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関西ボートショー2010

c0041039_10131436.jpg 今年も春のモーターボートショーが新西宮ヨットハーバーで開催されていた。ボクも日曜日に行ってみたが景気も回復してきたのかお客さんの入りも良いようだし例年に較べて出展されているボートも多く、フローティング出来ないボートは広場や駐車場にも並んでいる。

 会場の桟橋を歩いていると地元のボートディーラーもいるが殆どは知らない営業マンなので気楽に見物できる。そして一番沖側の桟橋が今回も中古艇の展示場所になっていて40f~50fの大型のボートが7~8隻並んでいる。

c0041039_10134193.jpg ふと目に付いたヤマハ(MX-40)の窓に「ご契約ありがとうございました」の張り紙が張ってあった。ちょっと興味があったので簡単な仕様を眺めて値段を確認(1470万円)していると、同業者に先を越されて少し焦っているのか、向かいのボートの営業マンがにこやかな表情で寄ってきて、「こちらのボートもお買い得ですよ」という。
 買ったときには1億円以上もした45fのボートが今は3000万円余りだ。価格は1/3になっているが、そう安くはないともいえる。このボートの価値の2/3の部分は既に消耗していると思ったほうが良い。
 安さに釣られて買ってしまい乗り始めるとアチコチに故障が出て、最悪エンジンの換装が必要となったら2基でウン千万円が吹っ飛ぶ。それでなくても豪華ボートはジェネレーターやエアコンなど故障しやすい補機が数多く搭載されている。エンジンなどの程度をよく見て今後の補修費も見込んで考えるのが基本でしょうね。

 今年もオカザキヨットが新しい小型ボートを売り出している。
c0041039_10143934.jpgRanger R25SC
長さ:7.49m  
重量:2.61トン
燃料:284L 
主機:ヤンマー150hp 
価格 1,334万円

 最初はディーラー社長が自分好みのボートを輸入して皆さんに勧めているのかといるのかと思っていたが、どうもそうではないようだ。
 長年ヨットに乗ってきたがもうセールを揚げるのもメンドクサイ、フネにきたら舫いを外してすぐに沖に出て一回りすれば気分が落ち着くのだからもうヨットでなくても良いのだとおっしゃるオールドソルトが乗りたそうな小型ボートをチョイスして輸入しているようである。

 元気なオジサンには少し大きめの外洋クルージングボート、もう遠くに行く気がないオジサン達には上のようなボートを勧めている。釣りボートのように酷使しないので華奢で装備過剰もOKだし、ここのハーバーにもミノアなど同じようなボートが何隻かはあるが、乗り倒すオーナーさんは居なくて大抵は静かに舫われているだけだ。

 商談中の社長と目が合ってしまうと、「デイセーラー(サフィア)も安くなってきましたよ、どう!」と声を掛けられてしまった。
 彼は「遠くへクルージングする元気はもうないが、安くなったデイセーラーで近場セーリング位はできる客だ」と思っているのかも知れない。

 自慢じゃないが、お金の掛かかりそうなモーターボートは一度も「どうですか!」と声を掛けられたことはないもんね。
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by pac3jp | 2010-03-30 10:25 | ボート  

第一回国勢調査の記念碑

c0041039_1151133.jpg 先日、高砂市の高砂神社境内にある工楽松右衛門の銅像を見学にゆくと、すぐお隣にちょっと変わったデザインの記念碑が建っていた。円形の御影石に当時の大日本帝国の版図がレリーフになっている。 それは現在の日本地図よりも北はサハリン、西は台湾それに南は太平洋がやけに広く表わされている。

 碑文は「第一回国勢調査記念」となっている。国勢調査は五年おきに普通に実施されているが、日本国が初めて行った国勢調査はこの地の神社にも記念碑が建てられるくらいの大事業だったのかなと眺めていた。

 記録によると大正9年10月1日(1920年)午前零時を期し、大日本帝国版図内において、第1回国勢調査が施行された。北は樺太から西は朝鮮半島・台湾まで全国26万人の調査員を動員して一斉に調査が行われた。しかし、委託統治領だった太平洋の南洋諸島は住民に日本国籍がなかったので調査されたかな? しかし、南洋庁のお役人とその家族は住んでいたので調査の必要はありますね。

第一回国勢調査の人口は
●全国(内地)の人口は 55,963,053人(男28,044,185 女27,918,868)でした。
●外地も含めた人口では 76,988,379人(男38,903,195 女38,085,184)となっています。
   ※ここで外地というのは、朝鮮や台湾、樺太などが含まれています。

 もう亡くなった大正6年生まれの父や大正9年2月生まれの義母は名誉ある第一回目にちゃんと日本国民としてカウントされたいたわけだ。

 下の表は当時の都市人口ランキングです。
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 東京・大阪は順当でも神戸は3番目だし長崎に至っては7番目だ。北海道は函館9番、小樽13番、それから札幌の15位となっている。軍港を持つ呉市は10番で仙台、札幌、福岡より人口は多かったですね。

 この国勢調査では10月1日午前0時現在の「居場所」を記入することになっていたそうなので、数多くの軍艦が碇泊している軍港や大きな港をもつ町が実際より順位を上げたのかもしれない。横須賀市が全国20番以内に入っていたもんね。

 最大の成長都市は6番目だった横浜市で、現在の人口は8.7倍の367万人で全国ランキング2位に上がっている!

【参考Web】:総務省統計局 国勢調査の歩み
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by pac3jp | 2010-03-26 11:15 | 歴史・民俗  

技術革新だった「松右衛門帆」

c0041039_94282.jpg 弁才船の帆は最初、莚帆(むしろほ)だったが、帆走を常用しつつあった17世紀中期以降、薄い木綿布を2枚重ねて太い木綿糸で刺し子にし、それを縫い合わせてた「刺帆」(画像右側)が用いられるようになっていたが、この帆は製作に手間がかかりすぎる割には強度不足で帆がよく破れるという大きな欠点を持っていた。

 18世紀後期、播州高砂の船頭、松右衛門がその廻船乗りの経験を踏まえ弱い木綿の刺帆から“帆布の技術革新”というべき地元の播州木綿を使った厚地大幅物の新しい織帆を織機の改良など苦心を重ねながら開発した。
 それが「松右衛門帆」(↑画像左側)といわれ、価格は刺帆の2倍もしたが開発から僅か30年余りで全国の主要な廻船は殆どこの帆を装備しているという風に急速に普及した。それは丈夫さから来る耐用年数の増大や手入れに対する費用の低減が値段の高さを補って余りあったからだろう。
 それに帆の強度が増したおかげで刺帆では走れなかった強風でも普通に航海できるようになり、風待ちが大幅に減りそれが航路の航海所要時間の減少という大きな効果になって出てきた。

 そんな革新的な帆布を開発した「工楽 松右衛門」が高砂の人だとは知っていたが、高砂神社に銅像がありご本人が住んでいたお屋敷も現存すると聞いたので週末に見学してきた。

c0041039_983351.jpg 丁度ボクの義妹が高砂の同じ町内の出身なので情報を聞いてみると、工楽松右衛門さんのご子孫と小学校以来ずっと同級だったと教えてくれた。そしてお屋敷には玄関を入ると天井にご先祖が乗ったのか立派な駕篭が吊ってあったし、珍しい道具もあった。またお庭もキレイに手入れされていたと遠い昔の思い出を話してくれた。そして、お屋敷の外壁には和船の船板が張られているのですぐ分るとも教えてくれた。

 「相生の松」で有名な高砂神社の境内にある工楽松右衛門の銅像は意外に小柄な人物で、苗字帯刀を許された2本差しが左手に図面の様な巻物を持ち現場で工事の指図をしている姿だ。表情は船頭から実業家にそして港湾エンジニアへと創意と工夫で華麗に変身してきた人の厳しい目付を持っている。

c0041039_9104652.jpg 旧工楽邸は高瀬船の棚板らしい外壁なのですぐに分ったが、もうかなり前から無住の家のようで、母屋は軒のカワラが落下するので注意を促す張り紙がしてあるし、幾つもある土蔵などはもう朽ちて崩れかかっている。
 近くにも古いお屋敷はあるが、外壁に船板を張り付けた家はない、晩年には地元の港や舟運にも関わってきたことが加古川を行き交った高瀬舟の棚板がそれを物語っているように思いますね。

工楽 松右衛門 略歴(くらく まつえもん 1743年 - 1813年) 
■1743年(寛保3年)、播州高砂(兵庫県高砂市東宮町)の漁師の長男として生れ、幼少から創意工夫が得意であった。帆布(松右衛門帆)などの多くの発明した。松右衛門帆の利益により船持ち船頭になる。
■1790年(寛政2年)、江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ着手する。
■1802年(享和2年)、松右衛門の功績を賞して幕府から「工楽(工夫を楽しむの意)」の姓を与えられた。
■1804年には函館にドックを建設した。
 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)

【参考Web】:兵庫県と北方領土
【参考文献】:和船Ⅰ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2010-03-23 09:13 | 歴史・民俗  

弁才船の舵

 明治以来、西洋船に較べ弁才船が荒天時の耐航能力が劣るのは巨大な舵が引き上げ式になっているのも弱点の一つだといわれていた。

 しかし、和船は昔から大きな川の河口港や静かな湾奥の港などを多く利用していたので必然的に港は水深が浅かった。そんな港では大型の廻船は満潮だと出入りが出来るが干潮だと船底が海底について動けなくなる。幸い弁才船の船底は平たいのでそのまま海底に座っているが、舵は船底より深いのでそうは行かない。

 そんな日本の港湾事情から港に入ったらすぐに舵を引き上げるということは、浅い港の多さが生んだ船乗りの知恵だということになっている。
 江戸時代には桟橋に廻船が横付けなんてことはなく、天下の江戸ですら品川沖で沖懸かりしていたし、近世最大の港湾都市大坂でも安治川や木津川に入って碇泊していたから荷役はすべて瀬取船で行っていたのだ。

 下の図が江戸時代における弁才船の舵の変遷である。
c0041039_13244792.jpg

 17~18世紀初めまでの舵の面積は軍船などと同じくらいの大きさだった。(右端、帆と櫓走を併用していた時代)
 18世紀以後、弁才船の帆走専用船化が徹底するにともない舵面積が大きくなり、やがて19世紀中頃(幕末頃)には左端のように巨大化していった。

 舵の大きさは1000石積では身木(ラダーシャフトの部分)の太さは鷲口(船床梁の凹部)にはまる所で直径50Cm 、長さは約10m、1800石積みでは長さは12mに及んだ。身木の下半部に羽板がありその下の桟の長さが1000石積では3mでその面積は6畳敷きの大きさになる。

 この大きな舵面も操縦性の必要があって大きくなってきたのだ。内航船だった弁才船は微風でも狭い入り口の河口港や港に曳き船なしに入出港する必要があり、そのためには操縦性の確保が一番だった。それに逆風時には頻繁に間切り航行をしたので横風帆走時のリーウェイの防止にも効果があったという。

 舵面が大きくなると操舵が重くなるのが欠点だが、図を見ると時代と共に身木が曲がってきている。それによって現在のバランスド・ラダーのように操舵力を軽減する方法が考えられている。確かに舵面の身木の前にもバランス分がついている様である。
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 上の画像は1500石積以上の北前型弁才船の帆柱から後、艫の部分だが人間の大きさと舵の身木の高さとそこから伸びる舵柄の長さにも驚く。
 こんな巨大な舵は直接舵柄を持たずに滑車と轆轤で操船したのでしょうね。

 レーシングヨットのラダー形状は大きな物から段々と細く、そして長くなってきたようだが、内航用帆走貨物船の弁才船は小さい舵から段々大きくなってきたんですね。
 そんな巨大な舵をもつ船に新酒を満載して西宮から江戸への一番乗りを競う新酒番船での過去最高は寛政2年(1790年)の57時間、平均6.6ノットだったという。重い酒樽を満載し、北西の強風をうけて2日ちょっとで江戸まで突っ走っていますが、甲板での操船はさぞ大変だったろうと想像しますね!!


【参考文献】;和船Ⅰ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2010-03-20 13:28 | 帆船  

お知らせ!

いつも当ブログを閲覧頂きありがとうございます。

最近、スパムコメントが特に多くなってきましたのでやむを得ずコメント投稿を「コメント承認制」に変更にいたしました。

ひと手間かかりますが、お気軽にコメントを頂きたいと思っていますのでどうぞよろしくお願いいたします!

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by pac3jp | 2010-03-19 15:35 | 徒然に  

新しいWindows7ノートパソコン

c0041039_11215843.jpg ウチの奥さんはお仲間と長らく邦楽演奏を楽しんできた。しかし、最近は過去に演奏した楽曲とメンバーの組み合わせが、お仲間共々簡単には思い出せないという。
 記憶力の減退はどうしょうもないので、この分野はパソコンに頼ることになり、ついに小型の11.6インチの「CLUVノートパソコン」を先の日曜日に大奮発して買ってきた。この新しいパソコンのOSはWindows7でCPUはセレロンのデュアルコアが搭載されている富士通のBIBLO LOOX C/E50R3」という機種である。

 ボクのXPノートPCはもう9年も使っているので、新しいWindows7も触ってみたいのでシステムのセットアップやネットワークの設定を月曜日からやってみることにした。

 まず、インターネットだが今回3台めの無線LANとして以前と同じセキュリティを設定するのに時間がかかってしまった。マニュアルを見ながらやっているのだがPC内蔵の無線LANが中々うまく設定出来ない、前は簡単に出来たのにと思いながら進めてゆくが時間はかかるばかり。

 OSのバージョンアップやメールソフトの設定、プリンターやDVDドライブ、ファイルの共有などの作業をしていたら、火曜日にUPする記事を考える時間も取れませんでした・・・。

 しかし、小型のパソコンは小さくて軽いですが表示される文字も小さいですね、1366×768ドットの高解像度だというのですが、文字を「大」にしても小さいですわ、Webページによっては虫眼鏡を使ってもボクには無理な場面もあったなあ。

 奥さんはこのパソコンで過去に演奏した楽曲とその関連データをエクセルに打ち込み、データベースにするらしい。今日までまだ5曲くらいしか出来てないので500曲までにはまだかなり時間がかかりそうだ。

 ボクもデータのメンテナンスなどはお手伝いしなければと覚悟している。
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by pac3jp | 2010-03-17 11:25 | 徒然に  

樟(クスノキ)

c0041039_11123396.jpg いつだったか、それは台風のあとだったかも知れない。いつもお世話になっている船大工さんが水路の奥に吹き寄せられたゴミの中からキズだらけの木材を拾って喜んでいた。

 どうしたの?とお聞きすると「クスノキ」や、これは“銘木”で買ったら高いんやでとおっしゃる。そんな丸太の切れ端は時化が続いたあとの海岸に行けば幾らでも転がっているのにと、まだ和船の知識に乏しかったボクはそう思っていた。

 わが国は神話の時代から、スサノオノミコトが木の使い方についてこう教えたという。「桧は端宮(みずみや:宮殿)に、杉と豫樟(くす)は浮宝(うきだから:舟)に、披(まき)を奥津棄戸の臥具(おきつすてどのふしぐ:棺桶)に使え」といっている。

 この前、テレビ番組で韓国の遺跡から発掘されたお墓に槙が使われていたことから、この被埋葬者は倭人だろうとあちらの学者が言っていたなあ。

 縄文時代は石器で柔らかいカヤやスギを刳りぬいて丸木舟にしたが、鉄器が使えた古墳時代以降の刳り舟や準構造船は耐久性の良いクスノキが使われてきた。

 その後、和船に興味が出てきて博物館で復元菱垣廻船などを見ていると杉は当然で、重要部材に樟や欅が使われているのを発見する。

 近世の弁才船の船材について書かれた史料によると船体部分の航(かわら)、中棚、上棚などは樟・杉・欅が上木で、栂・樅・松・桂・椎は下木である。杉は白太を除き、松は樹脂の多い肥松を使えば上木だ。
 戸立(トランサム)は樟・欅、みよし(船首材)は樟・欅、床船梁は欅が良い。大きく長い材は松・杉を、巨大な舵のラダーシャフ(身木)には樫、ラダーは松である。また前後の目立つ化粧板には樟が使われていたようだ。(大坂・瀬戸内海の船)

 現代でも和船の伝統を僅かに残すFRPの小型漁船でも係船ビットやアンカーローラーを載せている腕木などにその強さと耐腐朽性を買われて今でも樟が使われていると言う。

 欅も強度がある木材だが甲板などで風雨や紫外線に長時間されされると腐朽してくるが、欅と樟を張り合わせて腕木などに使うと欅の寿命が伸びるようだよ、と大工さんに教えてもらった。
 クスノキなどこれからも絶対?フネで使うこともないボクは、へぇ~、樟の樟脳が効いているのかなと、ただ単純にそう思っているだけだが。

 ちなみに、広島の世界遺産、厳島神社の沖に建つ大鳥居も樟を柱に用いている。


【参考Web】:クスノキ(樟)ウイッキペディアより
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by pac3jp | 2010-03-12 11:21 | 歴史・民俗  

和船Ⅰ・和船Ⅱ 石井謙治著

c0041039_18191830.jpg ボクは古書や一般書籍は手軽な「アマゾン」で買っている。でも、「海や船」の本は昔から神戸・元町の海文堂書店まで出かけて買っている。先週末、左の海事史家・石井謙治さんの著書を2冊買ってきた。

 我家の小さな書棚には西洋帆船について書かれた杉浦先生の「帆船 その艤装と航海」「帆船史話」などはあるが和船に関する本は何故か一冊もない。明治以降、政府は江戸時代に活躍した日本形帆船「弁才船」は構造・性能ともに西洋帆船に較べて劣っているという間違った認識を世間に示してきた影響かもしれないなあ。
 でも、内航船の弁才船を黒船などの外航船と構造・性能だけで較べるのはおかしいと思う。

 最近、古代の復元遣唐使船を国内外で2隻も造っている。史料が乏しい中、豊かな想像力で補い建造されているが、大分前に豪商・高田屋嘉兵衛が建造した「辰悦丸」を復元した時の話がこの本にのっていた。

 当時は大きなニュースになっていたがもう内容は忘れてしまっていたが、

▽辰悦丸フィーバー(陸奥新報)
 昭和61年(1986)、外観を木造和船風(鉄鋼船に板張り)に復元した北前船「辰悦丸」が、大阪市から北海道江差町まで、往時の北前航路を走破した。引き船に引かれての航海だったが、日本海の各地に寄港して大歓迎を受け、その様子はNHKの番組を通して全国に紹介された。続きはこちら


 復元となると元になる古い辰悦丸かその技術史料が必要だが、もう両方ともないので辰悦丸の本当の復元は出来ない。でも便宜上辰悦丸と同時代の千五百石積み弁才船を復元しそれから想像してもらうということになる。

c0041039_18291846.jpg 辰悦丸の実物大の“模型”は全長30m、幅9m、帆柱の高さ20m、帆幅16mだという。当時の千五百石積み弁才船に較べて船体で1割、帆柱は3割も短い、船体は千三百石積み、帆柱は四百石積み、帆幅は六百石積みとなってしまう。それに帆の面積は本物の約半分しかない。
右の帆装図で外枠は実際面積で内側の大きさが復元船の帆の大きさである。
 昔は気が付かなかったように思うが、今↓の画像を見ると確かに不細工だなあ。

 それに予算の関係だろう淡路の寺岡造船所で鋼板の船殻をつくりそこに木を張って復元らしい雰囲気を出しているまがい物だったのに、その船を大阪→北海道・江差回航後、カナダの国際交通博覧会に出されたという。歴史的な帆船を見る目が肥えた欧米人にこの弁才船がどう映るのか海事史家として心配している。
c0041039_18301028.jpg 
 実はこの辰悦丸は地元福良の寺岡造船が建造し博覧会に寄贈したもので、建造には元神戸商船大学の松木先生の指導を受けたという。

 この復元?辰悦丸は今でも淡路島の「淡路ワールドパークONOKORO」で公開されている。
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by pac3jp | 2010-03-09 18:41 |  

女性キャプテンの内航コンテナ船

c0041039_1644723.jpg 3月3日、神戸と広島を結ぶコンテナフィーダー船で498総トン5人乗り組みの「翔洋丸」の女性キャプテンが主役のドキュメントがあった。

 神戸港を午後に出港し、翌日の朝に広島港到着する航海で、真夜中に来島海峡を通過する「ドロボー・ワッチ」にあたる時間に船長がブリッジで操船する様子を撮っている。
 本船のブリッジで目につく航海計器はレーダーが2台、1台にはチャートは出なかったが他船の方位、速度、AISの情報も出る。それに正面にGPSのプロッターが見える。

 ボクも何度かこの燧灘の航路を昼間に通ったことがあるのでブリッジのオートパイロットに表示されている針路が写ると周囲の島々が少しは想像できる。来島海峡は潮流が早く、それに船舶の航行も多い、さらに航路は西水道と中水道があり潮流の向きで通過する航路が変わる特殊な航路である。ルールは「順中逆西」となっていて中水道は狭いので必ず順潮で通過するようになっているようだ。南流の場合は左側通行になるので充分注意がいるのだ。

 ヨットは航路を航行する義務はないのでボクはいつも憩流時に西水道の四国側の航路外を航行している。でも大三島に泊まることが多くなったので小型船が常用する「船折瀬戸」を通ることが多くなった。

 くるしまマーチスのHPにはこの海峡で起こった海難の事例が数多く記載してあるが、日本の海に慣れない外国船が引き起こした、あるいは引き起こしそうになった事例が結構多い。外国船には特に注意が必要だ。

c0041039_16445518.jpg

 寺田キャプテンが操船する「翔洋丸」も南流で西水道を先行する外国貨物船に海峡内で追い越す時、近寄ってくる外国船に注意喚起のサーチライト照射をしている。船長がブリッジの天井に付いているスイッチレバーを素早く操作して注意信号を送っていた。
 突然、ボクも昔、夜間航行中にガット船からサーチライトを照射されたことを思い出した。そのときは相手がボクをレーダーか目視で確認していたので「びっくりした」だけ済んだが衝突していたら大変だった。

c0041039_16453753.jpg 来島海峡を過ぎたあとは、船長さんの大事な仕事は広島港の接岸作業だ。穏やかな日和で接岸は簡単だろう見ていたが、1410トン積みのコンテナ船は流石に大きく重い、その船体を高いブリッジからの操船するのは、ヨットとは随分違う。1軸エンジンとバウスラスタを使っての接岸操船をカメラはブリッジ目線で撮っている。自分がやっているようでちょっと緊張する。バウとスターンにはオールハンズでクルーが立ち、ホーサーはウインチで巻きとるので力はいらないがチームとしての連携作業が必要で船長の腕の見せ所でもある。

 彼女の夢は外国航路の船長さんになってパナマ運河を通って見たいとおっしゃっていたが、安全運航を続け、スキルアップして是非とも貴女の夢を実現させてください!
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by pac3jp | 2010-03-04 16:56 | 貨物船  

古代の大海戦 白村江の軍船は?

c0041039_1750745.jpg 「日本と朝鮮半島の2000年」というテレビ番組で古代の朝鮮半島で起こった大海戦「白村江の戦い」の場面に出てくる軍船のCGが気になっていた。

 そんな時、神戸市立博物館で《東アジアから神戸 海の回廊=古代・中世の交流と美》という海や船に関わる展覧会が開催されていたので見学してきた。

 しかし、古代船の記録はなく、古墳などから出土される埴輪や遺物に描かれた船の絵から想像するしかない。

 日本列島では古墳時代から活発になる中国・朝鮮半島との交流に欠かせなかった船が、大阪・奈良を中心にした中小規模の古墳から船形埴輪としてよく出土されている。そしてこれらの古墳の主はヤマト王権中枢に近い実務型の豪族ではないかと考えられている。朝鮮半島・中国との交渉窓口であり時には遠征用の軍船をだす役割も担ったのかもしれないという。

c0041039_14455033.jpg 左画像(1)の埴輪は大阪・長原高廻り2号墳出土の船形埴輪だ。船底部は丸太の刳舟で舷側板を組み上げて2層になって船首と船尾を竪板でふさいで耐航性や積載能力を増やす工夫をしている。

 平成元年に大阪市は考古学・船舶工学など関連学者を動員して可能な限りこの船形埴輪に忠実に準構造船を復元した。この埴輪の櫂をこぐ支点の間隔から船底部の長さを12mと割り出し、寸法比(L/W)と用材から幅を2mと決めたそうだ。

 また、画像(2)西都原古墳からはゴンドラタイプの船形埴輪も出土している。大きな楠材が豊富に取れた古代では船底部は長さ20mで幅2mは充分あったと思われます。ことによると長さ30m、幅3mの可能性もあったと思われる。ゴンドラタイプは古墳時代後期、6世紀にはこちらの方が多くなってきたようだ。どちらの船形埴輪には帆走のための帆柱はなく漕走が主であったのだろう。

 これらの古墳が造られた5~6世紀から百数十年後の飛鳥時代。

 661年、中大兄皇子が滅亡した百済の再興の為の援軍を朝鮮半島に送ることになり北九州から、そして瀬戸内・難波の海からも大勢の兵士を乗せた軍船が朝鮮に向かった。

■第一派:661年5月出発。1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫。豊璋王を護送する先遣隊。
■第二派:662年3月出発。2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
■第三派:1万余人。指揮官は廬原君。(出展:ウィキペディア)

 663年8月、戦場になった朝鮮半島西岸、白村江(はくそんこう)には待ち受ける唐と新羅連合軍の大型軍船170隻、兵力1万2千人。一方倭国軍は軍船800隻、兵力4万余人と圧倒的な兵力で激突したが、たった2日間の戦闘で、倭軍は軍船の半分400隻と兵1万人を失い大敗北したとなっているが、倭軍がどんな軍船で闘ったのか興味があるので少し想像してみる。

c0041039_1448204.jpg テレビのCG(左)は倭軍の軍船は船形埴輪(1)タイプで2層式の準構造船が帆柱に白い帆を揚げて進んでいるものである。波の大きさからみると船の長さは20mはありそうだ。しかし倭国水軍は800隻とかなりの船は集めたが、これほどの船は少く、殆どはもっと小さい運送船のような船だったという説もある。それに、櫂で漕いでいたのにCGにはマストがあり、木綿もないのに白い帆なんて考えられないなあ。

c0041039_15111756.jpg それでも追風の時は風を利用していたとするならば右の画像のように両舷に帆柱を立て、その間に「むしろ帆」を揚げていたかもしれない。
(右画像は江戸時代にアイヌ民族が用いた舟)

 大海戦なので旗艦にはジャンク型の遣唐使船のような構造船がいて指揮をとっていたと考えたいが、倭国にはまだそのような渡海船の建造能力はなかっただろう。
 しかし、白村江の戦いの前に倭国は遣唐使船を派遣しているが、それは航海が易しい北路をとっているので準構造船でも充分航海できたはずだ。それに対して、大きく版図を広げようとしていた唐はすでに外征用の大型渡海船を多数持っていたといわれている。

【参考Web】1:白村江の戦い 『ウィキペディア(Wikipedia)』
【参考Web】2:神戸市立博物館 特別展「海の回廊」 
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by pac3jp | 2010-03-02 14:59 | 歴史・民俗