カテゴリ:歴史・民俗( 38 )

 

迷惑な漂着物

c0041039_1228964.jpg ヨットハーバーの隅っこの桟橋に古びたブイが舫ってあった。近づいて見るとノリ養殖エリアの周辺に設置してある灯浮標である。灯器は既に無く、支持柱は折れ曲がり、浮力体の金属タンクは破れ、浮力はタンクの中の発泡体だけでもっている。かって灯器に電源を供給していたケーブルは海に浸かりフジツボや藻が絡まっている。一見しただけでも長らく漂流してきたブイとわかる。

 ハーバーの作業員に聞くと港内の出入り口に近い波除用の浮桟橋に漂着していたのでこちらに持ってきたという。大阪湾でもこんな大きな物が流れているのだ。ヨットやボートなど小型船ならこれにまともに衝突すると重大な損傷を受けるのは必定だ。昼間ならよく見張っていれば避けられるが夜間ならよほど注意しなくては発見できないだろう。皆さん、見張りは厳重に、オーパイで居眠りは厳禁ですよ!

 漂着物といえば、ボクが子供の頃、台風の影響で海一面に太い杉の丸太が流れ、海岸を埋め尽くすほど漂着した年があった。
 子供たちはその夏、海の遊びは丸太を縄で縛っていかだ遊び、一本に乗ってのカヌー遊びと大いに楽しんだ。波で流れてしまっても幾らでも作って遊んだもんだ。やがて沖に丸太を回収する船がやってきてボク達の夏も終わり、楽しかった思い出が残った。

 また有名なところでは、伊良湖の砂浜に流れ着いた椰子の実を拾った話を民族学者の柳田國男が、その様子を島崎藤村に語れば、「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ・・・」の詩が生まれ、長らく日本人に歌い続けられる歌になった。

 漂着物も分類すれば自然物系、人工物系に分かれるが、海岸近くに住んでいる人は、やっぱりそのまま食べられるワカメや貝など自然物を拾うとうれしいみたい。年配のオジサン達は流木を拾い、根っこを綺麗にカットし、ニスを塗り、アチコチにオブジェで飾っている。それを頂いた我家では植木鉢の台などに重宝しているのだ。
 また、エコな生活を目指す人たちは海岸に流れ着く流木を集め、鋸で挽き、斧で割り冬の燃料として蓄える。運動不足の解消には絶好だとおっしゃてはいるが、薪ストーブを置ける家と大量の薪を貯蔵できる倉庫も必要なのが最大の難点か・・・。

 一方、人工物系では手紙の入ったビンなどは夢があって楽しいが、危険な物が入った容器や漁具の一部、古いブイ、廃油ボールなど迷惑な漂着物もおおい。日本海沿岸では隣国で不法投棄された漂着物のニュースもよく見かける。

 だが、下記の様な漂着物を採集し、その中にある多くのメッセージから環境問題や民俗学的にも考証し、楽しむのを「ビーチコーミング」といい、専門の学会まである。ボクも少し興味がある遊びだ。

◆浮子や漁具  海外の漁具や浮子、ガラス浮子、ルアー、網や船道具など
◆日用品    異国製ビン類、陶磁器やビーチグラス、ライターなど
◆海の生物   魚類、貝類、蟹類、カメ、イルカ、ほ乳類など
◆陸の生物   鳥類・ほ乳類・両生類の遺骸あるいは骨・歯など
◆植物や流木  ココヤシ、ゴバンノアシ、モダマなど様々な種子や流木など
◆その他    軽石やメノウなど鉱物や化石を含んだノジュールなど

 でもボクは海の近くで育ったのでワカメや生きてるタコなど実利的なものが拾えるとうれしいな。今でも時化の翌朝早く海岸を散歩すればきっと「三文の得」はありそうだね。


【参考Web】:漂着物学会(Japan Driftological Society)
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by pac3jp | 2008-04-23 12:41 | 歴史・民俗  

江戸時代に外国船をサルベージした男

 先日、兵庫県たつの市の龍野歴史文化資料館で開かれている「描かれた船」という特別展を見学してきた。室津の賀茂神社の古い船絵馬が修復されたのを記念して帆船と関連する資料が集めらて展示されていた。

その中で特にボクの興味を引いたのが「長崎蘭船挽揚図解」だった。

 1798(寛政10)年10月、出帆しようとしたオランダ船が急な嵐で長崎港外で沈没した。これを周防国櫛ケ浜村(現、周南市)の廻船業 村井喜右衛門が引揚げに成功し、再び同船を日本から船出させるまでを描いた絵図。この成功は国内だけでなく海外までも知られたという。
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 上の図は全体の流れを描いている。

 嵐で長崎港外唐人ケ瀬で座礁(左下)→マストを倒して浸水した船を港内に曳航している(下中)→やがて木鉢浦まで引き寄せたが沈没→沈没した船を浮上させる(右中)→ 多くの大船・小船が帆をあげ岸近くへ曳く(中)→砂浜に乗り上げ積荷を降ろし修繕を始める(左上)
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↑図は難破したオランダ船を修理している作業場の海上風景である。船の修理用材が肥前の国からやってきた(中上)。マスト材は地元の寺社林から大杉を切り出したという。
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↑図は難破した6000石(900トン)もある大きな木造帆船の引揚げを請負った喜右衛門が考えた仕組みを詳しく図で説明している。

 長崎奉行へ提出した資材リストには、大柱は長さ13尋、廻り6尺余もの2本、長さ8間、廻り5、6尺もの20本、スギ柱長さ6尋もの240本など柱だけで1444本、竹は廻り1尺ぐらいのもの600本、板は長さ6尋、幅5尺、厚さ8寸ものなど60枚、これらをくくりつける綱は苧(お)綱、市皮綱、ヒノキ綱が300本、4斗ダル250個、土俵2000俵、タイマツは5尺〆もの3000把、滑車大小合わせて900余個。など厖大だった。
 作業船は毎日60石積み(9t)を75隻から150隻、作業員は600人前後。柱を船の回りにたて干潮のとき沈没船と引き船を結びつけておき、満潮で浮上すると、すかさず沈没船の下へ土俵をつめる。つぎの干潮でまた同じ作業をするとあった。


 ボクの疑問は何故、長崎で難破した外国船を防州の人間が引き揚げるようになったかだったが、Webで調べてみると、この事件はかなり有名で、サルベージの先駆者として長崎や山口県に多くの資料があった。

 寛政10年といえばまだ鎖国の時代。幕府は長崎を窓口にオランダとだけ通商をしていた。船の年表によれば近藤重蔵が蝦夷を巡視し、エトロフ島に至る。高田屋嘉兵衛が国後島やエトロフ島に漁場を開く。ロシア船が日本の周辺に現れ始めていた頃である。

 その今から約200年も昔、国内ではまだ千石船が運航していた時代に、6000石もある外国帆船のサルベージをした村井喜右衛門の仕事もすごいが、商人の仕事なのにちゃんと現在まで記録が残っているのも素晴らしい。

防州出身のボクのお友達に聞けば、こんな話はきっと詳しくご存知でしょうなぁ・・・。

参考Web:村井喜右衛門
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by pac3jp | 2008-03-05 16:57 | 歴史・民俗  

西宮神社「船渡御」

c0041039_9123634.jpg ヨットハーバー施設の中央にある立派なビジターバースは新西宮ヨットハーバーの施設ではないようだ。兵庫県が設置している県営桟橋で管理はヨットハーバーがやっているが、いわゆる公共桟橋(でも有料)である。そのためかマリンレジャーに関係の無い船もよく使っている。
 一番良く見かけるのは「散骨ビジネス船」とボクらが勝手にそう呼んでいる船だが、その他色んなフネも止まっている。フローティングボートショーなどの催しもよくある。
 賑わう港にしたいのなら北港ヨットハーバー同様一時係留は無料にすれば良いのにね。

c0041039_9142574.jpg 9月23日の日曜日はそのビジターバースで西宮まつりの最後を飾る「西宮神社・船渡御」があるということでハーバーにはお祭の幟がはためき鐘や太鼓の賑やかな囃子がハーバー内を響き渡っていた。
 桟橋には平安装束を着た人々が行き交い、日頃は港湾工事に当っている無骨な作業船や渡船が5色の吹流しや垂れ幕を飾り神主さん等を乗せて、お祭らしく華やかな雰囲気を出している。観覧希望者には無料の遊覧船が2隻も用意されていた。

<お祭の由来は>
船渡御は、西宮・鳴尾の漁師が神戸の和田岬で引き上げた神像をまつったとする西宮神社の伝説に由来。平安時代から記録が残り、神様を移したみこしを船に乗せて和田岬に向かい舞などを奉納した後、馬を連ねて帰ってきたとされる。
 同神社の最もにぎやかな祭りだったが約四百年前、織田信長の社領没収で途絶えたという。一九五四年、みこし行列が同市内を練り歩く渡御祭が復活。二〇〇〇年には震災復興を願い、西宮浜で海上船渡御を開催し昨年は和田岬へ参拝する「産宮参(うぶみやまいり)船」も再興された。
 
みやびやかに「海上船渡御 西宮神社」の新聞記事から引用)

 毎年この時期に「えべっさん」のお祭がここで行われている事は前から知っていたが、近くで見たことはなかったし、ヨットが入れない内陸側の海で海上安全祈願の行事をやっているとは知らなかった。

 住民人口8,000人と産業団地従業員8,500人合わせて16,500人がいるこの人口島を1年に1回お神輿を担ぎ(船に乗せ)一回りする。

 そうか、島とこの近くの海は西宮のえべっさんのシマだったのだ・・・。
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by pac3jp | 2007-09-26 09:28 | 歴史・民俗  

阿波沖海戦

 紀伊水道の伊島といえばクルージングやその中継港でよく寄港させてもらっている。そして付近の椿泊や橘湾、牟岐大島などもクルージングエリアとして楽しませてもらっている。

 そんな紀伊水道の伊島“北東海域”で風雲急を告げる幕末の1868年(明治元年)1月3日、今から139年前、そこで日本史上初めて近代蒸気軍艦同士の海戦があった。阿波沖海戦という。榎本武揚指揮の旧幕府最大の軍艦「開陽丸」と、まだ若かった東郷平八郎らが乗り組んでいた薩摩の新鋭軍艦「春日丸」、運送船「翔鳳丸」の3隻が戦ったのだ。
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 前年の12月15日、薩摩が雇った浪人たちの手で、江戸のほうぼうが放火された。放火犯たちは三田の薩摩屋敷に逃げ込むが、庄内藩が鎮圧に出て、フランス軍事顧問団ブリュネ大尉の助言のもと、薩摩屋敷を砲撃した。火災の中、戦いが始まった。やがて浪人と薩摩藩士らは屋敷から逃れ、羽田沖に停泊中であった薩摩の運送船「翔鳳丸」に乗って、江戸湾を脱出しようとした。幕府艦隊のうち、在府であった「咸臨丸、回天丸」の二隻が「翔鳳丸」を追ったが、逃げられた。これが羽田沖海戦、または江戸湾海戦と呼ばれている戦闘である。

 12月28日には、追ってきた「回天丸」が大坂に到着、薩摩による江戸城などの放火が報告される。大阪城内はこの報告にいきりたち、たちまち薩摩討つべしの合意ができていった。その時、薩摩の「翔鳳丸」は兵庫港に逃げ込んでいた。

 鳥羽・伏見の戦いが開始された1月3日、薩摩軍艦「春日丸」、同藩運送船「翔鳳丸」・「平運丸」が兵庫港に停泊し、鹿児島への帰藩準備を進めていた。一方、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の「開陽丸」は、大阪湾に停泊して海上より鳥羽・伏見の戦いを見守っていた。

 1月4日早朝、薩摩の軍艦「春日丸」、運送船「翔鳳丸」は紀伊水道に向けて出港した。由良瀬戸を越えた頃、これを追跡していた「開陽丸」が発見、同時に「春日丸」も「開陽丸」を視認した。速度の遅い同行の「翔鳳丸」を曳航しょうとするが、速度が上がらず、追撃の「開陽丸」に追いつかれてしまう。午後2時過ぎ、「春日丸」は「翔鳳丸」の曳き綱を切り、単独で戦うことに決断した。そして大きく回頭し、太陽を背に交戦体制に入る。

 距離2500m、「開陽丸」が十六サンチ施条カノン砲の初弾を発射した。砲弾は大きな弧を描き「春日丸」の左舷15mのところに落下。準至近弾だ。「春日丸」も百ポンド砲が火を吹き「開陽丸」の手前20mに着弾。大きく揺れる外洋の波の中で砲の照準合わせに必死に取り組む。両艦は互いに1200m~1500mの距離から「開陽丸」は25発の砲撃を加えた。相手の「春日丸」は18発の砲を放ったがどちらも大きな損害には至らなかった。
 片舷の艦砲を撃ち終えた「開陽丸」が回頭している隙に艦の火力に差がある「春日丸」はその俊足を生かして戦場を脱出する。またもや「開陽丸」が追跡するが、最大速力が5ノット以上もの違いは大きく、やがて春日丸は無事薩摩に帰還した。

 一方、「翔鳳丸」は多島海の橘湾に隠れようとしたが叶わず、土地の漁師を雇い土佐の甲浦を目指すが、船の故障で難所、蒲生田岬をやっと越え由岐浦にはいるが操船を誤り座礁、そして折からの強風にあおられ湾口にある「へらの島」の岩礁に乗り上げ大破。制海権を持つ徳川艦隊の追っ手を恐れて、彼らは翔鳳丸に積み込んできた江戸の薩摩藩邸からの貴重品共々弾薬庫に火を放ち自爆し、自分たちは小船に分乗して日和佐、甲浦へと脱出していった。

 このように阿波沖海戦の場面を回想すると殆どが一度ならず寄港した港だ。翔鳳丸が最後に座礁した由岐浦は今でもそう大きな港ではない。湾口に「へらの島」が外洋の大波を防ぐ天然の防波堤になっている。でも島の北側は危ない暗礁地帯で初めて入るには海図がいる海だ。
 この前、由岐に行ったときはサーファーが大勢で波乗りを楽しんでいる。ヨット乗りは島影で錨を入れてお昼寝をする。ヤッパリ平和な時代が一番いいなと思った夏の日だった。
 
開陽丸:排水量2817t、長さ約72.8m、エンジン400馬力、スクリュー2軸、
    備砲計26門、速力10ノット
春日丸:排水量1015t、長さ74m、エンジン300馬力、外車2基、
    備砲6門、速力17ノット

【参考図書】:「軍艦 開陽丸物語」 脇 哲著
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by pac3jp | 2007-02-26 11:12 | 歴史・民俗  

関門海峡の大砲(レプリカ)

 琵琶湖で活動するヨット「MUGEN」のオーナーさんが九州出張の途中に関門海峡に立ち寄り、長州砲の写真を写して送って下さった。そこは今を去る144年前、攘夷を叫ぶ長州藩と欧米列強の四国連合艦隊が砲撃を交わした歴史的な場所、関門海峡を望む壇ノ浦「みのすそ川公園」にその長州砲は設置されている。
 写真に写っているレプリカの大砲もまだ新しそうなので調べてみると、2004年大河ドラマ「新撰組!」に関連してここに設置されたらしい。桂小五郎(木戸孝允)役の俳優らが出席して完成式を行ったと出てきた。
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  長州はその無謀な下関戦争の後、高杉晋作らが藩の実権を握り、イギリスから最新式の武器を導入、軍備を増強し、薩長同盟が結ばれ、開国、倒幕へと大きな時代の流れに乗ってゆく。

 ボクもこの関門海峡、早鞆瀬戸を通過したことはあるがこの幅650mの狭い瀬戸をゆっくりと見物する時間も余裕もなかった。海峡の航路は曲がっていて多くの大型船が通行し、引き波や潮波で「ごちゃごちゃ」した海やなぁ、という印象だった。

 いつもは門司寄りの航路外を航行するが、今度は下関側を通り、狭い海峡を睨む「怖くないFRPの大砲群」を見物することにしようかな。

参考:以前の関連記事「わが長州砲流離譚 古川 薫著」
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by pac3jp | 2007-02-21 10:14 | 歴史・民俗  

佐世保 旧針尾電信所

 ハウステンボスに入るとき、急潮で有名な針尾の瀬戸を通るが、初めてこの瀬戸に取り付いたとき、曲がりくねった水路の向こう岸に巨大なコンクリートの塔が三本見える。煙突にしては下に工場がないし、無線塔にしてはアンテナ線がない。歴史的な構造物にしてはそんなに古びてないし、何だろうと思って気になっていた。

 そんなとき、友人から旧海軍の電気系技術士官が書いた本をお借りした。その中に針尾電信所の概要が出ていたので例のコンクリート塔についても理解できた。そしてこの無線塔は1941年12月2日、広島湾内の連合艦隊旗艦「長門」の司令部から出された真珠湾奇襲攻撃を命ずる「ニイタカヤマノボレ1208」の暗号電報を太平洋上に展開していた旧日本軍全軍に発信したといわれていることも知った。
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 そんな針尾島に今度は「イージス艦発射型の 新型迎撃ミサイル(SM3)の点検整備を行う日米共同の施設建設を検討。」という新聞ニュースを見た。


弾道ミサイルを迎撃するミサイル防衛(MD)計画で防衛庁が、イージス艦発射型の 新型迎撃ミサイル(SM3)の点検整備を行う日米共同の施設建設を検討。長崎県佐世保 市の米海軍針尾島弾薬集積所周辺の海上を埋め立てる案が浮上していることが4日、明らか になった。  MDは本格的運用に向け、日米共同の情報ネットワーク構築などが進められているが、 武器関連の共同施設計画が分かったのは初めてで、日米の一体化を加速する動きといえ そうだ。  米海軍と海上自衛隊が導入するSM3は、発射された弾道ミサイルを高度200-300キロの宇宙空間で迎撃する米国製のミサイル。次世代型では日米共同開発が進んで いる。従来型の10倍以上の高度に到達させるためミサイルを3段式に改良、データの送 受信装置も複雑化しており「点検、整備には高度な設備と技術が必要」(海上自衛隊幹部) という。  関係者によると防衛庁は、施設や機器類だけを日米の共同利用とし、ミサイルの点検、 整備は米軍と海自の担当者が自国のものだけを厳密に区別して行うことを検討。トラブル などの際、米側から適切な技術指導が受けられ、コストダウンにもつながるとしている。 建設候補地はJR佐世保駅の南東約5キロにある針尾島弾薬集積所の沖で「牛ノ浦」と 呼ばれる佐世保湾の入り江。1・5平方キロメートル程度を埋め立てると、入り江を挟み 西側に隣接する海自弾薬庫の敷地と地続きになり、日本側も使用権を持つことになる。 このため、SM3の共同整備棟や管理棟を造るには適地と判断したもようだ。  防衛庁関係者は「SM3の点検、整備用施設は規模が大きくなる。1カ所にまとめた方が 効率的だ。米側への提案を経た上で、数年内には方向付けができるのではないか」と話して いる。
  ◆(共同通信)◆


 佐世保はアメリカ海軍の基地があり、第7艦隊の大規模な燃料貯蔵所が、そして沖には海兵隊が使う大型の強襲揚陸艦が泊っている。湾内の針尾島には米海軍・海兵隊の巨大な弾薬庫もある。ここから湾岸戦争当時も、そしてイラク戦争にも燃料や弾薬が戦地に送られたのだろう。平和な町で暮らしていると国の安全保障なんてよそ事のように思えるがここでは現実に港の沖に米軍艦がいて、新型迎撃ミサイル整備基地、自衛隊・米軍弾薬庫と軍事施設が点在し、町には米兵が歩いているのを見るとアメリカの世界戦略の中に組み込まれた日米安保の形が身近に見えるように思うネ。
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by pac3jp | 2006-12-18 10:02 | 歴史・民俗  

旧和田岬灯台

c0041039_14134189.jpg その赤い灯台はボクが毎週ハーバーに通う道路からチラッとその姿が見える。須磨の沖を通っても須磨海浜公園の端っこの赤い灯台は確認できる。その場所にあるのはずっと昔から知っていたが、お天気のいい週末に丁度時間が出来たので寄ってみた。

 明治に造られた石造りの立派で有名な現役灯台とは違い、簡素な鉄製灯台だけど、122年も昔に建造され長く働いてきた歴史を持っているが、そう古い物とは思わせないし、今は松の緑と赤い塗装がいいコンラストで公園の中に収まっている。


傍にある解説板によると以下の説明がある

1867年(慶応3年)4月幕府は英国との間で結んだ大坂条約の中で5基の洋式灯台の建設を約束した。和田岬灯台はこの中の一つで兵庫の開港を前に設置されたものである。
初代の灯台は1871年(明治4年)に完成し、1872年(明治5年)10月1日に初点灯された。このときの建物は八角型の木製灯台で、後に1884年(明治17年)二代目となる鉄製灯台に改築され、1963年(昭和38年)に廃灯になるまで神戸初の水族館「和楽園」や和田岬砲台などのあった和田岬に設置されていた。

現在残る鉄製の灯台は「日本の灯台の父」と称されるイギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンによって設計されたもので、高さが15.76メートルの三階建て、初代とは異なって六角形の形をしている。またこの2代目灯台は現存する日本最古の鉄製灯台で歴史的文化財的価値が高く、1998年(平成10年)には国の登録有形文化財に登録された。昭和39年(1964年)に和田岬から須磨海浜公園に移設保存されている。

c0041039_14143066.jpg 同じ解説板に明治20年に撮影された灯台とその付近の海の写真があった。和田岬は兵庫港(現在の神戸港)の入り口にあるので船舶の通行は多いがこの写真を見ると全て帆船である。岬のすぐ前に2隻のスクーナーが帆走している。目をこらして見ると東方に千石船らしい帆影もみえる。

時代背景は
 明治17年神戸小野浜造船所で鉄船朝日丸(504総トン)を建造、
     竣功後大阪商船会社の有に帰し、鉄船巨船として名声あがる。
 明治18年に来る明治20年より500石以上の日本型船の製造を禁止。
 明治20年三菱会社は借用中の長崎造船所を買受け、私設造船所となる。
 明治20年川崎正蔵は借用中の兵庫造船所を買受け、川崎造船所と改称。

 造船業も官業から私企業に移り変わり、船は木から鉄へそして鋼船へと発展してゆく。外航船は外国の汽船が運航し、内航船はまだ日本型船が数多く運航していた。でも、写真でも分るが帆装は扱いやすいガフリグのスクーナーになっている。より小型の漁船は皆、簡素な帆と櫓で魚を追っていたのだろう。

 この灯台の左手に勝海舟が設計したという言われている和田岬砲台
がある。現在もその場所にあるが三菱神戸の工場の中なので見学の手続きは少し面倒である。同じものは西宮の香枦園浜にもある。

 時代は移り、沖を見ても当然ながら帆影は全く見えなくなった。この赤い灯台が建っていた場所から東を見れば神戸空港からジェット機が轟音を上げ離陸している。左手は三菱神戸造船所だ。8万トンクラスのコンテナ船が建造中である。でも、休日になれば沖に小さな白い三角帆がアチコチ気ままに帆走っているのがみえる・・・。
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by pac3jp | 2006-12-04 14:24 | 歴史・民俗  

200年前 瀬戸内海の船旅

c0041039_10114087.jpg 瀬戸内海は島多く波穏かなこともあって海上交通は大昔から栄えてきた。

江戸時代も後期にはいると一般の人たちもあちこちへ旅をするようになってきていた。当時の旅は伊勢神宮参拝を始め各地の有名な神社仏閣詣だったが、物流の増加に伴ってビジネスでの旅も増えていた。
 そして歩かなくても良いので当時の海の新幹線?とでも言うべき早舟をチャーターして役人や裕福な商人、豪農などが瀬戸内の旅を楽しんだそうだ。



 記録によると享保3年(1802年)商用で長崎に行っていた古河某は供二人をつれ、下関から大阪まで早舟をチャーターし帰ることにした。
 早舟は全長10mばかりで帆柱は一本、四人水主乗組みである。料金は三日半請け受合いで二百四十目(小判4両)、他に食費一日百文づつ。途中に宮島に寄港する契約。

9月26日 下関を昼に出帆。夜10時上ノ関着
9月27日 朝6時上ノ関を出帆。午後3時 安芸宮島へ到着。厳島神社を参詣し、夕刻出帆。音戸の瀬戸を通し忠海沖で夜明け。
9月28日 朝8時はなぐり瀬戸を通し、午後2時過ぎに備後鞆に着 保命酒を買いすぐ出帆。その夜備前牛窓にて夜明け。
9月29日 天気よくも風弱く暫く夕方播州明石の沖に至る。その夜始終櫓4丁にて櫓走。夜明け方大阪安治川川口に到着。

 この航海は下関→大阪間、約275海里を二日と18時間で走破した。上ノ関で8時間と宮島で3時間ばかり停泊したから、航行時間は55時間になる。平均速度は5ノットだった。但し、風の弱かった明石→大阪間の櫓走は2ノット弱である。(逆潮だったみたいだ)

 瀬戸内海の航海は必ず潮流を考えて航行しなければならないのは今も昔も同様である。1日目のコースは平均速度は7.4ノットだ。潮にも乗っていたのだろうがかなりの速度である。
 上ノ関で8時間停泊したのも潮の調整時間だろう。順調に航海してきたが播磨灘で風が弱かったので明石の潮に間に合わず、微風もあって櫓走になったのだろうと想像する。

  参考文献 「日本航海術史 : 古代から幕末まで」 飯田嘉郎 著

 
 エンジンのない33fのヨットで瀬戸内海を平均5ノットで航海するのはボクの腕では難しいというよりはできないね。この船はプロが運航する貨客船なので我々アマチュアの運用技術を遥かに越えているし、この時代には早舟のような小型帆船の航路もしっかりと確立されていたのだろう。
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by pac3jp | 2006-04-28 10:19 | 歴史・民俗