艦を開発・保有しようとした背景には、当時の海軍には戦艦・巡洋艦・空母など前方装備の拡充に総力を注ぎ、輸送や船団護衛・上陸支援など地味な艦種の開発をしなかったので必然的に陸軍が受け持つことになったという。
あきつ丸の運用分担は本船の操船は民間の船員が担当し、兵器となる大発動艇や対空火砲は陸軍船舶兵が受け持ち、搭載航空機は陸軍飛行隊が運用したのだろう。

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艤装形態が平時・戦時舟艇満載・飛行甲板装備状態と変更できるようになっていたが、竣工は1942年(昭和17)の戦時中なので飛行甲板が設置されていた。

太平洋戦争開戦直後に竣工した「あきつ丸」は早々に蘭印作戦の第16軍ジャワ島上陸戦にて、第2師団のメラク海岸揚陸の任に当たりこれを成功させた。以降「あきつ丸」は南方各地への輸送任務に就いたが、太平洋戦争後期には陸軍版護衛空母の候補となり、1944年(昭和19)飛行甲板の拡幅・甲板後部デリックの撤去・独自開発の着艦制動装置設置等の改装が行われている。

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あきつ丸の飛行甲板に駐機する三式指揮連絡機2機(画像は上下ともウイッキペディアより)

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三式指揮連絡機(対潜爆雷2個、着艦フック装備)は対潜哨戒能力や離陸距離 49~68m、着陸距離 45~61m(向かい風4m) など123mの飛行甲板でも短距離離着陸性能が良好で低速巡航が可能(Max280㏋で最高速力178km!)なので「あきつ丸」の対潜哨戒用の艦載機に選ばれた。

足が遅いので操縦者はグライダー操縦経験のある特別操縦見習士官第1期出身者にて構成される独立飛行第1中隊が編成され、日本近海で対潜哨戒任務に就くことになった。

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輸送船団の中で航行中の「あきつ丸」の雄姿だが ↑ まだ船尾のマストとデリックがあるので改装前の姿だ。
護衛空母に改装された頃の「あきつ丸」の航空写真 ↓ 

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【あきつ丸の最後】

1944年(昭和19)11月14日0600
ヒ81船団(僚船9隻、護衛7隻)として部隊要員約2500名を乗せ、伊万里湾発マニラに向け東シナ海を航行中、15日1150頃、N33度05分、E128度38分(五島列島福江・長崎鼻北40㎞付近)において米潜水艦SS-393 QUEENFISHから発射された魚雷を左舷船尾に受け、搭載していた弾薬、爆雷が誘爆し船尾が沈下、その後火災が発生し3分後に横転裏返しとなり沈没した。沈没により部隊要員2093名、船砲隊140名、船員67名が戦死。
部隊要員の中には教育総監関係学校卒業者227名が含まれる。 ↓ 図の赤丸は沈没場所

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米潜水艦SS-393 QUEENFISH ↑

この潜水艦は「あきつ丸」を撃沈した4か月半後の1945年4月1日に、米国も航海の安全を保証し安導券を付与した赤十字の救恤(きゅうじゅつ)運搬船阿波丸を魚雷攻撃し、2000人を越す犠牲者を出した「阿波丸撃沈事件」を起こす。
艦長は「不注意」だったと認めて戦後米国から補償がなされた。


※救恤とは:困っている人を救いめぐむことです。そして、救恤船は敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船を指します。船体の表示標識は緑地に白十字です。


下記は戦争が終わった時政府が発表した船舶被害の総数です。

官・民一般汽船  3,575隻
機 帆 船     2,070隻
漁    船     1,595隻
合    計     7,240隻


参考web:1.あきつ丸 ウイッキペディア

     :2.戦没した船と海員の資料館


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by pac3jp | 2014-04-29 17:07 | 歴史・民俗  

ジャイロ六分儀(Gyro sextant)

 いま、神戸大学の海事博物館で「航海術と計器の発展」という企画展が開かれている。(2011.7.15~2011.10.28)

 古い航海計器などに興味があるので7月18日の「海の日」に見学に行ってきた。この博物館は原則、土・日・祝日は休館で月・水・金の13:30~16:00のみ開館しているというマイナーな施設ですが、さすがに海事博物館なので祝日の「海の日」には開館していた。

 航海計器も色々あるが、ボクが今回初めて実物で見たのが「ジャイロ六分儀」と「気泡式六分儀」だった。
 六分儀で天体を観測する場合は必ず水平線が明瞭でなければならない。しかし、明るい月夜か薄暮、薄明の短い時間しか観測できない欠点がある。そこで水平反射鏡、水銀盤など人工水平を使って観測する多くの方法が試みられてきたという。

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 ↑「ジャイロ六分儀」は初めて見聞きするタイプの六分儀だった。
   メーカー名;PONTHUS'&THERRODE PARIS'

 「真空中で高速回転するジャイロを利用してこれを六分儀の水平鏡の前に取り付け人工的な水平線が得られるように工夫されたものです。」(説明板より)

 保管箱に入ったジャイロ六分儀を眺めるとフレームに取り付けられた円筒内にジャイロ本体が入っていてその底にガスコックのようなものが2個付いている。これが真空ポンプの接続口だろう。でもジャイロを高速に駆動させる動力源が見あたらない。

 係りの人に聞いても「ジャイロの回転が空気抵抗で落ちないように真空にしている。最初の駆動は紐で回しているのかもしれない・・・」と「地球ゴマ」の遊びかたのようなお返事だった。それにしても天体観測に先立ち真空ポンプを用意するのは大変だったですね!

 このジャイロ六分儀は航海用ですが、元々は飛行機の航法士が使っていたのでしょうね。航空用のジャイロ六分儀はこちらをご参照下さい。

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 ↑「気泡式六分儀」(Babble sextant)はアルコール水準器を六分儀の中に組み込み、人工的に水平をつくり観測するなど割と理解しやすい構造を持っている。こちらも初めは航空機用として開発されたが海上でも使用された。しかし、10分以内の精度はでなかったという。
メーカー名:島津製作所

 どちらも展示ケースに入っていて詳しい構造が分らなかったのでもう一度出かけて詳しく観察してこようと思っている。

【関連記事】:セクスタント
 
【参考Web】:神戸大学 海事博物館

 
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by pac3jp | 2011-07-24 16:58 | ヨットの艤装と艤装品  

風信盤・・・「陸奥記念館」

 遺品などが展示されたケースのなかに航海用だろうか、或いは砲術用なのか、小さい円盤様のハンドツールが並んでいた。海から引き揚げたものではなく当時「陸奥」で使っていたものを乗員の縁者が寄託したのだろう。

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 ↑「風信盤」と中々クラシカルな名前だ。説明板には、航海中、風速計で測ったものから更にこの計算盤で真の風向・風力を算出するものと説明されている。
(クリックすると大きくなります。)

 詳しく観察すると円周には360度の方位が刻まれ中央の太い部分には艦速の目盛りが0~30ノットまで打ってある。そしてその目盛りの上を移動する右のアームは風力が2~60ノットまで打ってある。艦速プレートに接続された上のアームの刻印が読めないのが残念だがこのツールで簡単に真の風向・風速が計算できるたのでしょうね。

 でも軍艦の航海用にこのようなものは使わないでしょうし大砲の照準には真の風向・風速を射撃盤に入力する必要があるのでちゃんとした専用の計器があると思うし・・・はて、何に使ったのでしょうね。


c0041039_13141258.jpg この「風信盤」を見ているとずっと昔、コンパスとデッキに貼り付けたMUSUTOの計算盤「コンピューコース(Compucourse)」でレースコースを帆走っていたこともあった。コミッティが上マーク設置後、風の振れでスタートラインの傾きでコースに有利・不利がでるのでこれでチェックするのだ。単純にコンパス角度を暗算で計算しても良いのだが、ボクの頭はつらいハイクアウトが長く続く状況では計算・メモリー能力はどんと落ちてしまい役に立たなくなってくる。しかたなく簡単操作の「コンピューコース」に依存していたのだが・・・。

 ↑「Compucourse」サイズ:140×190mm もうウン十年前に買ったものだが探したら出てきた。今でもまだ販売されているのだろうか。

 またフネでよく使う円盤と言えばチャートのコンパスローズだ。ボクのクルージングポリシーは紙チャート主義だったのでGPSプロッターはバックアップで使い、定規は「チャート プロットレクター(Chart Protractor)」を使っていた。日本古来の三角定規は持っていたがほとんど使わなかった。このツールはチャート上でコースを引くと円盤を回し地元の偏差にマークをつけておくと即、磁針方位がでる。わざわざコンパスローズまで定規を動かさなくても良いのだ。操作は簡単だし値段も安い。今でも多分20ドル位だろう。ずっと重宝していた。でも高機能GPSプロッターや電子チャートが増えてきたのでもう既にオールドタイマー専用品でしょうね。きっと。

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 ↑「Chart Protractor」サイズ:130×385mm 19.99$ westmarine

 ボクも電気もないレーザーに乗っていた頃は小さなコンパスとカンだけで走らせていたので見かけの風だけで充分だった。やがて大枚をはたいて設置した風向・風速・ログにGPSを加えて使うようになってくると、昔は原始的に走っていたなどと思っていたが、ディスプレーに出てくるデータを充分に使いこなすこともせず(出来ず)やっぱりカンが主体で走っていた。そんな時でも“運”がよければローカルレースで上位に入ることもあったなあ。

 こんな昔話をしているとまたシングルハンダーで帆走ってみたい想いが出てくるが、今度は体力不足が大問題になってくる。
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by pac3jp | 2011-05-29 13:27 | ヨットの艤装と艤装品  

陸奥爆沈・・・「陸奥記念館」

c0041039_8341613.jpg ボクも安芸灘の柱島西に旧海軍柱島泊地があり、戦艦「陸奥」が謎の爆沈をしたことは知っていて一度はその場所に行ってみたいと思っていたが、今までヨットで柱島の東は時々航行しても西側には行ったことがなかった。

 しかし今回は車だったので泊地の南に位置する周防大島の東端の伊保田から旧柱島泊地方面を眺めたが、折からの黄砂で視界が悪く肝心の柱島も見えなかったけど地図によると多くの小島に囲まれた適度に広い水面が狭い海峡で閉ざされている環境が潜水艦による奇襲攻撃などの防御がし易い感じだったのでしょうね。

 その屋代島・周防大島町伊保田には大東亜戦争中、帝国海軍の旗艦だった戦艦「陸奥」(39050トン)が昭和18年6月8日正午頃にこの島の沖の柱島泊地で大爆発を起し沈没し、乗員、1,121人の犠牲者を出してしまうという大事件があった。
 それから27年後の1970年から8年間に渡り遺品及び艦体の75パーセントの引き上げを行った。そして遺品や艦の一部、遺族から寄贈・寄託された貴重な資料を展示し、恒久平和とその歴史を後世に伝えるためにその爆沈海面が見える陸に町営の「陸奥記念館」がある。

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 陸奥記念館正面 前庭右に艦首錨が展示してある。ちなみ主砲は呉の大和ミュージアムのエントリーに展示しされている。

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 館内風景 画像の右下に犠牲者の写真が出身の都道府県名と名前が表示されているが中には無名の写真があったように思ったが何故だろう?

 陸奥記念館では良く分らなかった部分ももう少し知りたいと思ってノンフィクション「陸奥爆沈」吉村 昭著を読んでみた。

 丁度、深田サルベージが「陸奥」の引き上げ作業を始めた1970年に発売されたので当時は話題の本だったという。大戦中にそのM調査(軍事機密のため艦名は伏せられた)に関わり当時存命された多くの関係者の聞き取り調査や軍の報告者などを検証し中々詳しく書かれている。

 著者による犯人像は艦の警察・軍紀・風紀の維持を担当する衛兵司令(士官)の下部に所属するQ二等兵曹が疑わしいと書かれているが爆沈後の死体も発見出来なかったので、もしやと思って27年後の出生地を訪ねてみても分らず結局著者も確証は得なかった。

 原因は当初新型砲弾の自然発火などと言われていたが、海軍当局が実施した調査によって、内部からの人為的要因によるものと推定されたが、物的証拠等の決め手がなく、断定には至っていなかったのである。しかし、引き揚げられた物件等から、当時の推定の妥当性が確認され、それまでにあったスパイによる破壊工作等、様々な憶測に基づく議論に終止符が打たれることとなった。(参考Web 2.より引用) 

 読んでいて驚いたのは1905年(明治38)日露戦争の連合艦隊旗艦だったあの有名な軍艦「三笠」(15,140トン)がバルチック艦隊を撃破して佐世保軍港に凱旋し、東郷平八郎大将が天皇に報告するため東京に向かった夜、突然火薬庫から火災が発生し、鎮火したかと思われたが続いて大爆発を起こして爆沈した。
 原因はお偉方がいない艦内で開放的な気分なった兵たちの内数名が深夜上官の目の届かぬ火薬庫に酒を持ち込み宴をひらいた。そのときローソクが倒れ、火薬に引火した。兵たちはあわてて消そうとしたが、たちまち大火災となり火薬庫が爆発し、艦は沈没し、死者は251名に達した。

 原因は火薬の自然発火とされたが、しかし、この上記の事実が判明したのは「三笠」が神戸沖で2度目の火薬庫火災事故を起した6年後の1911年(大正1)だった。

 明治~大正期の日本海軍では軍艦「三笠」を最初として、1906年(明治39)の軍艦「磐手」、1908年(明治41)の軍艦「松島」(4280トン)、1911年(大正元)に再び軍艦「三笠」と軍艦「日進」(7750トン)、1917年(大正6)軍艦「筑波」(13750トン)、そして翌1918年(大正7)に軍艦「河内」(20800トン)と、明治から大正の時代にかけて7 件もの事故が起こっている。明治39 年の「磐手」と大正元年の「三笠」、「日進」は小規模の火災事故だったが、それ以外は多くの犠牲者を出した爆沈事故だった。

 当初これらの事故は、艦内にあった弾火薬類の自然発火によるものと考えられたが、多くの犠牲者を数えた海軍当局は事故の原因は火薬の自然発火ではなく、内部の人為的要素によるものであると突き止め、以後徹底的な事故防止対策が実施され「三笠」爆沈からの14年間に7件も続発していたこの種の事故は1918年(大正7)に軍艦「河内」以降は沈静化し、「陸奥」爆沈までの26年の間、再び発生することはなかった。

 だが多くの乗組員が複雑な装置を操る軍艦の内部は規律を強めても何らかの人為的トラブルが発生する可能性は絶えずあると思われるが、致命的な大事故を防ぐ手立てもまたあるはずだと思う。

 諸外国の例ではアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ロシアでも火薬庫事故があり、日本はイギリス・フランス・イタリアなどともに人為的な火薬庫事故が多いといわれていたが、何故かドイツには公表される?大事故はなかったようだ。

 アメリカの空母のようにちょっとした町の人口並みの五千人を越す若い兵士が長期間艦内で共同生活しているという軍艦の軍紀や治安の維持などはどうしているんでしょうかね、チョッと興味があります。


【参考Web】:1.戦艦陸奥(ウイッキペディア)
【参考Web】:2.軍艦爆沈事故と海軍当局の対応 ※PDFファイルです。
    -査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察- 
         山 本 政 雄(防衛研究所戦史部所員)         
         
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by pac3jp | 2011-05-22 08:50 | 歴史・民俗  

「棟 梁-堂宮大工の世界-」

c0041039_16561589.jpg 大手ゼネコンの竹中工務店は創業が慶長15年(1610年)というとても古い会社だが、明治32年神戸に進出し、最初に本社を置いたゆかりの地に「竹中大工道具館」がある。木造建築には長い伝統と歴史をもつ同社が、近年の大工道具の目覚しい機械化で使われなくなってゆく古い優れた大工道具を収集・保存・展示している企業博物館があるのは以前から知っていたが見学の機会がなくずっと気になっていた。

 ところが、開館25周年を記念して表題の巡回展が開催され、法隆寺大工棟梁だった西岡常一さんの堂宮大工としての業績や彼の使っていた道具類が展示されていて、唐招提寺金堂の屋根荷重を柱や梁に伝える巨大な斗栱(ときょう)の実物大模型も展示されると言うので見学に出かけた。

 初めての訪れた博物館だが、法隆寺の金堂に使われているという大斗がのった丸柱のモニュメントと和風の白壁の建物がよくあい、良い感じである。小振りな印象だったが地上3階と地下1階の4層に展示物があり充分楽しめた。

 まず、有名な西岡棟梁がお使いだった道具を見せていただくが、きれいに研がれて今でも現役のようである。刃物はこのように保管しなくてはと我家の「数本の鑿」とつい較べてしまい大反省。棟梁の道具選びは名人が作った道具にはこだわらず「道具はよく切れたらいい」主義だったようですと解説員からとお聞きし、やっぱりと納得した。

c0041039_177156.jpg カンナな鑿、鋸など普通の大工道具の他に西岡棟梁が法隆寺金堂の昭和修理のために古代~中世に使われていたヤリガンナを絵巻や遺物を参考に「実際に作業に使える道具」として復元した。そんなヤリガンナも展示されていた。
画像左上はヤリガンナの刃と木型

 もう一つ珍しい定規があった。画像左中「さお定規」で礎石の凸凹に柱の底を合わせるときに使う(ひかりつけ)。竹で出来たオサを上からたたいて形状をうつす。堂宮は礎石が巨大なため、さお定規も並外れて巨大である(長さ1.3m)。

左下のモノクロ画像はこの「さお定規」で礎石の凹凸を測っているところ。

 茶室などの建築は礎石の上に柱をのせることもあるので今でも小さなものは使われているらしい。

c0041039_1703646.jpg 唐招提寺金堂斗栱 原寸大模型のCG画像
西岡常一・鵤工舍製作(1986年)国立科学博物館蔵

 天平の甍で有名な金堂の屋根と柱をつなぐ部材(斗栱)だが真近で見ると太く大きい。それにヤリガンナで仕上げた削り跡に古代の雰囲気がある。構造は金具やボルトで組み立てるのとは違って太い木の部材だけで組み立てる構造になっている。位置はそれぞれ中心のピンで決め後は屋根の重量で押さえているのだろう。
 この博物館は天井が低いので柱の部分と軒の部分が省略されているが、11月20日から開催される名古屋会場はトヨタの大きな博物館なので3mもある部材全部の組み立てが見られるらしい。

 唐招提寺の平成大修理の映像を見ていると大きな材を継手と仕口の技で組み合わせていた。継手とは材をのばすため同じ方向につなぐもので仕口とは材を直角や斜めに組むもの(組手)と端部を材に差し込むもの(差口)のことをいう。巨大な堂宮の建造は限られた長さの材をしっかりつなぐ技があってのことだろう。
 館内にも精巧に加工された各種の継手の模型があるが、見ているだけで日本の大工さんの伝統の技は凄いなあと感じたものだった。

c0041039_178416.jpg 堂宮大工さんのお仕事は長いスパンを経てくるもので、700~800年前のある日、一人の大工さんが東大寺南大門の梁の上に置き忘れてきた只の墨壷が今や大工道具博物館のお宝にもなっている!

 これから京都・東本願寺や奈良のお寺にも出かける機会も時々あるので全体の姿だけでなく柱や軒の斗栱など細かい部材までよく観察してこようと思っている。


【参考Web】:竹中大工道具館 
【参考資料】:「棟 梁-堂宮大工の世界-」展示解説図録
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by pac3jp | 2010-11-17 17:14 | ウオッチング  

進徳丸メモリアル(2)

 深江丸をはじめ神大海事科学部に所属する船艇が停泊するポンド東側の用地に設置された「進徳丸メモリアル」を訪れる。夏草に埋もれていたようだが業者の若者が草刈の真最中である。もう暫くで作業完了の見込みだ。

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 デッキに上がりマストを見上げる。その昔は最後尾に立っていたジガーマスト(22.4m)で帆船時代は41.5mもあったという。マストの回りに汽笛やホーンなどが置いてある。
 振り返れば屋上には舵輪が載った大きな窓のブリッジ風の船室がある。そのブリッジ内には船長公室、隣には主機関の一部と実習生居室などが配置されている。

 施設の周囲に進徳丸のアンカー、プロペラなどの装備品と当時の木造の交通艇「むこ丸」(深江の沖に停泊した進徳丸への交通艇として活躍し、多くの学生が学校のポンドから、むこ丸により進徳丸に乗下船した。)が展示してある。

 1923年(大正13年)生まれの練習帆船・進徳丸は当時一般的な石炭を燃料とするレシプロ蒸気機関を搭載していた。舶用ディーゼル機関がやっと使われはじめたという時代だった。

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主機関(Main engine)
三段膨脹往復蒸気機関 2基 帆装を取り外して汽船で運用された時代もこのスチームエンジンだった。
1基 625HP 総馬力 1,250HP
高圧シリンダー:直径305mm 中圧シリンダー:直径 508mm 低圧シリンダー:直径838mm  ストローク:600mm
速力(機走) 10.5ノット (帆走) 13.0ノット

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【ご参考に】三段膨張機関の動作例

 赤で示されている高圧蒸気がボイラーから入り、青で示されている低圧蒸気として排気され復水器へ送られる。弁室は対応するシリンダーの左側に位置している

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トロットマンズ・アンカー(Trotman's Anchor)

 ヨーロッパの帆船で多く使用されており、フリューク部が可動式になっている。潮の満ち引きが激しいヨーロッパならではの錨である。
 特徴:爪の背に突き出ている突起が海底に引っかかり、爪が土中へ貫入するようになっている。片方の爪が土中に入ると、もう片方が寝た状態になる。初代の日本丸、海王丸にも搭載されていた。

c0041039_6194773.jpg 実習生居室の壁には、「追憶」のプレートが入った額が掲げられています。

昭和22年7月24日播磨灘二見沖において爆沈の悲運にあい、多数の死傷者を出した。戦後これを引き揚げ、神戸三菱ドックに曳航、改装修理が施され、昭和22年5月30日進徳丸は再興された。当時実習生として乗船していた高等商船学校第二期生らがこれを記念し、真実と自由と友愛の証として、真鍮板に「追憶」を刻し、昭和23年3月10日第一教室(学生食堂)左舷の壁に掲げた。以来、光り輝く青春の象徴として親しまれ、多くの実習生の手により磨き続けられた。(説明板より)

※窓際にあるその説明文の下線の年数が間違っていました。進徳丸が米軍の攻撃を受けたのは昭和20年の7月24日でした。

【関連記事】:進徳丸メモリアル(1)
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by pac3jp | 2010-08-14 06:41 | 帆船  

進徳丸メモリアル(1)

c0041039_8471742.jpg 神戸高等商船学校の初代進徳丸は華麗な帆船として生まれ、戦争の時代に汽船となりやがて陸に上がり神戸商船大学のモニュメントになったのだが、ボクの通勤コースの道路からもずっと見えていた。
 その後、阪神淡路大震災で進徳丸が倒壊し解体されてしまったことは新聞などで知ったが、被災地域に住居も職場もあったボクはもう自分の事でセイ一杯ですっかり忘れていたが、ある日小さいメモリアル施設に生まれ変わっていることに気が付いた。

 一度は行って見ようと思っていたが先週やっとその機会がきた。

 ボクにとって進徳丸の名はずっと身近な存在だった。それは昔、母からよく聞かされた話があったからだった。

 「戦争中、西岡(集落名)のすぐ沖の進徳丸に毎日のようにグラマンが飛んできて機銃掃射し、船の人がようけ死んだったんよ」、そしてグラマンの不発弾が村のあちこちにばら撒かれ「庭掃除をしていたお寺の人が不発弾の爆発で亡くなったこともあるんやで」と任意欄座した進徳丸の空爆の様子をよく教えてくれた。

 記録にある進徳丸が欄座した位置からボクの実家との直線距離を測定すると半農半漁の小さな部落を挟んで僅か500mほどしか離れていない。グラマンの編隊がもう動けない進徳丸を狙って急降下し、機銃掃射やロケット弾で攻撃する轟音は周囲の住民に恐怖の音として聞こえてきたのだろう。ボクも防空壕のなかでその音を聞いていたはずだが今では全く覚えてない。

戦時中、緊急物資の輸送として石炭輸送に従事していた昭和20年7月24日正午頃、二見沖停泊中、米軍の艦載機の機銃掃射とロケット弾による空爆を受け甚大な被害を被り、沈没を免れるため任意欄座した。この空爆により死亡者6名(実習生5名、乗組員1名)、重傷者6名(全員実習生)の人的被害を被つた。空爆は31日まで続き船体は無数の銃弾を受け全焼した。火災により当時の公式記録はすべて焼失した。二見港沖方位124度、距離420mの地点であった。
終戦1年後の昭和21年(1946年)7月31日に引揚げ作業が始められ、8月19日浮上、8月24日三菱神戸造船所に曳航され、修理が施された。翌昭和22年(1947年)5月30日汽船練習船「進徳丸」が甦った。
(神戸商船大学 海技実習センター年報 第2号 平成13年3月30日より)


 もう日本がほとんど降参していた昭和20年7月、終戦の20日前に、商船学校の練習船を執拗に空爆した米軍も非常識だが、無念にもお亡くなりになった若い学生5名と乗組員1名のご冥福をお祈りします。

【関連記事】:進徳丸メモリアル(2)
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by pac3jp | 2010-08-12 08:04 | 帆船  

神戸大学海事博物館「江戸時代の海路の賑わい」を見学する

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 2010年8月6日(金)深江の神大海事博物館で企画展「江戸時代の海路の賑わい」で当時の海図と海路・道中図などの展示がされて開催されているので見学してきた。昨年、同時期に別の企画展を見学したのだがあれからもう一年だ、時間の経つのは全く早い!

c0041039_1011461.jpg 当日の博物館の来館者はボクを含め3人、記入した名簿の上の欄にはこのジャンルで著名な大先生の名前が記入されていた。そして管理事務所の方から賑やかに談笑する声が聞こえてくる。
 さて、どちらからと算段していると当番?のボランティア・スタッフ氏が「こちらからどうぞ!」とおっしゃる。お喋りをしながら次々と展示物を楽しく見学するが、いつものマイペース見学に馴れた身にはちょっと忙しかったが一通り見学してきた。

 展示のメインは自前の海路図屏風六曲一双の2枚だ。金泥多彩色の華麗な航路図屏風は元禄の頃の作と考えられ、大坂から瀬戸内海・周防・長崎にいたる航路を里程と島々や海岸部のお城や寺社などが描きこまれた素晴らしいものです。とても航海の用に使うものとは違いもっぱら豪華なお部屋の装飾品ですね。

 長崎の町が特に大きく描かれているので長崎にゆかりの深い絵師の作品か、あるいは元禄の頃、大坂から見る長崎は外国に開けた素晴らしく大きな町だというイメージが定着していたのかもしれない。

 その他の展示された海図や航路図の内、数点はペリー来航前後の幕末の作成で、藩が海防の為に作成したものや実際の航海にも使えるように方位と距離が記入された海図、それに仙台藩が自力で建造した洋式帆船「開成丸」の江戸~仙台の実測航跡図もある。その航海も終わりに近づく頃、目的港方向から吹き出す強風の風上航に散々に苦労している航跡が描かれている。

 バーチャルミュージアム「海図」というパソコンと大型モニターで古い海路図を大きく見せる展示があるがどうも解像度がいま一つで地デジで見る鮮明な画像に慣れた目にはもうちょっとはっきりした絵にして欲しいなあと思ってしまう。

 ボクが気になったのは「外国船来航と当時の人々」の展示でケースに入っていた数冊の和漢書で「スループ備方法則」と後の書名は忘れたが面白そうな口絵が描いてある本だった。多分ここの海事科学部の図書館に行けば見せてもらえるはずだが、さて、読めるかな・・・。

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 上の画像は企画展のパンフレットです。クリックすれば大きくなります。
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by pac3jp | 2010-08-08 10:05 | ウオッチング  

兵庫県立考古博物館の復元古代船「ヒボコ」

 ボクは色んな博物館に行くのは好きな方で、展示されているテーマが「海や船系」だと是非にでも見てこようという気になってくる。昨年には姫路城に隣接した兵庫県立歴史博物館で開催された「船と海の博覧会」などにも行ってきた。ここには近世に活躍した弁才船の大型模型が2隻あり、司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」で有名になった高田屋嘉兵衛の解説コーナーもあった。

c0041039_1681414.jpg ところが、3年前に我家から南西に17kmほど離れた播磨町に兵庫県立考古博物館が新しくオープンした。ここは県内各地の遺跡から出土する壷や皿などを展示していてフネ系の展示物はないだろうと思って今まで有料ゾーンには入らなかったが、今回、中世に滅びた「但馬守護 山名氏の城と戦い」という特別展を見学にいった際、初めて常設の有料ゾーンに入った。
 (上の画像は大きな見張りヤグラが象徴的な兵庫県立考古博物館 西方から撮影)

 入り口に入ると中央部の「交流 みち・であい」のコーナーに大きな刳船の準構造船が据付られているのが目に入る。早速近くで詳しく見学することに。
  
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 この復元古代船は博物館ができた時、テーマ展示用に古事記、日本書記、播磨国風土記などに但馬・出石に関わる「アメノヒボコ伝説」からヒボコが朝鮮半島・新羅から倭国にやってきたときに乗ってきただろうと思われる船を遺跡から見つかった板図や古墳から出土した船形埴輪などを参考にデザインし、建造されたという。

 船体は長さは11m余りで幅は2.5m位だろうか、分厚い前後の竪板と舷側板が波から荷物と乗員を護っている準構造船だ。船底は単材で単純な構造だが外観はチョウナで削った跡がきれいな仕上げ模様になっている。当時は鉄釘がないので船底部と竪板は木組みで、舷側板はさくらの皮(黒いテープ状のもの)をつかって繋いでいた。隙間はマキハダを打って水漏れを防いでいた。

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 船内は後ろ向きに立って櫂を漕ぐようになっている。固定の舵は平安時代までないのでこの当時は大きめの櫂で操船していた。
 命名・進水式は日本海の造船所で行われたので展示用とはいえ、ちゃんと船首と船尾に係船ビットが設けられているのが面白い。でも、船底材と曲がった船首材を結合する役目もあるのかも知れない。

 復元船の原木は直径2m、樹齢800年くらいのベイマツを使っているという。本来はクスノキでしょうが、もうこんな大きな材は手に入らないでしょうね。しかし、時代設定が三韓時代の朝鮮半島なのでクスノキやベイマツは生えてないが太いマツはあったと思うなぁ。

 ちなみにこの復元船を建造中の様子がネットワーク広場の映像ブースのビデオで見ることが出来ます。

【関連記事】:古代の大海戦 白村江の軍船は?

【参考Web】:1.アメノヒボコ
【参考Web】:2.兵庫県立考古博物館
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by pac3jp | 2010-05-11 16:21 | 歴史・民俗  

二隻の復元遣唐使船が日中で建造中!

 角川財団が2010年の中国・上海万国博覧会に原寸大の復元遣唐使船を派遣するというニュースは聞いたことがあったが、4月24日から開催される奈良の平城遷都1300年祭の平城京歴史館の付属施設としても同じく原寸大で建造中だという。

 同時期に二隻もの復元遣唐使船が建造されるのは多分初めてだろう。角川財団は中国・蘇州で、奈良・平城京では伊豆・松崎で作られた船体ブロックが平城京跡で組み立て中である。

c0041039_17382658.jpg まず、角川財団の日中文化交流と友好のシンボルとして遣唐使船を再現しようという2億円プロジェクトの遣唐使船から見てみる。

 完成予想図の船体は青く塗られ、まさに中国ジャンク船のようである。船体は長さ30m、幅9.6mで、日本で設計し、中国の張家港で建造されている。

 船体は確かに船であり、もう外板が張られてデッキに屋形が建築中なのが見えている。工事現場に作業員のバイクや自転車が置いてあるのが中国らしい?
 この遣唐使船は今年5月にゆかりの地である大阪で出港式典を行い出港し、瀬戸内海から博多、長崎・福江島へ、ここでデッキ積みされ東シナ海を渡り中国に入る。そして6月11日に上海万博会場に入港する予定。その後13日から18日まで開かれる上海万博「日本ウイーク」のイベントに参加する予定。

c0041039_1739743.jpg 一方、平城京跡で建造中の遣唐使船の完成予想図は「吉備大臣入唐絵巻」など当時の様子が描かれた数少ない絵巻物を参考に考察を重ね、設計図を作製したといわれている。そのせいか色合いなども広島・倉橋島の復元遣唐使船によく似ている。しかし、キールがないようので船舶としては設計されていないようである。

 船の大きさは木造で排水量約300トン、積載量約150トンと想定し、長さ30m、最大幅9.6m、高さ15mで中国で建造中の船と同じサイズになっている。それにこちらの総工費も2億円だという。


 8世紀以降の遣唐使船は東シナ海を通る南路を航海したので準構造船では危険なので朝鮮半島や中国から入ってきたジャンク系の構造船を使ったと思われるが当時の史料がなく、復元遣唐使船を建造するには、やむを得ず、12~13世紀に描かれた法隆寺の「吉備大臣入唐絵巻」などを参考に設計されているが、その絵が2~3世紀も昔の正しい姿を写しているとは決して保障できないという。

 いつの日か考古学者が本物の遣唐使船を発掘するかもしれませんが、それまでは手に入る史料を元に想像力をに膨らませられる自由があるのも幸せなのかな・・・。

 下の画像は復元遣唐使船の設計者がよく参考にする、《吉備大臣を乗せた遣唐使船》 12世紀末から13世紀初めの作とされる「吉備大臣入唐絵詞」より

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【関連記事】:遣唐使船の島 広島・倉橋島
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by pac3jp | 2010-02-16 17:58 | 特殊船