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中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇

 波静かな瀬戸内海は大昔より物流の大動脈だったが、中世に入り商品の流通が活発になり海運業が盛んになってくるとそれに伴い海に関わる人々も多くなってくる。そして芸予諸島・防予諸島など多くの島々が集まる海上交通の要衝には「海の民や海の領主」としての海賊がいた。
 海上武装勢力として瀬戸内海の広い範囲に勢力をもつ海賊とは別に、浦々にも自分のテリトリーを持つ小さな海賊もいて各地で活発に活動していた。

 中世・瀬戸内海の船旅でそんな海賊に遭遇した記録を残している人物がいた。
 京都・東福寺の梅霖守龍という僧が寺の荘園がある山口県・徳地に年貢の督促のために出張した時の日記である。(梅霖守龍周防下向日記)

◎1550年(天文19年)9月14日 堺より11反帆(100~200石積)の船に乗る。船頭は塩飽(塩飽諸島の本島)の源三だった。乗客は300人もいて「船中は寸土なき」状態だったというが、さて、どんな人々が乗っていたのか大いに興味が湧くなぁ。

◎備前・日比沖で海賊に遭遇。
賊船一艘来たり、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺いて鏃をならべ鉄炮を放つ、賊船疵を蒙る者多く、しゅゆ(すぐに)にして立ち去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず

 一隻だけの海賊と通行料の談判が決裂し、攻撃されたが本船からの反撃で負傷者をだし早々に退散してゆく海賊。ある程度の武装はしているようである。日比と本島は距離にして8マイルほどなので当時でもごく近いと思うが海賊のテリトリーがもう違うのだ。

守龍さんは運悪く帰りの航海にも海賊に遭っている。
◎1551年(天文20年)4月1日 七ヶ月滞在した周防からの帰路 宮島から「室の太郎太夫」の船に乗る。堺までの船賃は300文で従者は200文を支払ったという。

羊の刻(午後2時)関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以って問答することひぐれに及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

 安芸の竹原沖で「関の大将ウカ島賊船十五艘」と遭遇、15隻と多数の海賊にとり囲まれたため船頭は小舟を出し午後2時から翌朝まで海賊とねばりにねばり交渉し、多めの礼銭を支払うことで決着し航海を続ける。

室:播磨・室の津
関:瀬戸内海で海賊は通行税を取る?ので「関」と呼ばれていた。
  上関、中関、佐賀関、下関など関と名がつく場所は通行税をとる海関があった跡。
ウカ島:尾道市岡島?

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↑中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(石井謙治「図説和船史話」による)

 1575年(天正3年)薩摩の戦国大名島津氏の一族、島津家久一行30人ほどが伊勢参りのために瀬戸内海を旅した記録がある。

◎彼等一行は2月に本拠地である串木野を出発。九州は陸路を、赤間関から船旅になるが順風が吹かず山陽道を陸路で安芸・厳島へ、参拝を済ませ陸路で備後・鞆に向かい4月2日に到着。ここから西宮までが船旅となる。

◎一行を乗せた客船は鞆を出航して塩飽(本島)に入り3~4日風待ちをし、5日の午後に船出する児島の沖に掛かると「ひひ(日比)の関」)、「のうしま(直島か)の関」が相次いでやってくる。島津一行は「いつれも舟頭の捌候」と書き記してあるが、おそらく船頭がその度毎に海賊に礼銭をはずんだのだろう。

◎その日は直島に停泊し翌早朝に出航した。やがて牛窓の沖にさしかかるとここでも「関」が兵船一艘でやってきた。牛窓も海賊の根拠地の一つだったのだ。ここも船頭の捌きで何事もなく収まり、一行は牛窓見物した。その夜は日生の大多府島に船掛りし、翌日は赤穂・坂越、相生・那波等を経て播磨の室津に停泊した。

◎室津では船頭が明石へ上乗りを頼みに行ったため1日停泊を余儀なくされる。どうも播磨・室津が東西海賊の縄張りの境界だったようだ。

◎上乗りの海賊はやってきたが順風が吹かず長い停滞に、それに時代は戦国なので到着地の堺が三好勢と信長の軍勢が戦う場になり、船の運航は室津で打ち切りになってしまうが、相客同士で淡路・岩屋船を借り切り旅を続けることになる。

 相客は宗教系の熊野衆、高野衆、それに武士の日向衆、堺・兵庫の商人たちと多彩な人々が瀬戸内海の客船に乗り合わせていた。長い停滞には互いに酒を飲み交わし、困難に当たれば力をあわせて乗り切ってゆく、そんな船旅をしていたようだ。

 梅霖守龍が瀬戸内海で海賊に遭ってから25年後の1575年の島津家久の船旅にもちゃんと同じ場所でローカルな海賊たちが通行料を要求している。しかし、その後13年が経ち、戦国は終わり豊臣秀吉が天下を統一して1588年(天正16年)に刀狩令と同時に海賊禁止令がでて最早規模の大小に関わらず海賊たちが自由に活動できる海はなくなってしまった。


【参考文献】:「中世 瀬戸内海の旅人たち」 山内 譲著 吉川弘文館
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by pac3jp | 2010-11-29 15:15 | 歴史・民俗  

中世 瀬戸内海の海賊 其の1

 神戸大学海事博物館の市民セミナーは「・・・江戸時代海路のにぎわい」をテーマに5回開催されたが、その内3回は中世の海が舞台のお話しだった。そして最終回は「しまなみ海道は海城ゾーンだった」とおっしゃる山内先生が語る「瀬戸内海の海賊」のお話を興味深くお聞きした。

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    ↑クリックすると大きくなります。

 芸予諸島は大阪湾から広島や松山方面へクルージングする時は必ず通過するエリアだがまず、最初にエリアに入る航路を決めなければならない。大型船は来島海峡になるが、小型船やヨットなどは伯方島と伊予大島の鵜島間にある急潮で有名な「船折瀬戸」を通過する。
 ボクも最初は連れ潮で入り、水路の真ん中に洗岩があったり狭い瀬戸なのにクランクに折れ曲がり「船折れ」とその名前も怖いなぁ、港湾案内には初心者は潮どまりに通過せよとか書いてあったし・・・、と緊張しながら通過したものでした。

 その船折瀬戸の突き当たりに周囲800mというとても小さな島がある「能島(のじま)」だ。その昔「日本最大の海賊」と宣教師フロイスが報告した能島村上氏の本拠だった能島城があった島だが、いつ通っても早い潮流や対向船が気になり島を詳しく観察も出来なかったのが残念だったが、一度は上陸して見たいと思っている。
 また近くの見近島にも海城の遺構が発見され陶磁器も数多く出土されていることから交易の拠点だったのではと考えられている。

 船折瀬戸を西へ抜け宮窪瀬戸に出ると伯方島と大三島の間の南北水路が最大8ノットもの急潮が流れる鼻栗瀬戸がある。古くは鼻繰瀬戸と牛の鼻輪に例えられるほど狭く屈曲したさまを表した名前だったとかいう。地図で見ると広いように見えるが実際非力なヨットで通過すると潮の流れが渦を巻いているようで船折瀬戸と同様緊張する時間だった。

 こんな難しい瀬戸を昔のエンジンを持たない船がよく通過できたなあと感心するが、一方海賊衆はその海域の潮の流れを熟知し自由に行動できるノウハウを持つので通行料の徴収など海賊業が可能になってくるのだろう。

 そして戦国時代まではこれら海の難所にはちゃんと海賊たちも生息していた。その本拠はそれぞれの海城で能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏と近くの島々で活動していた。海賊衆の本拠は小島に築かれた海城で、外敵には海面に守られた城で、海面が土塁、激しい潮流が堀であったという。

 やがて時代とともにこれらの有力な海賊衆は毛利、河野、大友など戦国大名の海上兵力として組み入れられ、水軍として活動してゆく。(続く)
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by pac3jp | 2010-11-23 18:49 | 歴史・民俗  

「棟 梁-堂宮大工の世界-」

c0041039_16561589.jpg 大手ゼネコンの竹中工務店は創業が慶長15年(1610年)というとても古い会社だが、明治32年神戸に進出し、最初に本社を置いたゆかりの地に「竹中大工道具館」がある。木造建築には長い伝統と歴史をもつ同社が、近年の大工道具の目覚しい機械化で使われなくなってゆく古い優れた大工道具を収集・保存・展示している企業博物館があるのは以前から知っていたが見学の機会がなくずっと気になっていた。

 ところが、開館25周年を記念して表題の巡回展が開催され、法隆寺大工棟梁だった西岡常一さんの堂宮大工としての業績や彼の使っていた道具類が展示されていて、唐招提寺金堂の屋根荷重を柱や梁に伝える巨大な斗栱(ときょう)の実物大模型も展示されると言うので見学に出かけた。

 初めての訪れた博物館だが、法隆寺の金堂に使われているという大斗がのった丸柱のモニュメントと和風の白壁の建物がよくあい、良い感じである。小振りな印象だったが地上3階と地下1階の4層に展示物があり充分楽しめた。

 まず、有名な西岡棟梁がお使いだった道具を見せていただくが、きれいに研がれて今でも現役のようである。刃物はこのように保管しなくてはと我家の「数本の鑿」とつい較べてしまい大反省。棟梁の道具選びは名人が作った道具にはこだわらず「道具はよく切れたらいい」主義だったようですと解説員からとお聞きし、やっぱりと納得した。

c0041039_177156.jpg カンナな鑿、鋸など普通の大工道具の他に西岡棟梁が法隆寺金堂の昭和修理のために古代~中世に使われていたヤリガンナを絵巻や遺物を参考に「実際に作業に使える道具」として復元した。そんなヤリガンナも展示されていた。
画像左上はヤリガンナの刃と木型

 もう一つ珍しい定規があった。画像左中「さお定規」で礎石の凸凹に柱の底を合わせるときに使う(ひかりつけ)。竹で出来たオサを上からたたいて形状をうつす。堂宮は礎石が巨大なため、さお定規も並外れて巨大である(長さ1.3m)。

左下のモノクロ画像はこの「さお定規」で礎石の凹凸を測っているところ。

 茶室などの建築は礎石の上に柱をのせることもあるので今でも小さなものは使われているらしい。

c0041039_1703646.jpg 唐招提寺金堂斗栱 原寸大模型のCG画像
西岡常一・鵤工舍製作(1986年)国立科学博物館蔵

 天平の甍で有名な金堂の屋根と柱をつなぐ部材(斗栱)だが真近で見ると太く大きい。それにヤリガンナで仕上げた削り跡に古代の雰囲気がある。構造は金具やボルトで組み立てるのとは違って太い木の部材だけで組み立てる構造になっている。位置はそれぞれ中心のピンで決め後は屋根の重量で押さえているのだろう。
 この博物館は天井が低いので柱の部分と軒の部分が省略されているが、11月20日から開催される名古屋会場はトヨタの大きな博物館なので3mもある部材全部の組み立てが見られるらしい。

 唐招提寺の平成大修理の映像を見ていると大きな材を継手と仕口の技で組み合わせていた。継手とは材をのばすため同じ方向につなぐもので仕口とは材を直角や斜めに組むもの(組手)と端部を材に差し込むもの(差口)のことをいう。巨大な堂宮の建造は限られた長さの材をしっかりつなぐ技があってのことだろう。
 館内にも精巧に加工された各種の継手の模型があるが、見ているだけで日本の大工さんの伝統の技は凄いなあと感じたものだった。

c0041039_178416.jpg 堂宮大工さんのお仕事は長いスパンを経てくるもので、700~800年前のある日、一人の大工さんが東大寺南大門の梁の上に置き忘れてきた只の墨壷が今や大工道具博物館のお宝にもなっている!

 これから京都・東本願寺や奈良のお寺にも出かける機会も時々あるので全体の姿だけでなく柱や軒の斗栱など細かい部材までよく観察してこようと思っている。


【参考Web】:竹中大工道具館 
【参考資料】:「棟 梁-堂宮大工の世界-」展示解説図録
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by pac3jp | 2010-11-17 17:14 | ウオッチング  

お出かけ用の差し板?

c0041039_1535565.jpg 先日、この時期になると例年、修理ヤードの片隅でせっせと自艇用の木工品の製作などに励んでいた工作志向?のヨットマンに出会った。

 今年は何を作るのだろうと彼のフネを覗くと、かなりくたびれた差し板がコックピットに立てかけてあった。「確か、新しいのを作っていましたね!」と声をかけると、キャビンの奥からまだニスの輝きがある差し板を取り出し、「これですよ!」とちょっと自慢げに見せてくれた。

 使わないのですかとお聞きすると、どうも日常の戸締りには古いモノを使い、近くのハーバーのビジター桟橋で一時係留する時などに新しい差し板を使っているらしい。
 新西宮ヨットハーバーなどのビジター桟橋は横付けが基本なので、通行する人からコクピットが丸見えになる。そこでオーナー氏は積層など苦労して造ったカーブの付いたティラーとしっかりとキャビンテーブルと同系ニスで仕上げた自慢の差し板を見てもらうということなんだろう。

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 合板の差し板は長い間紫外線に晒されると劣化してくるのである程度乗っていると修理や交換の時期が必ずやって来る。木工に興味があるヨットマンだったらこれくらいは自分で作ってみようと思い立つでしょうね。でも、色々考えている内にめんどくさくなってくる。

 上の画像の差し板は数年前、木工にはセミプロ級の腕を持つお仲間のボートマンがなにかの話のついでに彼(この艇のオーナー)の差し板も作ってあげるということになり、「ラッキー!」だと喜んでいた。多分ご自分で作るより随分きれいに仕上がっているとボクは思いましたね。

 日曜日、ビジター桟橋に古いフネ、新しいフネなどいろんなヨットやボートがやってくるが、古くてもきちんと整備されたフネは安心して眺められる。でも舫いが雑でロープの端がバラけていたり、フェンダーが外れそうだったりしているとどうも落ち着かない気分になるなぁ。

 まあ、それは年寄りになってきた証拠ではありますが・・・。


【関連記事】1:もう整備の季節がきた?
【関連記事】2:コンパニオンハッチの差し板
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by pac3jp | 2010-11-12 15:39 | ヨットの艤装と艤装品  

クラシックな木造ヨットの修理

c0041039_17281184.jpg 昔からずっとお世話になっているマリーナに久し振りに寄ると“船大工”さんは古い木造ヨットのスライドハッチ部分の修理中だった。
 それは古い木造ヨットの宿命?である、デッキやハードトップからの雨漏りがスライドハッチやその収納部の一部に腐りが出たので今、改修工事をしているという。

 スライドハッチはFRP艇では主にFRPで成型されたものや、ぶ厚いアクリルパネルがよく使われている。そしてどれもがある程度のキャンバーをもったアーチ状をしている。普通はスライドハッチに人間が乗っても充分耐えられる強度を持っている。

 修理中の凡そ横幅60cm×奥行80cm×厚さ18mm位の木製スライドハッチもちゃんとキャンバーがついているので、この合板にキャンバーはどうつけるのかお聞きすると、薄いタイプⅠの合板をアーチ状の型に合わせて幾枚もエポキシなどで積層して造るんだとおっしゃる。

 今から考えるとこんなオープンデッキで可動の部材は腐らないFRPで成型したら簡単に出来るのにと思うが当時はまだFRP成型技術が普及していなかったか、オーナーが木に拘ったかどっちかでしょうね。作業台には同じキャンバーがついた型が1組あったのでハッチ収納部分は腐らないFRPで作り直されたのかも知れない。

 木造ヨットは殆どがワンオフなので修理の為に部材を取り外していると昔、建造に携わった職人さんの仕事振りも良く分るらしい。普通だったらここの収まりはこうなっているはずだが・・・はて、と思っているとあとでそれがリカバリーのせいだったりするらしい。実は我家の屋根裏にも大工さんの失敗の跡がある・・・。

 雨漏りの修理は腐った部分を取り替えることだけではなく、勿論雨水が流れ込まないような構造に改修すると同時に場所によっては水に強い材料に交換が必要になるという。このヨットはコクピット内にも外装材にも耐候性に劣るマホガニーが使われていたそうで、既に外装材はチーク張替えられているし、今回はスライドハッチの両側ガイド部分がチーク材に取り替えられた。

 ボクが前に乗っていたフネは内装はマホガニーだったが、コクピットからキャビンに入る経路で濡れる可能性がある部分は当然チーク材が使ってあったなぁ。

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 話は変わるが、バウスプリットを持つ手頃なサイズのクラシックヨットもアメリカの中古ヨット市場などには結構出ている。そんなヨットを個人輸入したオーナーが近くに係留していたので見ていたら、オーナーもクルーもヨットは初めてのようで操船技術も古いヨットの維持に必要な知識やメンテナンス技術もお持ちでなく、エンジン故障やデッキの雨漏りも専門業者に修理依頼することもなくホームセンターで手に入いるコンパネや住宅用のプラスチック床材と安いシリコンでやっつけてしまうなど見ていて悲しいぐらいのものだった。

 やがて彼等はギブアップして安値で艇を手放すことになったようですが、『ヨット』は手放されたことで喜んでいるでしょう。きっと。

 結局、クラシックな木造ヨットや木造デッキ艇を維持できるオーナーの資質はしっかりメンテナンスできる腕と資金、そしてその作業を楽しみに出来る人ということでしょうか。
 でも、クラシックヨットが大好でかつ、充分に専門業者にメンテ費用を支出できる方というのも当然OKでしょうね。
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by pac3jp | 2010-11-08 17:33 | ウオッチング  

いろは丸事件と坂本龍馬

 今年(2010年)はNHKの大河ドラマで「龍馬伝」が放送されている。10月17日(日)には「いろは丸事件」が起こる場面があると言う前日の土曜日に神大海事博物館主催の「いろは丸事件と鞆・坂本龍馬」と題する市民セミナーが開かれた。講師は福山市立鞆の浦歴史民俗資料館学芸員の園尾 裕氏。

 この事件は我が国最初の汽船同士の海難事故だったし、有名な「いろは丸」がどんな船だったかや、その賠償の経過など最新の情報にも興味があった。

 まず、今年4月、旧大洲藩主加藤家のご子孫が長らく秘蔵されていた「いろは丸」のポルトガル語の売買契約書などが公開され、東大で解読されたことによって以下、従来説と違った「いろは丸」が見えてきた。

◎1862年 スコットランド・グリーノックで建造  
 鉄製、三本マスト、蒸気内車(スクリュー船)45馬力 
 全長:47m 全幅:5.2m 深さ:約3m 積載量:209.16トン
 船名:アヴィゾ号 母港:マカオ

※従来は外輪船と思われていた。それに深さが3mとなっているが吃水の間違いかもしれない。

◎1863年 薩摩藩が英国商人グラバーから購入 船名:安行丸

◎1865年 薩摩藩の五代才助がマカオ生まれのポルトガル人ロウレイロ(デント商会)に安行丸を売却

◎1866年 薩摩の五代才助の世話で大洲藩主の代理人国島六左衛門が在長崎ポルトガル領事から約一万両で購入。契約書の船名:イロハマンス
※従来は同じく五代の世話でオランダ商人から七万ドル(42,500両)で購入とされていた。

 また、6月には長崎歴史民俗資料館の松永館長が「長崎の海と船展」の準備中、いろは丸と思われる絵図を見つけた。その史料は長崎港外の深浦亀ヶ崎で入港する船舶を絵図で記録していた佐賀藩士がつづった記録誌「白帆注進外国船出入注進」(鍋島報效会所蔵)に掲載されていたという。

 ちなみにこの記録誌は広島県立歴史博物館で「幕末の動乱と瀬戸内海」という展示会で公開されている。11月23日(火・祝)まで。

下の図が新たに見つかった「いろは丸」

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「いろは丸」と特定した理由は
1.史料の前ページの記事に「四国船」との記載がある。10月24日に長崎を出港とあり年号の記載はないが前後に慶応2年の「長州征伐(第二次)」の記載があるため同年に描かれたとした。
2.メインマストトップに赤地に白の蛇の目の旗が見えるがこれが大洲藩加藤家の家紋である。
3.大洲藩がポルトガル人から船を購入したのが慶応2年6月。同年9月に大洲藩内の長浜港に着船したあと、一旦長崎に戻り、11月に長浜港に寄港したという記載が「いろは丸終始顛末 豊川渉日記抜抄」にあり、時系列的にも合う。

 慶応3年(1867年)4月23日午後11時頃、濃霧の備讃瀬戸西側、六島沖で紀州の明光丸と衝突・沈没したわけだが談判の席で龍馬が万国公法を持ち出し交渉に当たっていたというが当時の万国公法に現在の「海上衝突予防法」などに類する海上交通の規則が記載されていたのかな・・・。

◎慶応3年(1967年)5月22日 総合的な交渉力に勝った土佐藩が紀州藩から賠償を受け取ることになった。
[証書内容]
■賠償金額        83,526両198文
■いろは丸沈没につき船代 35,630両
■積荷物等代価      47,896両198文

◎慶応3年(1967年)10月19日 龍馬の代理として中島作太郎が長崎で紀州藩の山田伝左衛門と会談し賠償金を13,000両余り減額し70,000両で決着の和解が成立する。

◎11月7日 紀州から土佐藩に賠償金が完済される。

◎11月15日 坂本龍馬、京都近江屋にて暗殺される。

◎12月30日 佐々木三四郎、賠償金のうち15,345両余を海援隊一同に分配する。
      大洲藩へ船価・海援隊貸し金の合計42,500両が返還される。

 賠償の流れを見ていると「いろは丸」の船価や積荷が高いこと、積荷が砂糖や米だったらそんな高額にはならないので、一説によると諸藩に売り捌くための武器弾薬などを積んでいたとかいわれていた。

 賠償金の分配を単純に計算すると土佐藩の取り分が12,155両になりしっかり稼いでいるし、大洲藩も1万両で買い入れた船を傭船に出した先の損失で充分元をとったという感じだなあ。

 沈没場所は特定(北緯34度16分46秒・東経133度28分40秒)されているし水深も20mくらいなので前後2回調査されているが、丁度、瀬戸内海の幹線航路に当たるのと海底にヘドロが2mもあり水中の視界が悪く遺物もたいしたものは上がっていない。大物のスチームエンジンやボイラー、腐食に強いブロンズのプロペラなどもまだ見つかっていない。それに運んでいたかもしれない銃器のかけらもなかったようだ。

 当時の談判史料から現在の「海上衝突予防法」に照らして調べた研究者によるとどうも坂本龍馬の「いろは丸」に歩が悪い判定になっていますね。

【参考資料】:いろは丸事件と鞆・坂本龍馬 講演資料より
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by pac3jp | 2010-11-03 10:47 | 歴史・民俗