カテゴリ:本( 29 )

 

「遭難船のダイヤを追え! 」 クライブ・カッスラー著

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 19世紀のアフリカ。イギリス人が現地人から奪った大量のダイヤ原石は砂嵐で船が難破し、夢と消えた。そして現在、その「宝探し」に巻き込まれたセキュリティ会社会長のカブリーヨは、同じ折りに著名な研究所所長誘拐事件の無線を偶然傍受し、人質奪還に乗り出す!ハイテク秘密工作船オレゴン号を自在に操る現代の騎士、ファン・カブリーヨ登場。 (「BOOK」データベースより)

 まだ小さなフネも持っていなかった頃、お金があったらあんなフネ、いやこんなフネがいいなと船の雑誌などを見ながら楽しい想像を巡らせたものだった。そして、もし桁違いの大金が手に入ったならどんなエンジンや装備をつけたフネにしようかと夢想を膨らませたこともあったなぁ。

 この物語の主人公、元CIA局員で民間警備会社<カンパニー>を経営するファン・カブリーヨはそんな思いの全てつぎ込み建造した「ハイテク秘密工作船オレゴン号」でクルーの元特殊部隊出身者や関連分野のエキスパート達とともに強欲な革命武装勢力や狂信的な環境テロリストとの戦いでしっかり“稼いでゆく”という海洋冒険物語である。

 表紙の画像がオレゴン号とその搭戴救命艇が出撃する場面を描いているが、母船はオンボロトランパーに仮装されているが実質は1万トン級高速巡洋艦の実力がある。

 オレゴン号はLOA170m、11,000トンの元木材運搬船を大改造しているが、エンジンは強力な「磁気流体力学機関」で超伝導コイルで流れる海水からエネルギーを取り出し二基のベクトルノズルのウオータージェットでこの大型船を40ノットの高速航行することが出来る能力をもつ。

 武装はロシアの堕落した提督から買ったという巡航ミサイルと魚雷、30ミリガトリング砲、M1A2アブラムズ戦車と同じ目標捕捉技術を使用する120ミリ砲、敵の乗船攻撃を撃退するためのサーボ機構付きの30口径機関銃。武装はすべて船腹の内側に隠され、あるいは甲板上のガラクタに偽装されている。そしてその諸々の兵器管制や機関・位置制御などは船内深くにあり、あのNASA風の作戦指令室で行なわれる。

 浅く狭い海域海域では搭戴している武装した高速のゾデァックがウエルデッキから、隠密で行動する時は船内ムーンプールから小型潜水艇が出動できる。当然、高速で乗員を移動させる時や空から救出・侵入する時の為に船内の航空機格納庫には高性能ヘリが用意されている。

 航洋貨物船なので救命艇を搭載する義務があるので両舷に2隻が装備されている。表紙の画像に描かれたライフボートも高性能に改装されているのだ。キャビンは豪華な大型テレビがセットされ長距離の航海にも退屈することがないようにしてある。また一朝あるときは通常エンジンの運転に替わり高出力のエンジンが起動し船底からは水中翼が出てきて艇速は40ノットになるのだ。

 こんなハイテク秘密工作船を駆使して要人救出や国家の裏の仕事を請け負い、縦横無尽に活躍する物語りは本当に面白い。今回の本の舞台はボクのよく知らないアフリカ大西洋側のコンゴ川やナミビア周辺が舞台なので時々分厚い世界地図など広げて位置を確認しながら楽しんでいくのだが面白かったので上下二冊をあっという間に読みきってしまった。

 このシリーズ本はすでに大分出版さているのでこれからボチボチと集めて読んでみたいと思っている。
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by pac3jp | 2011-05-01 11:45 |  

日本の船(海から見た日本史) 画 谷井建三 解説 谷井成章

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 表紙は平成22年度NHK大河ドラマのハイライトだった慶応4年(1867年)坂本龍馬の海援隊が運航する「いろは丸」と御三家・紀州藩の「明光丸」が六島沖で衝突した現場が描いてある。

 船のイラストを描かせたたらどう見ても一番だろうと思っている谷井建三さんが小さな和船のイラスト集を故郷の富山・魚津市で出版されたので、つい最近買い求めた。 A-4版 39ページ 定価1,000円(送料など必要)

 和船系の書籍ではモノクロのイラストで表される和船の図を谷井さんが描くと、色彩豊かに船と背景、それに人物が配され誰にでもそのフネの大きさがちゃんとイメージできてとてもわかり易い。

 ページを繰っていると江戸中期の田沼意次の終わりの時代、天明6年(1786年)に建造された1500石積の「三国丸(さんごくまる)」が冬の日本海を間切り航行している絵があった。
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 三国丸は輸出用産物である俵物(干しあわび、フカヒレなど)を専門に運ぶ廻船で長崎~日本海経由の蝦夷地交易に従来の年1回の航海から冬季も運航をする海運の合理化を図るため耐航性のある新型廻船として幕府が建造した。ジャンク式の隔壁と肋骨が入った船体構造、舵は弁才船の吊り下げではなく楫釣木で支持する洋式、ジブ・スパンカーなど洋式帆装、そして和式の総屋倉を持つ和洋中の折衷船である。

c0041039_612399.jpg たった一隻だけ建造された折衷船「三国丸」の外観図は日本にはなかったのですが、ルイ16世から太平洋の探査を命じられフランス海軍大佐ラ・ペルーズ率いる艦隊は、日本海を北上中の1987年6月、隠岐の北東海上で日本船2艘に遭遇しました。ブロンドラ海軍中尉が目と鼻の先を通過した1艘の絵を残しています。特異な船首の洋式の補助帆と船尾廻りの形状からして、この船に該当するのは三国丸以外にはありえません。画家の観察眼は鋭く、一瞬すれ違っただけなのに三国丸の特徴が見事にとらえられています。
(ミツカンWeb「和船の技術と鎖国の常識」より)

 家康以来の農本主義が行き詰まってきた徳川幕府が財政改革のため、老中田沼意次の手により重商主義に大きく舵を切った時代だった。北方からはロシアが通商を求めて南下してくる。

■天明3年(1783年)仙台藩の工藤平助が著した「赤蝦夷風説考」により国防の緊急性や蝦夷地の金山の開発などを老中に建白。結果、老中田沼意次は丈夫な調査用新造船二隻を建造し蝦夷地に最上徳内らの調査隊を送ることにした。しかし、船は調査がすめば民間に払い下げ、建造費の一部を回収する。それに蝦夷地には空船では危険とかで往復とも交易品を積むとかして抜け目なく、総経費三千両でもって請負人の全責任おいて運用するという民間委託のようなかたちがとられた。

■天明5年(1785年)蝦夷地調査隊 江戸を出帆。

■天明6年8月(1786年)田沼意次罷免 長崎~蝦夷航路に「三国丸」就航した同じ年だった。

■天明8年(1788年)三国丸は完成からたった3年目に能登沖を航行中に暴風に遭い、乗組員は伝馬船で飛島に逃れ、船は出羽国赤石浜に漂着して破船した。

 田沼意次の失脚で政治はまた質素倹約の農本主義に逆戻りし、新しい機構を盛り込んだ新型廻船「三国丸」の同型船がもう造られることはなかった。


【参考Web】:谷井建三と成章のアート塾
【参考Web】:ミツカン水の文化センター 和船の技術と鎖国の常識

【参考資料】:和船Ⅱ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2011-01-23 06:24 |  

『ヨットデザイン原論』Lars & Roif著 大橋且典 翻訳・監修 舵社

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 本書の目的は、ちゃんとしたデザイン法で使用されている手法と手順を紹介することにあった。これはヨットの仕様から始まって、水力的及び空力的な視点をカバーし、さらに構造的、素材材料、レイアウトまでに至っている。だから原則として、たとえアマチュアであっても、本書の方法にならえばヨットデザインが可能だという方向を目指した
 -著者まえがきより-


 久し振りにちょっと高い本を買ってしまった!

 『ヨットデザイン原論』は定価6,500円+税と表示されているが、翻訳された大橋先生が主宰されている「ヨットの科学」のML会員対象に期間限定だが送料込みで五千円で販売するとされていたので購入する決心?をした。(アマゾンの古書は18,000円!)

 内容も少々高級で完全に理解するのはむつかしそうだが、ボクでもわかるところはきっとあるだろうとパラパラめくってみる。

 第11章ハルの構造⇒キールからの力⇒座礁による力の項目があり、全長が40f、キール長さ1.5m、排水量8,125kgのモデルヨットが艇速8ノットで暗岩に座礁した時に生じる各部の荷重を計算しているページに目が留まった。

c0041039_7591673.jpg 画像の図と計算表参照 キールの下部に衝撃力がかかると衝撃モーメントとなり、キール後部には125150Nの圧縮力として、前部は同じく引張り力として働く、注意するのはキール後端部に発生するスラスト力はフロア材に曲げモーメントを与える(フロアが大きく持ち上がる)。

 キールボルトの強度計算によるとこのモデルは前部のキールボルトが引きちぎれる恐れはなかったが、図のキール付近のハルの各部に亀裂や剥離の場所が見える。そして、キールが前後に短く深いレースボートキールなどは座礁時に非常に大きな荷重をハルに与えることになる・・・と書いてある。(画像をクリックすると大きくなります)

 80年代中頃、サントピアマリーナで開催されていたオレンジカップに出場するためマリーナの入り口まで来たときにヨット屋さんの名前まで付いていた有名な暗岩に乗り上げてしまった記憶が思い出された。
 ヨットが30fと小さく速度も4~5ノット位だったが衝撃は大きかった。でも浸水などの大事にはならなかったが鉛のキールが凹み衝撃を多少は吸収したのか前部キール取り付け部に少し剥離が発生したがレース参加に支障はなく無事に母港に帰って修理をしたことがあったなぁ。

キール座礁の衝撃力=衝撃モーメントに ・・・もう一つ勉強しました!
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by pac3jp | 2010-12-19 08:11 |  

『凍える海』 ヴァレリアン・アルバーノフ著

c0041039_1014766.jpg 『凍える海』そして“極寒を24ヶ月間生き抜いた男たち”というサブタイトルがついている。

 このままでは全滅だ―1912年8月28日、聖アンナ号は23名の乗務員を乗せ、過去一度しか成し遂げられていない北東航路横断の栄誉を狙うため、ロシア・サンクトペテルブルクを出航した。しかし出発から2ヶ月たらずで、聖アンナ号はカラ海の浮氷に閉じ込められてしまう。航海士アルバーノフは同志を集め、北極からの脱出計画を実行に移すが、食料は刻々と減っていく。そして、生き延びようともがく彼らの前には、さらなる過酷な運命が待ち受けていた! 永き時を超えてよみがえった、ある航海士の壮絶なるサバイバルの記録。(裏カバーの解説より)

 大航海時代の末期、北極海に航路を開く北西・北東航路や北極・南極の極地探検に人々が熱中していた頃、北東航路はヨーロッパ・ロシアから北極海を通りベーリング海峡を抜け太平洋に出る航路を、フィンランド人のノルデンショルドが1978年に蒸気船ヴェガ号で初めてその航路を開いた。1978年9月2日には横浜港に、同じく12日は神戸港にも寄港している。下記の【参考Web】参照

c0041039_10165233.jpg 彼らが聖アンナ号で北東航路を目指しながらカラ海で氷に閉じ込められ、なすすべも無く4500Kmも北に流されて行く経路は略図に示されているが、航海士のアルバーノフと彼に賛同した乗組員13人が本船を脱出して南方のフランツ・ヨセフ諸島に向け、ソリを取り付けた手づくりのカヤック7隻を引き、氷の海を徒歩で進んだ記録であるが、ボクはバレンツ海のフランツ・ヨセフ諸島が北極海のどの当たりにあるのかも分らない。
 世界地図で探してみるが大体、北極海の地図そのものが少ない。しかし、近くにノルウェー領のスヴァールバル諸島の名が出てきたのでこのエリアは旧ソ連がらみの海洋冒険小説の舞台によくなっていたので少しは覚えていたなあ。

 海流や風で行きつ戻りつする氷盤の上を進んで行く彼らの行く手には危険が一杯だが、食糧や燃料が不足するとアザラシやシロクマなどの狩りをし、両方の楽しみ味わっている。そしてシロクマのステーキと特に肝臓が美味とも書いてあったが食べ過ぎるとヤバイらしい。

 島に近づきメンバーはカヤックとスキー組に分かれて行動するが、やがて皆はぐれてしまう。最後のノースブルック島フローラ岬に辿りついたのはカヤックの二人だけだった。そこには避難小屋と保存食糧とがあり、ここは天国だと感じたが、意外に早く救助されることになる・・・。

 氷の海で閉じ込められた探検隊の話で有名なのは南極のエンデュランス号の漂流だろう。この場合はリーダーのシャクルトンが苦労の末、全員を無事に生還させたことで、そのシャクルトンの業績から彼を現代社会の理想のリーダー像として、航海記はビジネス書としても読まれているようだ。

 それと異なり『凍える海』は船長は壊血病ため船に残り、氷の海から自然に開放されることに賭け、航海士は自らの力で助けを求める道を選んだ。そして遂に航海士ともう一人は他の捜索隊に発見され無事本国に生還するが、本船に残った船長たちも途中で別行動になった仲間も行方不明のままになってしまったのだ。

 この本は欧米では有名で「ナショナル・ジオグラフィック・アドベンチャー」が選定した「アドベンチャー100選」にも入っている名著らしいです。日本では文庫本で2008年5月20日に初版第一刷発行で、まだ新しい。
定価 680円。ブックオフで105円!

【参考Web】:フィンランド大使館 ノルデンショルド率いる北東航路探検隊の来航
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by pac3jp | 2010-04-14 10:23 |  

和船Ⅰ・和船Ⅱ 石井謙治著

c0041039_18191830.jpg ボクは古書や一般書籍は手軽な「アマゾン」で買っている。でも、「海や船」の本は昔から神戸・元町の海文堂書店まで出かけて買っている。先週末、左の海事史家・石井謙治さんの著書を2冊買ってきた。

 我家の小さな書棚には西洋帆船について書かれた杉浦先生の「帆船 その艤装と航海」「帆船史話」などはあるが和船に関する本は何故か一冊もない。明治以降、政府は江戸時代に活躍した日本形帆船「弁才船」は構造・性能ともに西洋帆船に較べて劣っているという間違った認識を世間に示してきた影響かもしれないなあ。
 でも、内航船の弁才船を黒船などの外航船と構造・性能だけで較べるのはおかしいと思う。

 最近、古代の復元遣唐使船を国内外で2隻も造っている。史料が乏しい中、豊かな想像力で補い建造されているが、大分前に豪商・高田屋嘉兵衛が建造した「辰悦丸」を復元した時の話がこの本にのっていた。

 当時は大きなニュースになっていたがもう内容は忘れてしまっていたが、

▽辰悦丸フィーバー(陸奥新報)
 昭和61年(1986)、外観を木造和船風(鉄鋼船に板張り)に復元した北前船「辰悦丸」が、大阪市から北海道江差町まで、往時の北前航路を走破した。引き船に引かれての航海だったが、日本海の各地に寄港して大歓迎を受け、その様子はNHKの番組を通して全国に紹介された。続きはこちら


 復元となると元になる古い辰悦丸かその技術史料が必要だが、もう両方ともないので辰悦丸の本当の復元は出来ない。でも便宜上辰悦丸と同時代の千五百石積み弁才船を復元しそれから想像してもらうということになる。

c0041039_18291846.jpg 辰悦丸の実物大の“模型”は全長30m、幅9m、帆柱の高さ20m、帆幅16mだという。当時の千五百石積み弁才船に較べて船体で1割、帆柱は3割も短い、船体は千三百石積み、帆柱は四百石積み、帆幅は六百石積みとなってしまう。それに帆の面積は本物の約半分しかない。
右の帆装図で外枠は実際面積で内側の大きさが復元船の帆の大きさである。
 昔は気が付かなかったように思うが、今↓の画像を見ると確かに不細工だなあ。

 それに予算の関係だろう淡路の寺岡造船所で鋼板の船殻をつくりそこに木を張って復元らしい雰囲気を出しているまがい物だったのに、その船を大阪→北海道・江差回航後、カナダの国際交通博覧会に出されたという。歴史的な帆船を見る目が肥えた欧米人にこの弁才船がどう映るのか海事史家として心配している。
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 実はこの辰悦丸は地元福良の寺岡造船が建造し博覧会に寄贈したもので、建造には元神戸商船大学の松木先生の指導を受けたという。

 この復元?辰悦丸は今でも淡路島の「淡路ワールドパークONOKORO」で公開されている。
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by pac3jp | 2010-03-09 18:41 |  

「スハイリ号の孤独な冒険」 Part2

c0041039_15463566.jpg 現在のロングクルージングヨットでも電力の確保には皆さん苦労している。
 1968年、まだヨットの電化が本格的に始まっていないスハイリ号の時代でも無線通信用やポンプ、航海灯などの電源にバッテリーと充電用の発電機は当然装備されていた。普通のヨットは補助エンジン付属の発電機で起動用バッテリーなどを充電していた。
 しかし、スハイリ号はその他にバッテリー充電専用のガソリンエンジンで2台のダイナモを駆動するシステムを持っていた。

 スハイリ号の建造時に、オーナーは航洋ボートに補助エンジンを載せるならには安全性が許す限り強力なものをのせるべきだとの考えから、4気筒38馬力の「BMC キャプテン・ディーゼル」が搭載された。LOA 32フィートのヨットにしてはかなり奮発したエンジンだったのだろう。

 当時、スハイリ号の船齢は3年、勿論エンジンもまだ3年しか使ってないものである。航海記にはホームポートから出発港のファルマスまで回航するのに機走の場面もあり普通に動いていた様子。

●1968年6月14日ファルマス出帆。
●1968年9月22日(100日目)2ヶ月ほど動かしてないのでエンジンがロックしてうごかない。故障発見。
●1968年9月25日(103日目)スターターを外しフライホイールを手で回してみるが1回転に40分もかかる。

その間、ガソリンエンジン発電機でバッテリーの充電を続けるがガソリンの残量が減ってきた。

●1969年1月28日(229日目)エンジンを分解する。ヘッドをめくりピストンを動かそうと手を尽くす。が、遂に諦める。
 後日、メカニックが分解するとシリンダー2本にひびが入っていた。素人が無理やり動かそうとしたときの傷らしく、エンジンは同型新品に換装した。

ロビンさんの教訓:外洋の帆走は快適だがエンジンのためには頻繁に回すことをお勧めする。エンジン各部の潤滑と防錆のために!

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 この航海は南緯40度より南の“吼える40度線”に沿って4ヶ月も航海する。風も強いが南極にも近いので気温が低いのだ。スハイリ号の暖房は灯油のプレッシャー・ランプだった。このヒーターが与えてくれる肉体的な快適さとその赤い灯色が又気持ちが良いという。しかし、衣服を乾かせるパワーは石炭ストーブにしかないのだが。

 現在は高緯度をクルージングするボートはしっかりしたキャビンヒーターを殆どが装備している。しかし、いま、この海域にいる「祈風」の暖房は「ホカロン」だという。確かに安くて嵩張らないし化学反応で発熱するので貯蔵の危険も少ないが、大丈夫かなと心配している。
 今シーズン、ニュージーランドからホーンを目指すヨットで唯一の「ホカロン」党だという「祈風」ガンバレ!!

【関連記事】:「スハイリ号の孤独な冒険」Part1
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by pac3jp | 2010-02-25 16:08 |  

「スハイリ号の孤独な冒険」R・ノックス=ジョンストン著

 バイキングの航海技術を解明する英国BBCテレビの番組で太陽コンパスを使うナビゲーターを務めていたのが、初めてヨットでの単独無寄港世界一周を成し遂げたロビン・ノックス=ジョンストン卿だった。

 彼とスハイリ号の航海は「スハイリ号の孤独な冒険」われ単独無寄港世界一周に成功! と一冊の本に纏められた。そして、我家の本棚にもその一冊が収まっていた。

 久し振りに読み返してみた。

 1968年6月14日英国西南部のファルマスからノンストップ単独世界周航レースのスタートをし、翌年4月22日に同じファルマスに帰着した。
※航走距離:30,123マイル 一日平均航走距離:97.54マイル 平均速度:4.02ノット

c0041039_17113576.jpg それは航海日数313日の孤独な冒険航海であった。小さな船体と数枚の帆、そして自分自身- 頼るものはそれしかない。計り知れぬ自然力の前に、まったく無力な、そして粟粒のように卑小な一人の男とその愛艇が、嵐やべた凪ぎや、故障やトラブルとたたかい、人間とボートの限界にいどみながら、ついに競争相手の強敵たちをしのいで、313日間の孤独な冒険航海をなしとげ、ふたたび決勝点のファルマスへ帰りつく- いや死線を越えて、生還するといっても誇張ではない、世界最初のノンストップ単独世界周航をやりとげる。
 この超人的な大仕事を、著者自らいうとおり、「スーパーマンでもなければ不死身でもない、ごく普通の人間」がいかにしてやりとげることができたか- その孤独な冒険の一日一日を、てらいも誇張もなく、素朴なまでにケレンのない筆致で、克明に書きつづったのが本書である。
(訳者あとがきより)

 スハイリ号はインド・ボンベイで建造されたインドチーク製の32フィートのバーミューダ・ケッチだ。長いバウスプリットとアウトラダーをもつダブルエンダータイプで全長は44フィートになる。

 スキッパーのロビンは1939年、ロンドン生まれ、この航海を成功したのは30歳だった。それまでの13年間は船乗りとして商船に乗り組んでいた。この航海に出る5年前には船長免許をとり、アフリカ沿岸航路の船長となる。その後英国と東アフリカ間を航海する航洋船の一等航海士だった。それにインドで建造したスハイリ号をアフリカ南端ケープタウンを経由でロンドンまで回航した経験もある。ヨットレースの経験のみないが海の経験もオーシャンセーリングの経験も充分ある「ごく普通の人間」ではなく、前人未踏のの航海を成し遂げた“とっても優れた”ヨットマンである。

 航海記を読んでいるともう40年が経ち、時代が変わった実感はある。現在はGPSになってしまったが、この時代は毎日太陽を観測し、短波ラジオで時報をとりクロノメーターを校正する。悪天候が続けば天測が出来ず自艇の位置も不正確になる。大波で六分儀に海水が被り、ミラーに曇りが生じ始め、その対策に雨のデッキで六分儀を塩抜きをするなんて荒業も試みる。

 短波無線通信機はこの航海でもよくトラぶっている。また潮を被り故障していたこともある。今は、通信料はかかるが小型のインマルサットや衛星ケータイは安定した通信が出来るという。

 ウィンドベーンはミズンセールが邪魔で標準型の機材が取り付けられないのでスターン両舷に特製の羽根を2枚取り付けたシステムだったが不調続きで遂に航路半分のオーストラリア湾で壊れてしまった。その後は自動操舵装置なしの航海になってしまった。表紙のスハイリ号の画像にもベーンは見あたらない。

 嵐ではヨットを減速させるのに2インチのポリプロピレンロープ720フィートをバウのキングポストから左右に繰り出しバイトさせて使っていた。パラシュートタイプのシーアンカーも使ったがトッピングラインとアンカーラインが絡んで引き上げられなくなるトラブルが発生し以来使ってない。PPロープは浮くので錘が必要かもしれない、それに太さ2インチと書いてあるが直径では太すぎるように思うけど・・・。(この本ではロープ類は直径ではなく外周寸法を呼称してるようで、2インチは16ミリ相当になるのでまぁ順当かな)

 面白い記述を見つけた。 1968年10月8日 航海116日目
今日、チーズの磁性を発見した! ニュートンの万有引力の発見と同じレベルではないと断ったが、極めて重要な興味ある発見なのでその経緯を述べておくという。デッキの仕事が終わりキャビン内で調理台のロッカーにバターとチーズをしまったところ、キャビンコンパスの針路が60度もそれているではないか、これはコンパスの真後ろにあるロッカーの缶詰が問題だろうとのけてみるが異常なし、チーズを動かすと驚くなかれ針路は60度、元に戻った。次にジャム、コーヒー、塩、ビタミン錠剤などを試してみたが何の影響もない。QED(論証も可なり)とある。その内、試してみよう!

 最初、この航海が競争だと思わなくて読んでいたのだが、読み続けているとイギリスの新聞社の主催で、誰が一番早くノンストップで世界一周してくるかの参加6隻で時間を競うゲームだと分ってきた。スタートラインを一斉にスタートするレースと違いモノハル、カタマラン、トライマランと艇種やサイズもばらばらで近接して競う場面もないのだがロビンは追いすがるフランス艇には負けたくないと愛国心を燃やしているのが英仏間の歴史を感じさせる。

 久し振りの航海記だったし、今、九州の「祈風」がホーン岬付近を航海中なので心配しながら読んでいた。でも314ページと中々の分量があり読み応えがあったなぁ。
読んでみたい人に。
 もうこの本は絶版になっていますが、当時よく売れたらしく今でもアマゾンの古本屋さんでよく出品さているし、お近くの図書館にも多分ある思いますよ。


【関連記事】:バイキングの太陽コンパス 
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by pac3jp | 2010-02-23 17:22 |  

南鳥島に港が出来そうだ!

 島国日本でも特に小さい離島を選んで旅をしている離島ファンは結構に多いみたいだ。5月には五島列島の無人島・野崎島で遠くからやってきた数組の若い旅行者とお喋りしたし、7月には沖縄の渡名喜島では寂れた郷土資料室で、その日の来場者名簿に東京の住所が書かれていて、エ~ッと驚いた。

 ヨット乗りは公共交通機関のお世話にならなくても、どんな僻地の離島の旅でも出来る大きなメリットをもっているが、港がなかったり、受け入れてくれなかったらちょっと困ってしまうのだ・・・。

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↑画像は南鳥島。島の南の矢印の場所に防波堤がない桟橋がある。

 今日、国交省は日本最東端の南鳥島に港を造る概略設計を行うための予算を盛り込んだというという発表をし、ボクはそれをWebニュースで見た。小笠原・父島から500マイル程の距離にあるので、父島→母島→南鳥島→沖の鳥島→与那国島という「鳥島2島さいはてクルージング」を企画する冒険ヨットマンが出てくるかも知れない。 ・・・ボクは絶対、行きませけどね!


資源開発支援へ離島を拠点化=日本最東端の南鳥島整備へ-国交省

 国土交通省は20日、日本の最東端である南鳥島(東京都小笠原村)で、資源開発や海洋調査といった活動を支援するための拠点整備に乗り出す方針を固めた。同島周辺では希少金属の採鉱が有望視されており、埋蔵量の探査や採掘技術の開発を後押しする。2010年度予算概算要求に港の概略設計を行うための必要経費を盛り込む。
 南鳥島は東京から南東に約1950キロメートルの太平洋上にある孤島。同省は、日本周辺海域での資源開発強化に向け、南鳥島を具体的な開発支援態勢づくりのモデルケースとしたい考えだ。
 南鳥島周辺では、リチウムイオン電池の電極材料などに使われるコバルトを含んだ鉱床が確認されており、経済産業省が詳しい調査を行う方針。
 ただ、同島に船舶の係留施設はなく、現在の駐在人数は海上自衛隊の隊員ら計約30人。周辺海域での資源開発が進めば人の出入りも増え、調査船や物資輸送船の係留が必要となる。  2009年8月21日(金)04:03 (gooニュース)


 今まで島は自衛隊、海上保安庁、気象庁だけの島でセキュリティは不要?だったが、これからは貴重なレアメタルの資源開発で原発港ほどではないが、外来船お断りになる恐れもありそうですね。でも人畜無害のヨット乗りには門戸をあけて欲しいなぁ。


c0041039_16311451.jpg 南鳥島特別航路 池澤夏樹著 新潮文庫

 作家・池澤夏樹氏が東京・芝浦から南鳥島に80時間かけて物資の補給を行う440トン、速力12ノットという貨物船に便乗して航海した記録。
 普通、一般人は入れない島なので気象関係のコネで主に南鳥島気象観測所の取材に行ったようだ

【参考Web】:南鳥島(みなみとりしま)は、小笠原諸島の島。本州から1,800km離れた日本の最東端としても知られている。行政上は東京都小笠原村に属する。
日本の島としては唯一日本海溝の東側にあり、日本で唯一太平洋プレート上にある。更には、日本の実効支配の及ぶ島では唯一、他の島と排他的経済水域を接していない島でもある。別名、マーカス島(マーカスとう Marcus Island )。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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by pac3jp | 2009-08-21 16:40 |  

小野友五郎と福沢諭吉

c0041039_1042653.jpg 万延元年、咸臨丸の航海で日本人96人が乗組みアメリカまで行ってきたが、その中で平成の時代になってもまだ有名な人は、船酔いで“ミソ”をつけたが、江戸城無血開城で名をあげた「勝海舟」と、クルーではなく提督、木村摂津守の従者で乗っていた「人の上に人をつくらず・・・」の「福沢諭吉」だろう。まぁ、1万円札に肖像が使われるぐらいなので福沢諭吉がもっとも有名人になっているわけだ。
 でもマイナーな海事史学の立場からみれば今でも小野友五郎や赤松大三郎は有名だしその航海術には評価が高いが・・・。

 小野友五郎について書かれた中公新書「咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート」の中で若い頃の福沢諭吉の興味ある行状の記述を見つけた。著者の藤井哲博氏はもと海軍中尉で零戦搭乗員、かつ理学部物理学科で原子炉技術者という異色の経歴をおもちの方である。
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 咸臨丸で日本人初の太平洋航海を成功させた功労者として、小野友五郎が陪臣の身ながら将軍に拝謁する栄誉をうけ、その後、幕府官僚としての重きを成す存在になっていく。そして慶応3年(1967年)、米国から軍艦及び兵器・書籍を購入することになり小野友五郎を正使とする使節団が派遣されることになった。

 福沢諭吉は小野に特に頼み込んでの外国方通訳としての随行であったが、彼は終始使節団にとってはお荷物となった。彼は前二回の洋行経験と英語能力をもって友五郎に随員として採用してもらったのだが米国に渡ってみると、彼の英語力は、今日の観光英語の程度でとうてい公務の遂行には役にたたないことがわかった。彼の仕事は翻訳方つまり書記官の役だが、日米往復文書の翻訳をやらせてみると、英文和訳はまだしも和文英訳のほうはてんで駄目で彼の訳文はとても公用文として使えるものではなかった。それに彼は私的なアルバイトが本当の目的で使節団にただ便乗していたのだった。

 翻訳や通訳は他の能力のある団員に任せ、周囲の負担を増やさざるを得なかった。福沢は、任された為替が現金化できない、雇った現地人に公金を持ち逃げされる、託送荷物の荷揚げ交渉に手間取り将軍から大統領への贈り物が間に合わないなどのまったくの駄目ぶりである。

 小野は福沢に、幕府の公的な必要書籍の購入を命じる。彼は幕府の公共物と自分の私物を一緒にして、卸値で購入する。そして卸値と小売の差額をコミッションとして自分くれと小野に申し出る。もちろん公務なのに手数料など払えるものではないと小野は拒否するが勝手に実行する。さらに悪いことに、大量に購入した私用の書籍代まで、公用の支払いに潜り込ませた。

 そして運賃も。小野は私物の運賃は個人払いにするよう指示していた。他の随員はよく理解し会計は皆厳正にやっていた。小野自身ももちろんそうした。けれどもひとり福沢は、購入した私物の書籍を幕府の荷物と一括で渡し公金勘定にしてしまった。

 福沢が本来自分で払わねばならない私物購入やその運賃を公金勘定にした額に商人からのコミッションを加えると、つまり横領した額は、なんと一万五千ドルだったと明治になってから正直に告白している。
 現在価値換算して1.5億円~2億円といわれる。当時でも艦砲の11インチ・ダールグレン砲二台分の費用を賄える大金だったという。

 帰国の乗船直前にこのことを知った小野は、運賃表を船会社から取り寄せて、福沢に自分の荷物の運賃を見積り、戻入れするよう指示。しかし日本に着く際に小野が福沢に確認したところ、運賃表を紛失したなどと言い千ドルを越す運賃を払うつもりがない。

 そこで正使・小野と副使の松本は福沢の荷物を神奈川奉行に差し押さえさせた。そして福沢を告発し、自分らも部下取締り不備ということで進退伺いまで出した。当時、小野友五郎は勘定奉行の目付役ともいうべき「勘定吟味役」の職にあったし松本は福使として使節団員の行動に責任があったのでこの時の両人の告発と進退伺いの提出は当然のことであるといわれる。

 福沢は7月14日外国奉行より、「其方儀アメリカ行きの御用中不都合の次第あり謹慎申付くる」との命を蒙った。
 福沢がこの件で罪を免れたのは、幕府崩壊のためであって、無実が証明されたからではない。どさくさにまぎれて罪を免れてしまったということだ。

 それなのに、石河幹明氏が「福沢諭吉伝」で「小野といふ人は頑固な官僚的人物であつたらしく、自分は外国の事情を知らぬ癖に長官風を吹かせるので、(福沢)先生はこれにたまり兼ねて事ごとに衝突するやうになったのである」と一方的に小野を非難している。
 明治の新聞界などに福沢の思想の信奉者が多かったので、こうした公金使込みなど不名誉な行状が余り世間や現代に伝えられることがなかったのかもしれない。

 そんな事件から117年が経った1984年、福沢諭吉は聖徳太子の後を継ぎ日本の紙幣の代表である一万円札の肖像になっている。
 まぁ、日本では100年も経てば大抵のことは時効になってしまうということでしょうかね。

【参考資料】:藤井哲博著「咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート」中公新書
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by pac3jp | 2009-02-07 10:51 |  

2月4日、咸臨丸が米に向け出帆(1860年、149年前)

c0041039_18542738.jpg 左画像は咸臨丸が1860年(安政7年)にサンフランシスコ(桑港)で碇泊中に撮影されたものとして、1926年(昭和元年)にサンフランシスコで開催された在米日本人発展史料展覧会において公表されたものである。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 安政7年の今日、2月4日は徳川幕府の軍艦咸臨丸(艦長・勝麟太郎)が日米修好通商条約の批准書交換のため訪米する幕府使節の護衛艦を務めるため総勢96人が乗り組み、江戸の品川から米国訪問に出帆した日だ。

2月 6日 ブルック大尉ら米軍人11名が咸臨丸乗船 咸臨丸、横浜出帆、浦賀着
2月10日 咸臨丸、浦賀出帆、大圏コースでサンフランシスコへ向かう。

 ところが、咸臨丸は浦賀を出帆してまもなく荒天に遭遇した。名にしおう冬期の北太平洋であり、穏やかな湾内の航海とはわけが違う。特に犬吠崎から三陸沖にかけては強烈な低気圧の通過とそのあとに続く季節風の吹き出しによる大西風で海上は時化に時化るのである。その波濤は予想をはるかに超えたすざましものだったという。
 このような荒海をはじめて経験する木村奉行、艦長・勝ら日本人乗組員はほとんど船酔いで倒れてしまった。以後の運航はブルック海尉とその部下たち、及び船酔いに強かった中浜(ジョン)万次郎、浜口、小野友五郎らが運航の担当をせざるをえなかった。

2月16日 艦長・勝と木村奉行はまだ寝たきり。
2月20日 早暁より風猛強、波濤甲板上にそそぐ事3尺あるいは4尺、船の動揺もまた従って甚だしくその傾くこと27~28度、しかも波濤の高さは4、5丈を下らず。多人数の中甲板に出て動作なすもの僅か4~5人のみ。
 このときに当たって帆布を操作する等は一切米人の助力を受く。彼らはこの暴風雨に逢うといえども一人も恐怖を抱く者なく殆ど平常に異なることなく諸動をなす、これにつぐものは我が士人にてただ僅かに中浜氏、小野氏、浜口氏三人のみ、その他は皆、恐懼し、殆ど食料を用うること能わざるに至る。(日記 亜行新書より)

 その後、艦長・勝のバッテーラ事件 (太平洋の真ん中でオレは帰るのでボートを下ろせと命令した)

2月27日 艦長・勝が起きてきた。浦賀出港以来17日振りに甲板に出てきたが立つことも出来なかった。
3月 2日 飲料水事件が起こった。いろんなことがあったがブルック海尉の指導によりクルーのシーマンシップは格段に向上してきた。
3月18日 咸臨丸、サンフランシスコ入港

3月24日【米国:3/23金】咸臨丸、メーアアイランド米海軍工廠へ修理のため回航
4月29日【米国:4/28土】咸臨丸、ブルックの指導助言により出来た修理リストに従い作業を進め、修理完了するまで40日を要した。費用は全部アメリカ政府が拠出してくれた。
5月 9日【米国:5/8火】 咸臨丸、朝8時10分に祝砲が轟く中をサンフランシスコ出帆。復路は暖かい南回りで帰途につく。
5月24日【米国:5/23水】 咸臨丸、ホノルル寄港
5月27日【米国:5/26土】 咸臨丸、ホノルル出港
6月23日 咸臨丸、浦賀に帰着
6月24日 咸臨丸、品川沖に帰着。

c0041039_18551625.jpg 咸臨丸の航海は有名なのでジョン万次郎ものなど色んな本が出ているが、ボクは橋本進著『咸臨丸還る 蒸気方 小杉雅之進の軌跡』を持っている。(右下のライフログを参照)
 「咸臨丸」の誇るべきは復路航海だったという。確かに往路は出港直後から冬の大嵐で日本人だけでもやれるという意気込みは打ち砕けれ、アメリカ人に助けてもらった。復路はその経験を踏まえ、冬の北太平洋で鍛えられたシーマンシップと指揮系統も改め、陸の身分より力があるものが責任ある当直が出来るようした。そして安全に航海できる時期とコースを選び、完璧に整備された船で出港できたことだ。

 咸臨丸で天測が出来る者は測量方だった小野友五郎と通訳の中浜万次郎だけだった。万次郎はアメリカで最新の航海術をマスターしていたし、捕鯨船で実践してきた経験がある。友五郎も月距法を完璧にマスターしていてブルック海尉も驚くほどの航海術を持っていた。そして彼に新しいサムナー法を教えたとある。身分は低いがそんな二人が復路の航海を指導してゆく立場になってゆく。

 「日本丸」の船長を務め、帆船航海術を知悉した著者が、「咸臨丸」蒸気方・小杉雅之進の日誌をもとに日本人のみによる初めての太平洋横断という「咸臨丸」の偉業を検証する。と帯書きにある。

 咸臨丸は蒸気スループ艦で石炭焚きの100馬力の蒸気エンジンが搭載されているので機関士と釜焚きが何人も乗っている。小杉雅之進は咸臨丸の太平洋横断時には蒸気方の見習士官を務めた人で、後に幕府最大の軍艦開陽丸機関長も務めたし、戊辰戦争では榎本武揚に従い、箱館政権では江差奉行並となっている。

 余談です。右下の方のライフログから「咸臨丸還る」の画像アイコンをクリックするとアマゾンのサイトにジャンプする。新品本がもうないのは当然だが、古本の値段をみて驚いた。5,880円~9,800円もする。うちの本棚で最高の値段がついている・・・なんだかうれしいな!

【参考Web】:小野友五郎 
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by pac3jp | 2009-02-04 19:05 |