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兵庫県加西市の鶉野(うずらの)飛行場跡を訪ねる

 兵庫県の東播磨地域に旧日本軍の飛行場があったことは前から知っていたが正確な場所となるとちょっと自信がなかったが・・・。
 毎年8月の終戦記念日が近づくと新聞は大東亜戦争時代の話題が掲載される。今年は旧姫路海軍航空隊基地があった加西市の鶉野飛行場跡の防空壕など戦争遺跡が見学可能になったと報道された。
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 初めてこの鶉野飛行場跡地にやって来て驚いた。66年前の姫路海軍航空隊基地の建物跡は当然全くないが、当初からある60m×1200mの滑走路はちゃんと残っていた。北東端のほうで道路が横切り1200mの全長は使えないが、今でも軽飛行機位の離着陸は充分出来そうだ。
 その古びたアスファルトの滑走路を地元の車がのんびりと走っているし、おっちゃんが自転車で横切っているが、今でもれっきとした陸上自衛隊の演習場だと表示されている。残りの用地は神戸大学農学部の農場と一般の農家に分譲され周辺は立派な農地になっている。(滑走路の画像はガイドブックより)

 ここには戦前、西宮・鳴尾浜で水上機や飛行艇を生産していた川西航空機が戦争末期に局地戦闘機「紫電」と「紫電改」の大増産で甲南製作所、宝塚製作所そして姫路と工場を次々と開設していた。
 姫路製作所は1942年(S.17)に姫路・京口に開設された。完成した機体を分解して遠くまで馬車や牛車などで飛行場まで運ばなくてはならないので1943年(S.18)、姫路海軍航空隊基地が開設された鶉野飛行場隣地に鶉野組立て工場を開設した。そして、終戦までの3年で「紫電」466機、「紫電改」44機が製造された。

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 「紫電」は水上戦闘機「強風」のフロートを取り外してエンジンを中島の軽量・強力な「誉」に換え陸上戦闘機に改造されたが翼は水上機の中翼のまま。一方「紫電改」は低翼になり機首や胴体断面の形状が変わり胴体が40cm延長された。故障が多かった長い脚柱も短くなり「紫電」の課題は一挙に解決した。

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 飛行場の各種施設のうち堅固な構造物だった防空壕や機銃座が数多く残っている。そのうち見学できるのは民家の敷地内にある半地下構造の防空壕で空襲時には地下指揮所に使われていたという施設だが、長い間水没していたのを地域の皆さんの協力で排水・整備し、戦争遺跡として公開されている。

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 入り口の看板には「姫路航空隊 飛行科 地下指揮所・需品庫」と書かれている。もう一方の出入り口は竹材で加工された戸があり和風庭園の一部になっている(右画像)。

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 防空壕は分厚いコンクリート造りで2部屋あり東部屋は3.7m×4.7m、西部屋は3.7m×3.1mで天井はドーム状で高さは約3m、地上からの通路は10mで爆風を防ぐため曲がり角が3箇所ある。

 壕内には当時の飛行機の写真や飛行場の史料と、学徒出陣が始まりここで編成された神風特別攻撃隊「白鷺隊」の史料などが展示されている。出身を見ていると、早稲田、明治、東京音楽学校など遠くで学んでいた学生たちがここから訓練用の九七式艦攻で南の海へ出撃していったことがわかる。

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【関連記事】:US-2型救難飛行艇 

【参考資料】:加西・鶉野飛行場跡 加西市教育委員会 (ガイドブック)
【参考Web】:ガイドブック Web版 
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by pac3jp | 2011-08-22 06:24 | 歴史・民俗  

映画「コクリコ坂から」国際信号旗のはなし

c0041039_6551388.jpg 近くのショッピングセンターでタグボートにUW旗(ご安航を祈る)が翻る図柄の映画ポスターがチョッと気になっていた。そして、つい最近、その宮崎アニメ「コクリコ坂より」を見てきた。

 時代は1963年、横浜港をみおろす丘の上に建つ古いがよく手入れされた洋館で下宿屋を営む一家のしっかり者の女子高生「海(うみ)」が主人公。毎日、海が見える庭先の掲揚ポールにU・W旗を揚げるのを日課としている。

 庭先からは港の沖の錨泊地だろうか、デッキにデリックが並んだ懐かしい三島型の貨物船が数隻描かれている。神戸港でもコンテナ船が出現する前には殆どがこのようなタイプの船が岸壁や沖のブイからハシケで荷役していたのをよく見ていた。

 丘の上からコクリコ坂を下ってくると市街地になる。背景がみんな懐かしい。街の看板、肉屋さんのコロッケ、オート三輪、自転車、それに高校生の学帽などなど。
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 港には石積の護岸が続き、倉庫や船用品を商うお店が並んでいる。小さなはしけに混ざって浮き桟橋に煙突が高いタグボートが係留している。もう1人の主人公「俊」の父親が乗っているタグだ。彼は通学にもこのタグに便乗していて舫い取りや旗りゅう信号にも手馴れているようだ。

 朝、「海」が丘の上で掲げる「U・W」旗に対して「俊」が沖から「1・U・W」旗を揚げている。(UW1は「あなたの協力を感謝するご安航を祈る」となる)

 少女よ君は旗をあげる
 なぜ
 潮風に想いをたくして
 よびかける彼方
 きまぐれなカラスたちを相手に
 少女よ今日も紅と白の
 紺に囲まれた色の
 旗は翻る

と、校内新聞に投稿する。

 「海」の父親は1950年6月から始まった朝鮮戦争で連合国軍に徴用されたLSTの船長をしていて触雷して沈没、帰らぬ人となったが、船乗りだった父の帰りを小さな旗を揚げて待っていた幼少のころからの習慣だった。今も帰らぬ父を慕う想いが丘のうえで翻っている。

日本を占領下においていた連合国軍の要請(事実上の命令)を受けて、海上保安官や民間船員など8000名以上を国連軍の作戦に参加させ、開戦からの半年に限っても56名が命を落としている。1950年11月15日、元山沖で大型曳船LT636号が触雷して沈没し日本人船員22名が死亡した。

国連軍として朝鮮戦争に参戦していたアメリカ軍やイギリス軍の指示により、日本の海上保安庁の掃海部隊からなる「特別掃海隊」も派遣され、死傷者を出しながら国連軍の作戦遂行に貢献した。しかし、日本特別掃海隊は日章旗ではなく、国際信号旗の「E旗」を掲げることが指示された。(Wikipedia)


c0041039_6563338.jpg もう一つ気になる絵があった。コクリコ荘の住人で絵を描く女性がいる。「海」は彼女から沖の船からいつも返答があることを教えてもらうのだが、彼女が描いた油絵の中には「AP(回答)・U・W」となっている・・・。

 同じくコクリコ荘の住人で「北斗」さんの送別会でポールに「HOKUTO」と信号旗が揚げられていたがヨットレースに使われない信号旗だったのでアレ、アレと思っている間に場面が変わってしまいこれは残念でした!

 映画を見ていて色々と思い出した。ボクも高校生の頃は社会科学の本をかじったり、60年安保を考えたりしていたなぁ。でも、電車通学でいつも同乗する女子高生からかばんに小さな手紙を入れられた事も楽しい思い出だったなぁ。青春だったのだ!


【参考資料】:コクリコ坂から 解説パンフレット

【関連記事】:ウェルカム・ポイント 
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by pac3jp | 2011-08-14 07:06 |