カテゴリ:歴史・民俗( 38 )

 

室町時代の遣明船

 兵庫県立考古博物館で大手前大学・小林先生の「山名氏と室町幕府」と題する講演を聴いてきた。えらい人気で開演30分前には会場に到着したのにもう殆ど満席だった。中世の歴史に興味があるのだろう結構若い人たちもいる。定刻前には追加したイスにも座れない立ち見の客さんが大勢いた。

 内容は山名時熈から持豊(宗全)にいたる時代が中心のお話だが、恐怖政治をした将軍足利義教や播磨守護だった赤松満祐の嘉吉の乱などで聞き覚えのある名前が出てくるので古い出来事でも身近に感じられる。

 レジュメに永享6年6月 山名時熈、日明貿易で不正疑惑で政治力後退 という項があった。

 記録によると前年、義教が再開した第8次遣明船団が 永享5年(1433年) 正使を龍室道淵とし、幕府・相国寺・山名氏・大名寺社十三家・三十三間堂らが共同で船団を送っている。この航海で山名氏に不正があったのかも知れない。

 遣明船は室町時代の応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)に渡り、日明貿易(勘合貿易)に用いられた船のことである。

 遣明船は遣唐使船のように歴史上の著名な人物が航海で苦労した物語が後世に伝えられ、21世紀の現在、各地に復元遣唐使船が出現するほど有名ではないが当時の貿易船として室町幕府や守護大名、有力寺社などの重要な収入源にはなっていた事は確かである。

 遣明船はどんな船だったかは興味がわくが、実はよく分らないらしく史家は15世紀の史料や絵図から想像するという。
 『真如堂縁起』の「円仁を乗せて帰朝する遣唐使船」が切手などで遣明船のモデルにされていますが、下の絵も同時代の絵画で遣明船をモデルに描かれた可能性があります。
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 ↑画像は神功皇后の軍船(神功皇后縁起 永享5年)となっていますが船尾に黒く見えるのが刳船部材だというので準構造船ともいえるのですが構造船にいたる前棚板造りの船でしょうね。絵師が将軍義教に同行して兵庫で再開第一次の遣明船を見送った時に写生した遣明船をベースに兵士を配し神功皇后の軍船として描いた可能性があります。
 当時の絵画は時代考証などは一切なく描かれた当時の風物をベースに過去の想像図を描いていたといいます。ちなみにこの船の艫を押している白い装束の人物は住吉明神だそうです。

 遣明船は当初から対外貿易用に建造された大型商船を外交使節や商人などの居室用の屋形を増設するなど大規模改修を行って用いた。大きさは150人から200人の乗員に加えて食糧、貿易商品などを搭載したので1000石~2500石積くらいの大船だったと思われる。

 航海は兵庫から瀬戸内海を通り、博多に集結し準備を整え渡海するのが常だった。季節風を利用し春は南方の五島奈留浦から、秋は北の肥前大島小豆浦から寧波(ニンポー)を目指しました。帰りは夏に多い南西の季節風を利用した。風が悪ければ翌シーズンを待つ慎重さもあったという。
 応仁乱以降は堺から四国南岸をまわり九州を迂回する南海路も開かれます。これには勘合貿易の権利を争った細川・大内両氏の対立が激化したことが大きいが安全性や経費の面では瀬戸内経由の方が優れていた。

 それに航海技術の進歩があった。12世紀前期には中国船は磁石を航海に用いているので頻繁な交流があった日本船も15世紀には一般的に磁石が用いられはずで格段に航海の安全が向上していたのでしょうね。帆は莚帆だったが当時は高価だった高性能な鉄の錨が装備されていた。

【参考文献】:「日本の船」和船編 安達裕之著 船の科学館 
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by pac3jp | 2010-06-09 11:43 | 歴史・民俗  

兵庫県立考古博物館の復元古代船「ヒボコ」

 ボクは色んな博物館に行くのは好きな方で、展示されているテーマが「海や船系」だと是非にでも見てこようという気になってくる。昨年には姫路城に隣接した兵庫県立歴史博物館で開催された「船と海の博覧会」などにも行ってきた。ここには近世に活躍した弁才船の大型模型が2隻あり、司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」で有名になった高田屋嘉兵衛の解説コーナーもあった。

c0041039_1681414.jpg ところが、3年前に我家から南西に17kmほど離れた播磨町に兵庫県立考古博物館が新しくオープンした。ここは県内各地の遺跡から出土する壷や皿などを展示していてフネ系の展示物はないだろうと思って今まで有料ゾーンには入らなかったが、今回、中世に滅びた「但馬守護 山名氏の城と戦い」という特別展を見学にいった際、初めて常設の有料ゾーンに入った。
 (上の画像は大きな見張りヤグラが象徴的な兵庫県立考古博物館 西方から撮影)

 入り口に入ると中央部の「交流 みち・であい」のコーナーに大きな刳船の準構造船が据付られているのが目に入る。早速近くで詳しく見学することに。
  
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 この復元古代船は博物館ができた時、テーマ展示用に古事記、日本書記、播磨国風土記などに但馬・出石に関わる「アメノヒボコ伝説」からヒボコが朝鮮半島・新羅から倭国にやってきたときに乗ってきただろうと思われる船を遺跡から見つかった板図や古墳から出土した船形埴輪などを参考にデザインし、建造されたという。

 船体は長さは11m余りで幅は2.5m位だろうか、分厚い前後の竪板と舷側板が波から荷物と乗員を護っている準構造船だ。船底は単材で単純な構造だが外観はチョウナで削った跡がきれいな仕上げ模様になっている。当時は鉄釘がないので船底部と竪板は木組みで、舷側板はさくらの皮(黒いテープ状のもの)をつかって繋いでいた。隙間はマキハダを打って水漏れを防いでいた。

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 船内は後ろ向きに立って櫂を漕ぐようになっている。固定の舵は平安時代までないのでこの当時は大きめの櫂で操船していた。
 命名・進水式は日本海の造船所で行われたので展示用とはいえ、ちゃんと船首と船尾に係船ビットが設けられているのが面白い。でも、船底材と曲がった船首材を結合する役目もあるのかも知れない。

 復元船の原木は直径2m、樹齢800年くらいのベイマツを使っているという。本来はクスノキでしょうが、もうこんな大きな材は手に入らないでしょうね。しかし、時代設定が三韓時代の朝鮮半島なのでクスノキやベイマツは生えてないが太いマツはあったと思うなぁ。

 ちなみにこの復元船を建造中の様子がネットワーク広場の映像ブースのビデオで見ることが出来ます。

【関連記事】:古代の大海戦 白村江の軍船は?

【参考Web】:1.アメノヒボコ
【参考Web】:2.兵庫県立考古博物館
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by pac3jp | 2010-05-11 16:21 | 歴史・民俗  

テレビドラマの時代考証

 4月上旬に放送されたNHKテレビドラマ「大佛開眼」は奈良の「平城遷都1300年祭」の関連番組だろうか、初期の遣唐使船で帰国した吉備真備を主人公に貴族が権力を争うなか国家が大佛を建立する大事業に挑む天平時代の物語だ。その後編を、つい最近になってやっと録画を見た。

c0041039_9231355.jpg 古代ドラマは衣装や建築物など専門家が時代考証をしてから撮影されるのものだと理解しているが、このドラマを見ていてボクは最後の部分の二ヶ所ほど違和感を覚えたシーンがあった。

 それは藤原仲磨呂が戦(惠美押勝の乱)に破れ、傷を負い、ただ一騎で琵琶湖湖岸にたどり着き、岸に舫われた小舟で脱出しようとする。小舟は古びた色合いにしてはあるが、構造は今も使われている棚板つくりの伝馬船だったことだ。

c0041039_9234245.jpg この時代の小型船は刳舟(丸木舟)だった可能性が高い、大型船は刳船の船底部と舷側板を持つ準構造船になっていた。それが刳船部分が航(かわら)になり、棚板つくりになってくるのはずっと時代が下って16世紀中期からで、磯で漁をする小型漁船などは原始の時代から、そう進歩のない丸木舟が昭和の時代まで使われていたという。
 右上の画像は男鹿半島で使われていた「エグリブネ」と呼ばれる丸木舟。

c0041039_9241489.jpg また、最後のシーンはその小舟に真備が乗り、船頭が櫓を押し沖に漕ぎ出してゆく場面がある。これも少し引っかかる。櫓は7世紀中頃に中国から伝わり、平安時代に海船から普及したといわれているので、天平の時代に琵琶湖の小舟が櫓を装備しているのはちょっと早いと思いますね。まだまだ櫂の時代でしょう。しかし、映像では櫓も当然のように江戸時代初期に使われ始めた二材を継いだ継櫓だったが、初期の櫓は棒のような棹櫓だったのに・・・。

 スタッフリストに古代船の時代考証を担当した名前もあったが、多分、荒海を往く遣唐使船のシーンだけをを担当したのだろう。巨大な大佛のセットで予算が食い込み、時代に合った小舟を再現する予算が足らなかったのかもしれないなあ。


【参考Web】:NHKプレマップ「大仏開眼」Ver.2(ユーチューブ動画)
【参考図書】:日本の船 安達裕之 著 
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by pac3jp | 2010-04-28 09:35 | 歴史・民俗  

第一回国勢調査の記念碑

c0041039_1151133.jpg 先日、高砂市の高砂神社境内にある工楽松右衛門の銅像を見学にゆくと、すぐお隣にちょっと変わったデザインの記念碑が建っていた。円形の御影石に当時の大日本帝国の版図がレリーフになっている。 それは現在の日本地図よりも北はサハリン、西は台湾それに南は太平洋がやけに広く表わされている。

 碑文は「第一回国勢調査記念」となっている。国勢調査は五年おきに普通に実施されているが、日本国が初めて行った国勢調査はこの地の神社にも記念碑が建てられるくらいの大事業だったのかなと眺めていた。

 記録によると大正9年10月1日(1920年)午前零時を期し、大日本帝国版図内において、第1回国勢調査が施行された。北は樺太から西は朝鮮半島・台湾まで全国26万人の調査員を動員して一斉に調査が行われた。しかし、委託統治領だった太平洋の南洋諸島は住民に日本国籍がなかったので調査されたかな? しかし、南洋庁のお役人とその家族は住んでいたので調査の必要はありますね。

第一回国勢調査の人口は
●全国(内地)の人口は 55,963,053人(男28,044,185 女27,918,868)でした。
●外地も含めた人口では 76,988,379人(男38,903,195 女38,085,184)となっています。
   ※ここで外地というのは、朝鮮や台湾、樺太などが含まれています。

 もう亡くなった大正6年生まれの父や大正9年2月生まれの義母は名誉ある第一回目にちゃんと日本国民としてカウントされたいたわけだ。

 下の表は当時の都市人口ランキングです。
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 東京・大阪は順当でも神戸は3番目だし長崎に至っては7番目だ。北海道は函館9番、小樽13番、それから札幌の15位となっている。軍港を持つ呉市は10番で仙台、札幌、福岡より人口は多かったですね。

 この国勢調査では10月1日午前0時現在の「居場所」を記入することになっていたそうなので、数多くの軍艦が碇泊している軍港や大きな港をもつ町が実際より順位を上げたのかもしれない。横須賀市が全国20番以内に入っていたもんね。

 最大の成長都市は6番目だった横浜市で、現在の人口は8.7倍の367万人で全国ランキング2位に上がっている!

【参考Web】:総務省統計局 国勢調査の歩み
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by pac3jp | 2010-03-26 11:15 | 歴史・民俗  

技術革新だった「松右衛門帆」

c0041039_94282.jpg 弁才船の帆は最初、莚帆(むしろほ)だったが、帆走を常用しつつあった17世紀中期以降、薄い木綿布を2枚重ねて太い木綿糸で刺し子にし、それを縫い合わせてた「刺帆」(画像右側)が用いられるようになっていたが、この帆は製作に手間がかかりすぎる割には強度不足で帆がよく破れるという大きな欠点を持っていた。

 18世紀後期、播州高砂の船頭、松右衛門がその廻船乗りの経験を踏まえ弱い木綿の刺帆から“帆布の技術革新”というべき地元の播州木綿を使った厚地大幅物の新しい織帆を織機の改良など苦心を重ねながら開発した。
 それが「松右衛門帆」(↑画像左側)といわれ、価格は刺帆の2倍もしたが開発から僅か30年余りで全国の主要な廻船は殆どこの帆を装備しているという風に急速に普及した。それは丈夫さから来る耐用年数の増大や手入れに対する費用の低減が値段の高さを補って余りあったからだろう。
 それに帆の強度が増したおかげで刺帆では走れなかった強風でも普通に航海できるようになり、風待ちが大幅に減りそれが航路の航海所要時間の減少という大きな効果になって出てきた。

 そんな革新的な帆布を開発した「工楽 松右衛門」が高砂の人だとは知っていたが、高砂神社に銅像がありご本人が住んでいたお屋敷も現存すると聞いたので週末に見学してきた。

c0041039_983351.jpg 丁度ボクの義妹が高砂の同じ町内の出身なので情報を聞いてみると、工楽松右衛門さんのご子孫と小学校以来ずっと同級だったと教えてくれた。そしてお屋敷には玄関を入ると天井にご先祖が乗ったのか立派な駕篭が吊ってあったし、珍しい道具もあった。またお庭もキレイに手入れされていたと遠い昔の思い出を話してくれた。そして、お屋敷の外壁には和船の船板が張られているのですぐ分るとも教えてくれた。

 「相生の松」で有名な高砂神社の境内にある工楽松右衛門の銅像は意外に小柄な人物で、苗字帯刀を許された2本差しが左手に図面の様な巻物を持ち現場で工事の指図をしている姿だ。表情は船頭から実業家にそして港湾エンジニアへと創意と工夫で華麗に変身してきた人の厳しい目付を持っている。

c0041039_9104652.jpg 旧工楽邸は高瀬船の棚板らしい外壁なのですぐに分ったが、もうかなり前から無住の家のようで、母屋は軒のカワラが落下するので注意を促す張り紙がしてあるし、幾つもある土蔵などはもう朽ちて崩れかかっている。
 近くにも古いお屋敷はあるが、外壁に船板を張り付けた家はない、晩年には地元の港や舟運にも関わってきたことが加古川を行き交った高瀬舟の棚板がそれを物語っているように思いますね。

工楽 松右衛門 略歴(くらく まつえもん 1743年 - 1813年) 
■1743年(寛保3年)、播州高砂(兵庫県高砂市東宮町)の漁師の長男として生れ、幼少から創意工夫が得意であった。帆布(松右衛門帆)などの多くの発明した。松右衛門帆の利益により船持ち船頭になる。
■1790年(寛政2年)、江戸幕府より択捉島に船着場を建設することを命じられ着手する。
■1802年(享和2年)、松右衛門の功績を賞して幕府から「工楽(工夫を楽しむの意)」の姓を与えられた。
■1804年には函館にドックを建設した。
 (出典: フリー百科事典『ウィキペディア』)

【参考Web】:兵庫県と北方領土
【参考文献】:和船Ⅰ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2010-03-23 09:13 | 歴史・民俗  

樟(クスノキ)

c0041039_11123396.jpg いつだったか、それは台風のあとだったかも知れない。いつもお世話になっている船大工さんが水路の奥に吹き寄せられたゴミの中からキズだらけの木材を拾って喜んでいた。

 どうしたの?とお聞きすると「クスノキ」や、これは“銘木”で買ったら高いんやでとおっしゃる。そんな丸太の切れ端は時化が続いたあとの海岸に行けば幾らでも転がっているのにと、まだ和船の知識に乏しかったボクはそう思っていた。

 わが国は神話の時代から、スサノオノミコトが木の使い方についてこう教えたという。「桧は端宮(みずみや:宮殿)に、杉と豫樟(くす)は浮宝(うきだから:舟)に、披(まき)を奥津棄戸の臥具(おきつすてどのふしぐ:棺桶)に使え」といっている。

 この前、テレビ番組で韓国の遺跡から発掘されたお墓に槙が使われていたことから、この被埋葬者は倭人だろうとあちらの学者が言っていたなあ。

 縄文時代は石器で柔らかいカヤやスギを刳りぬいて丸木舟にしたが、鉄器が使えた古墳時代以降の刳り舟や準構造船は耐久性の良いクスノキが使われてきた。

 その後、和船に興味が出てきて博物館で復元菱垣廻船などを見ていると杉は当然で、重要部材に樟や欅が使われているのを発見する。

 近世の弁才船の船材について書かれた史料によると船体部分の航(かわら)、中棚、上棚などは樟・杉・欅が上木で、栂・樅・松・桂・椎は下木である。杉は白太を除き、松は樹脂の多い肥松を使えば上木だ。
 戸立(トランサム)は樟・欅、みよし(船首材)は樟・欅、床船梁は欅が良い。大きく長い材は松・杉を、巨大な舵のラダーシャフ(身木)には樫、ラダーは松である。また前後の目立つ化粧板には樟が使われていたようだ。(大坂・瀬戸内海の船)

 現代でも和船の伝統を僅かに残すFRPの小型漁船でも係船ビットやアンカーローラーを載せている腕木などにその強さと耐腐朽性を買われて今でも樟が使われていると言う。

 欅も強度がある木材だが甲板などで風雨や紫外線に長時間されされると腐朽してくるが、欅と樟を張り合わせて腕木などに使うと欅の寿命が伸びるようだよ、と大工さんに教えてもらった。
 クスノキなどこれからも絶対?フネで使うこともないボクは、へぇ~、樟の樟脳が効いているのかなと、ただ単純にそう思っているだけだが。

 ちなみに、広島の世界遺産、厳島神社の沖に建つ大鳥居も樟を柱に用いている。


【参考Web】:クスノキ(樟)ウイッキペディアより
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by pac3jp | 2010-03-12 11:21 | 歴史・民俗  

古代の大海戦 白村江の軍船は?

c0041039_1750745.jpg 「日本と朝鮮半島の2000年」というテレビ番組で古代の朝鮮半島で起こった大海戦「白村江の戦い」の場面に出てくる軍船のCGが気になっていた。

 そんな時、神戸市立博物館で《東アジアから神戸 海の回廊=古代・中世の交流と美》という海や船に関わる展覧会が開催されていたので見学してきた。

 しかし、古代船の記録はなく、古墳などから出土される埴輪や遺物に描かれた船の絵から想像するしかない。

 日本列島では古墳時代から活発になる中国・朝鮮半島との交流に欠かせなかった船が、大阪・奈良を中心にした中小規模の古墳から船形埴輪としてよく出土されている。そしてこれらの古墳の主はヤマト王権中枢に近い実務型の豪族ではないかと考えられている。朝鮮半島・中国との交渉窓口であり時には遠征用の軍船をだす役割も担ったのかもしれないという。

c0041039_14455033.jpg 左画像(1)の埴輪は大阪・長原高廻り2号墳出土の船形埴輪だ。船底部は丸太の刳舟で舷側板を組み上げて2層になって船首と船尾を竪板でふさいで耐航性や積載能力を増やす工夫をしている。

 平成元年に大阪市は考古学・船舶工学など関連学者を動員して可能な限りこの船形埴輪に忠実に準構造船を復元した。この埴輪の櫂をこぐ支点の間隔から船底部の長さを12mと割り出し、寸法比(L/W)と用材から幅を2mと決めたそうだ。

 また、画像(2)西都原古墳からはゴンドラタイプの船形埴輪も出土している。大きな楠材が豊富に取れた古代では船底部は長さ20mで幅2mは充分あったと思われます。ことによると長さ30m、幅3mの可能性もあったと思われる。ゴンドラタイプは古墳時代後期、6世紀にはこちらの方が多くなってきたようだ。どちらの船形埴輪には帆走のための帆柱はなく漕走が主であったのだろう。

 これらの古墳が造られた5~6世紀から百数十年後の飛鳥時代。

 661年、中大兄皇子が滅亡した百済の再興の為の援軍を朝鮮半島に送ることになり北九州から、そして瀬戸内・難波の海からも大勢の兵士を乗せた軍船が朝鮮に向かった。

■第一派:661年5月出発。1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫。豊璋王を護送する先遣隊。
■第二派:662年3月出発。2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
■第三派:1万余人。指揮官は廬原君。(出展:ウィキペディア)

 663年8月、戦場になった朝鮮半島西岸、白村江(はくそんこう)には待ち受ける唐と新羅連合軍の大型軍船170隻、兵力1万2千人。一方倭国軍は軍船800隻、兵力4万余人と圧倒的な兵力で激突したが、たった2日間の戦闘で、倭軍は軍船の半分400隻と兵1万人を失い大敗北したとなっているが、倭軍がどんな軍船で闘ったのか興味があるので少し想像してみる。

c0041039_1448204.jpg テレビのCG(左)は倭軍の軍船は船形埴輪(1)タイプで2層式の準構造船が帆柱に白い帆を揚げて進んでいるものである。波の大きさからみると船の長さは20mはありそうだ。しかし倭国水軍は800隻とかなりの船は集めたが、これほどの船は少く、殆どはもっと小さい運送船のような船だったという説もある。それに、櫂で漕いでいたのにCGにはマストがあり、木綿もないのに白い帆なんて考えられないなあ。

c0041039_15111756.jpg それでも追風の時は風を利用していたとするならば右の画像のように両舷に帆柱を立て、その間に「むしろ帆」を揚げていたかもしれない。
(右画像は江戸時代にアイヌ民族が用いた舟)

 大海戦なので旗艦にはジャンク型の遣唐使船のような構造船がいて指揮をとっていたと考えたいが、倭国にはまだそのような渡海船の建造能力はなかっただろう。
 しかし、白村江の戦いの前に倭国は遣唐使船を派遣しているが、それは航海が易しい北路をとっているので準構造船でも充分航海できたはずだ。それに対して、大きく版図を広げようとしていた唐はすでに外征用の大型渡海船を多数持っていたといわれている。

【参考Web】1:白村江の戦い 『ウィキペディア(Wikipedia)』
【参考Web】2:神戸市立博物館 特別展「海の回廊」 
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by pac3jp | 2010-03-02 14:59 | 歴史・民俗  

流れ着いた漂着物の所有権は?

 世界遺産の島「屋久島」で運良く1日8時間無料の島内観光タクシーに乗れるチャンスに恵まれた。ガイド兼ドライバー氏は地元の人で副業?として海岸に近い場所で農業をしているという。
 そんな彼が運転する観光タクシーで宮之浦港から出発した。まず、最初の屋久島観光は車で入れて、名前まで付いた巨大な屋久杉がある「ヤクスギランド」から始まった。
 50分コースを案内して貰ったが、その谷筋には立派な屋久杉テーブルが取れそうな太い杉の丸太が大岩に引っかかっている。それもあちこちにある。でも、そのような谷あいにある杉丸太の採集は全島で禁止されているが、大雨が降り、海へ流れ出し、波や風に吹かれて海岸に漂着した丸太は、最初に見つけた人の所有物になるという。屋久島でもその権利の主張は石ころ一個を載せておくだけで良いときいた。

 下の画像は民俗学者として有名な宮本常一先生が昭和34年8月7日佐渡・真更川-鷲崎での撮影したもの。
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 <海ぞいの道ともいえないところをあるいてゆく。浜には流木がすこしうちあげられている。その木の上に石がのせてあるのが目につく。流れ着いたものにこうして石をのせておけば、それは私がひろったのですというしるしになる。<中略>こうした習俗はどこにも見られる。それは全国にわたっている。石をのせた人は誰であるかわからない。もちろん木を失った人もわかってはいないけれども、こうして石をのせておけば、石をのせた人以外にその流木に手をかけたりもっていったりするものはいなかった。そしてそのうちひろったものがもってゆくことであろう。私はこのような習俗を面白いものに思う。しかもそうした習俗が全国にわたっていることである。
 不文の約束ごとが守られることで民衆の社会は成り立つものである。人が人を信じられるのである。見知らぬ人おもそのことによって信じることができた。さびしい海岸であった。人一人見あたらぬ世界である。しかしそこには人の意思は働いている>
(私の日本地図7・佐渡より)

 奄美大島の漁師さんが書くブログ「島魚・国直鮮魚店」の記事の中にこんなお話が出てくる。
2009.02.19 ゆりむん(2)

【ゆりむん】 漂着物
 島の海岸線には多くの”ゆりむん”(漂着物)が打ち上がります。
昨今問題となっている大陸からのプラスチックごみや医療廃棄物などの漂着ごみはいただけませんが、その昔ゆりむんは遥かネリヤ・カナヤ※からの贈り物でした。
 流木等はサイズによって建築材や薪として利用される他、浮き玉やロープ類は漁具の材料として利用価値が高いため、台風や季節風の吹いた後は先を競って海岸を散策しました。
 一見無秩序に見えるゆりむん拾いですがいくつか暗黙のルールがあります。
 二つ目のルールは「第一発見者絶対優先(早い者勝ち)。」というものです(一つ目はコチラ)。
「ゆりむんを見つけ持ち帰ることはできないけど所有権は主張したい。」という場合は、人為的に置いたと分かるよう移動させたり、石を積んだり、ロープを巻いたりと何がしかの意思表示をしておきます。
 それ以後の発見者は決して現状を変えてはいけないし、ましてや持ち去ることなど絶対に許されません(それが島っちゅのモラルです)。

 屋久島でも奄美でもきっと佐渡でもこの習俗は今も生き続けているんだ。

 ボクも子供の頃は播磨灘に面した半農半漁の小さい集落に住んでいた。台風や冬の大西が吹き荒れた翌朝、浜に打ちあがったワカメや木材など漂着物を皆で拾いに行ったものです。今でも台風の後には海岸に行きたくなり、時には埋立地の奥のテトラに引っかかった黄色い俵ブイ(フェンダーにする)などゲットすることもあります。

 残念ながら当時は子供だったので日本人の習俗だったという「石を積んどく」は知らなかったなぁ。今ではそんな砂浜もすっかりなくなりテトラとコンクリートの護岸になってしまい、漂着物ひろいのモラルなんて大阪湾や播磨灘の沿岸ではもうなくなってしまったのでしょうね。

※ネリヤ・カナヤ(ニライカナイ)は、沖縄県や鹿児島県奄美諸島の各地に伝わる他界概念のひとつ。理想郷の伝承。

【関連記事】:迷惑な漂着物 

【参考資料】:宮本常一の写真に読む 失われた昭和 佐野眞一著 平凡社
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by pac3jp | 2009-06-05 09:40 | 歴史・民俗  

史蹟 和田岬砲台

 三菱重工神戸造船所で大型コンテナ船の進水式を見学して船台から出ると、通路にはこの造船所内にある国の史蹟、和田岬砲台見学コース行きの矢印看板があった。
 以前からここに古い砲台あることは知っていたので頑丈な第3船台の下を潜り、昔は岬の先端だっただろう工場の南東方面に暫く歩くと、植栽やベンチもあり小公園のように整備された場所に出た。 145年前に築造された砲台は古びてはいるが花崗岩を積んだ立派な建築物だし付近の景観ともマッチしている。大工場の奥深くで丁寧に保存されてきたので他と比べ流石にとも思わせる。もう少し季節が進むと付近の桜が満開になり花見にも絶好の場所にもみえるが構内なのでそうもいかないのでしょうかね。

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 現在は木造の内部構造が痛んできたので保存に向けての調査中とかで内部の見学は出来ない。中まで見たい人は三菱神戸造船所のWebで和田岬砲台をクリックしてください。

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 江戸幕府は幕末、日本近海に現れる列強の軍艦から国防に不安を感じ、京都を警護する要地である大阪湾各地に勝 安房守(勝海舟)の建策、設計で数多くの砲台を築いた。
 阪神間では明石海峡の舞子と対岸の淡路・松帆、神戸の川崎と和田岬、西宮の今津と香枦園に文久3年(1863年)から突貫工事にとりかかった。和田岬砲台は講道館柔道で有名な嘉納治五郎の父、嘉納治郎作が工費二万五千両で請負い、二ヵ年で竣工したが、今津と香枦園はやわらかい砂地に重い花崗岩を積むため基礎工事に手間取ったのか足掛け4年の歳月がかかってしまったという。

c0041039_1542263.jpg 上の説明板によると現存するのは和田岬砲台だけだと書いてあるが西宮・香枦園浜にある西宮砲台はしっかりと残っている。ただし、昔から管理が悪いのか大正期に内部は火災で焼失し、近年はフェンスで囲まれているが落書きなどいたずらで文化財らしくない管理状態に見える。(画像左上)

 西宮にあるもう一方の今津砲台は同時期に今津港東口に築造されたが、大正4年(1915年)民間に払い下げされ、石を取るため解体され今津港から運びだされてしまい現存しない。今、その場所には大正4年に地元の酒造家長部文次郎氏らが砲台に積まれた御影石に文言を刻んだ記念碑が建立され今に残っている。(画像左下)

 今の感覚で見れば明石海峡を睨む舞子や松帆、神戸港の入り口である和田岬は砲台設置の必要性もあるが西宮の二ヶ所は本当に必要かと考えてしまうが当時は西宮港も今津港も神戸港に並ぶ重要港湾だったのだろう。



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by pac3jp | 2009-03-21 16:00 | 歴史・民俗  

「みょうとぶね」と浮鯛抄(うきだいしょう)

 小型貨物船や漁船それにヨットでも夫婦二人だけで乗っているのは「みょうとぶね」と呼ばれている。ボクも短期間の経験はありますが中々良いもんです。「みょうとぶね」がよそのフネと喧嘩しているのも見たことないし、確かに大人しいフネにはなるようです。

 ボクの愛読書、「スピン・ナ・ヤーン」のなかでも自由漁民として西日本一円にその名も高い広島県豊島の「みょうとぶね」が語られている。

 船首にテントなどを張った特徴のある家船(えぶね)で 彼らは単独か、多くて3~4隻の船隊を組んで遠くは五島や壱岐・対馬まで出漁する。漁法は延縄か一本釣で大ぜいで来ることもないから漁場の争いも聞いたことがない。

 一夜の泊まりを求めて見知らぬ漁港へ入っていくと、地元の船の混み合わない、それでいて安全な一隅に「みょうとぶね」が二、三隻ひっそりと泊っている。寄せていって声をかけると、「ああ、 ここはええよ。 ともから錨入れて前の岸壁に鼻付けしたらええ。 うちの船の隣へ来いよ」おおきに、と言っていったん離し、錨をいれフェンダ-を吊るして寄っていく。船頭が綱を取ってくれる。
 このあたりでおかみさんの方も顔を見せて係留を手伝ってくれながら、「あんた、どこからおいでたん? ひとり? さびしいねえ。 とうちゃん、うちアナゴ活けとったやろ、あれ少し、このひとにわけてあげよ」 「ありがたいなぁ、でもあんたら、せっかく釣ってきたんじゃけん、これ少しじゃけど取っといてよ」「いやいや、これは売り物じゃない。 金くれるんじゃったら魚やらん」と、心温まるやりとりがあった・・・。

 著者は「この人たちの暮らしを見ていると、日本の海辺の文化の原点を見る思いがする。そして、もともと私たちはみな、こんなに開放的で人懐こい心情を持っていたのだろうと今更のように思うのだ 」と述べている。(この文章には写真が付いていてボクもその場所で泊ったことがあった)

そんな自由漁民の原点はそう遠くない所にあった。

 その家船(えぶね)の発祥の地が広島県三原市の能地だとされている。芸予諸島・大久野島(毒ガス島)の対岸、今は大きなクレーンご目立つ幸陽ドックがある辺りである。またこの地にはかって、浮鯛現象が見られた。この浮鯛現象は「初夏の大潮の日に、あまりの急潮に浮き袋の調節が出来なくなった鯛が群れをなして海面に浮かび上がってくること」で日本書紀にも記述がある大昔から有名な現象だった。

 古くから瀬戸内海には漂泊の漁民がいた。陸に住居がなく家族が家船で漂泊しながら漁労をし、末子相続で流れ着いた全国の海浜に枝村を増やしてきたという。
 沿岸の漁業権を持たない家船の民は漁業権の及ばない沖合いで漁をし、女たちはその付近の町で売りさばくことで生計を立てていた。魚が捕れなければ死活問題なので、先進漁法の開発者はいつも家船の民だった。そして、そんな新漁法を地元漁民に教えることで共存してきた。

 そんな家船の民が遠くの海で漁をするさい浮鯛抄という巻物を通行証明書として大事にしていたという。この巻物の写しを見せるとどの浦浜でも大目にみてくれて漁ができた。
 それには日本書紀の神功皇后伝説から説き起こし、本拠地の浮鯛話も絡ませ、神功皇后から諸国の浦浜での漁業権を認められ、かつ家船漁民は運上金を出さなくていいなどと彼らの由緒が書いてあるが、十八世紀の浦浜の漁民がこの巻物が読めたかどうかも問題ではあるなぁ。

 ボクは無理ですが、皆さん下の巻物、読めますか?

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 安芸の国豊田郡能地浦浮鯛は神功皇后この所に到ます時鯛魚多く御船の傍に聚しに皇后鯛魚に酒を洒き給へば魚即ち酔て浮ぬ時に海人その魚を獲て献る 
 又皇后岡にあがらせ給ひ東西の野を御覧じて左右のうちよきかな五穀豊穣べしと云ひしその所を号して能地といふ 
 その岡はいま八幡大神宮鎮座まします所といふ皇后この浦にて海神に幣を手向給ひ海へ流し幣の流れ寄りし所を浮幣といふ 
 今その所に浮幣社といふ小祠あり神功皇后と海神とを祭るといふ浮鯛の事は日本書紀巻第八に在り傅いふ
 その時海人浮鯛をすくひ清らかなる器もなかりしにより飯をいるる器に入て男は恐れありと女これを頭にいただきて献ると今に此浦の漁家の女は魚を市に鬻ぐに頭にいただきて歩く
 その魚入るる器を飯○というはその縁なりとその時皇后勅して此浦の海人に永く日本の漁場を許し給ふと夫故世々今に此所の海人は何國にて漁すれども障方なく運上も出す事なしといふ

豊田郡誌より

【参考web】:浮鯛祭り
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by pac3jp | 2009-01-30 15:46 | 歴史・民俗