カテゴリ:歴史・民俗( 38 )

 

三島水軍 海賊流車輪船図など

 三島海賊衆は豊臣秀吉の天下統一により海で自由な活動が出来なくなり、来島村上氏は小さいながらも秀吉傘下の大名となり、因島村上氏と能島村上氏は毛利水軍に組み込まれ、それぞれ立場でその後の時代を生きてゆく。 そして、彼等の戦いの経験から海賊流の軍学なるものを作り上げている。

 因みに日露戦争の連合艦隊司令長官東郷平八郎の伊予出身の参謀秋山真之が日本海海戦でとった「丁字戦法」でもってバルチック艦隊を撃破したことが知られているが、それは古くからある能島流海賊古法からを思いついたという。

c0041039_10444348.jpg この村上家に「海賊流車輪船図」という絵図が伝わっている。船底の先鋭な船の船尾部に4枚翼のスクリュープロペラ2個を備えていると解され、日本人の思いつきの優秀性が強調されている。しかし、図の左右両端が船首尾らしいことから判断して、外車を船側に備えた船、すなわち、外車船と解すべきであるとされている。

 当時の水軍書の中には海賊流車輪船のほか、竜宮船(潜水船)、波潜(ナミクグリ)船、盲船、水中船(潜水船)などが描かれているが、当時の技術から見て、到底、実現しそうもない特殊な軍船の図であり、いずれも単なる着想を示す絵図であって実際に建造されたものではないと思われる.
 「船の世界史」上巻 上野喜一郎著 舵社 より引用 


 伊予・今治出身の有名人は他にも村上水軍の末裔といわれている人もいるが、自民党の村上誠一郎氏は本人の公式ホームページで能島村上家18代目であるとはっきりいっているので信用できるかもね。
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by pac3jp | 2010-12-03 10:55 | 歴史・民俗  

中世 瀬戸内海の海賊 海賊に遭遇

 波静かな瀬戸内海は大昔より物流の大動脈だったが、中世に入り商品の流通が活発になり海運業が盛んになってくるとそれに伴い海に関わる人々も多くなってくる。そして芸予諸島・防予諸島など多くの島々が集まる海上交通の要衝には「海の民や海の領主」としての海賊がいた。
 海上武装勢力として瀬戸内海の広い範囲に勢力をもつ海賊とは別に、浦々にも自分のテリトリーを持つ小さな海賊もいて各地で活発に活動していた。

 中世・瀬戸内海の船旅でそんな海賊に遭遇した記録を残している人物がいた。
 京都・東福寺の梅霖守龍という僧が寺の荘園がある山口県・徳地に年貢の督促のために出張した時の日記である。(梅霖守龍周防下向日記)

◎1550年(天文19年)9月14日 堺より11反帆(100~200石積)の船に乗る。船頭は塩飽(塩飽諸島の本島)の源三だった。乗客は300人もいて「船中は寸土なき」状態だったというが、さて、どんな人々が乗っていたのか大いに興味が湧くなぁ。

◎備前・日比沖で海賊に遭遇。
賊船一艘来たり、本船と問答す、少焉賊矢を放ち、本船衆これを欺いて鏃をならべ鉄炮を放つ、賊船疵を蒙る者多く、しゅゆ(すぐに)にして立ち去る、同申の刻塩飽浦に着岸して一宿に投ず

 一隻だけの海賊と通行料の談判が決裂し、攻撃されたが本船からの反撃で負傷者をだし早々に退散してゆく海賊。ある程度の武装はしているようである。日比と本島は距離にして8マイルほどなので当時でもごく近いと思うが海賊のテリトリーがもう違うのだ。

守龍さんは運悪く帰りの航海にも海賊に遭っている。
◎1551年(天文20年)4月1日 七ヶ月滞在した周防からの帰路 宮島から「室の太郎太夫」の船に乗る。堺までの船賃は300文で従者は200文を支払ったという。

羊の刻(午後2時)関の大将ウカ島賊船十五艘あり、互いに端舟を以って問答することひぐれに及ぶ、夜雨に逢いて蓬窓に臥す、暁天に及び過分の礼銭を出して無事

 安芸の竹原沖で「関の大将ウカ島賊船十五艘」と遭遇、15隻と多数の海賊にとり囲まれたため船頭は小舟を出し午後2時から翌朝まで海賊とねばりにねばり交渉し、多めの礼銭を支払うことで決着し航海を続ける。

室:播磨・室の津
関:瀬戸内海で海賊は通行税を取る?ので「関」と呼ばれていた。
  上関、中関、佐賀関、下関など関と名がつく場所は通行税をとる海関があった跡。
ウカ島:尾道市岡島?

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↑中世の海船 準構造船で莚帆と木碇、櫓棚がある。(石井謙治「図説和船史話」による)

 1575年(天正3年)薩摩の戦国大名島津氏の一族、島津家久一行30人ほどが伊勢参りのために瀬戸内海を旅した記録がある。

◎彼等一行は2月に本拠地である串木野を出発。九州は陸路を、赤間関から船旅になるが順風が吹かず山陽道を陸路で安芸・厳島へ、参拝を済ませ陸路で備後・鞆に向かい4月2日に到着。ここから西宮までが船旅となる。

◎一行を乗せた客船は鞆を出航して塩飽(本島)に入り3~4日風待ちをし、5日の午後に船出する児島の沖に掛かると「ひひ(日比)の関」)、「のうしま(直島か)の関」が相次いでやってくる。島津一行は「いつれも舟頭の捌候」と書き記してあるが、おそらく船頭がその度毎に海賊に礼銭をはずんだのだろう。

◎その日は直島に停泊し翌早朝に出航した。やがて牛窓の沖にさしかかるとここでも「関」が兵船一艘でやってきた。牛窓も海賊の根拠地の一つだったのだ。ここも船頭の捌きで何事もなく収まり、一行は牛窓見物した。その夜は日生の大多府島に船掛りし、翌日は赤穂・坂越、相生・那波等を経て播磨の室津に停泊した。

◎室津では船頭が明石へ上乗りを頼みに行ったため1日停泊を余儀なくされる。どうも播磨・室津が東西海賊の縄張りの境界だったようだ。

◎上乗りの海賊はやってきたが順風が吹かず長い停滞に、それに時代は戦国なので到着地の堺が三好勢と信長の軍勢が戦う場になり、船の運航は室津で打ち切りになってしまうが、相客同士で淡路・岩屋船を借り切り旅を続けることになる。

 相客は宗教系の熊野衆、高野衆、それに武士の日向衆、堺・兵庫の商人たちと多彩な人々が瀬戸内海の客船に乗り合わせていた。長い停滞には互いに酒を飲み交わし、困難に当たれば力をあわせて乗り切ってゆく、そんな船旅をしていたようだ。

 梅霖守龍が瀬戸内海で海賊に遭ってから25年後の1575年の島津家久の船旅にもちゃんと同じ場所でローカルな海賊たちが通行料を要求している。しかし、その後13年が経ち、戦国は終わり豊臣秀吉が天下を統一して1588年(天正16年)に刀狩令と同時に海賊禁止令がでて最早規模の大小に関わらず海賊たちが自由に活動できる海はなくなってしまった。


【参考文献】:「中世 瀬戸内海の旅人たち」 山内 譲著 吉川弘文館
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by pac3jp | 2010-11-29 15:15 | 歴史・民俗  

中世 瀬戸内海の海賊 其の1

 神戸大学海事博物館の市民セミナーは「・・・江戸時代海路のにぎわい」をテーマに5回開催されたが、その内3回は中世の海が舞台のお話しだった。そして最終回は「しまなみ海道は海城ゾーンだった」とおっしゃる山内先生が語る「瀬戸内海の海賊」のお話を興味深くお聞きした。

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    ↑クリックすると大きくなります。

 芸予諸島は大阪湾から広島や松山方面へクルージングする時は必ず通過するエリアだがまず、最初にエリアに入る航路を決めなければならない。大型船は来島海峡になるが、小型船やヨットなどは伯方島と伊予大島の鵜島間にある急潮で有名な「船折瀬戸」を通過する。
 ボクも最初は連れ潮で入り、水路の真ん中に洗岩があったり狭い瀬戸なのにクランクに折れ曲がり「船折れ」とその名前も怖いなぁ、港湾案内には初心者は潮どまりに通過せよとか書いてあったし・・・、と緊張しながら通過したものでした。

 その船折瀬戸の突き当たりに周囲800mというとても小さな島がある「能島(のじま)」だ。その昔「日本最大の海賊」と宣教師フロイスが報告した能島村上氏の本拠だった能島城があった島だが、いつ通っても早い潮流や対向船が気になり島を詳しく観察も出来なかったのが残念だったが、一度は上陸して見たいと思っている。
 また近くの見近島にも海城の遺構が発見され陶磁器も数多く出土されていることから交易の拠点だったのではと考えられている。

 船折瀬戸を西へ抜け宮窪瀬戸に出ると伯方島と大三島の間の南北水路が最大8ノットもの急潮が流れる鼻栗瀬戸がある。古くは鼻繰瀬戸と牛の鼻輪に例えられるほど狭く屈曲したさまを表した名前だったとかいう。地図で見ると広いように見えるが実際非力なヨットで通過すると潮の流れが渦を巻いているようで船折瀬戸と同様緊張する時間だった。

 こんな難しい瀬戸を昔のエンジンを持たない船がよく通過できたなあと感心するが、一方海賊衆はその海域の潮の流れを熟知し自由に行動できるノウハウを持つので通行料の徴収など海賊業が可能になってくるのだろう。

 そして戦国時代まではこれら海の難所にはちゃんと海賊たちも生息していた。その本拠はそれぞれの海城で能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏と近くの島々で活動していた。海賊衆の本拠は小島に築かれた海城で、外敵には海面に守られた城で、海面が土塁、激しい潮流が堀であったという。

 やがて時代とともにこれらの有力な海賊衆は毛利、河野、大友など戦国大名の海上兵力として組み入れられ、水軍として活動してゆく。(続く)
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by pac3jp | 2010-11-23 18:49 | 歴史・民俗  

いろは丸事件と坂本龍馬

 今年(2010年)はNHKの大河ドラマで「龍馬伝」が放送されている。10月17日(日)には「いろは丸事件」が起こる場面があると言う前日の土曜日に神大海事博物館主催の「いろは丸事件と鞆・坂本龍馬」と題する市民セミナーが開かれた。講師は福山市立鞆の浦歴史民俗資料館学芸員の園尾 裕氏。

 この事件は我が国最初の汽船同士の海難事故だったし、有名な「いろは丸」がどんな船だったかや、その賠償の経過など最新の情報にも興味があった。

 まず、今年4月、旧大洲藩主加藤家のご子孫が長らく秘蔵されていた「いろは丸」のポルトガル語の売買契約書などが公開され、東大で解読されたことによって以下、従来説と違った「いろは丸」が見えてきた。

◎1862年 スコットランド・グリーノックで建造  
 鉄製、三本マスト、蒸気内車(スクリュー船)45馬力 
 全長:47m 全幅:5.2m 深さ:約3m 積載量:209.16トン
 船名:アヴィゾ号 母港:マカオ

※従来は外輪船と思われていた。それに深さが3mとなっているが吃水の間違いかもしれない。

◎1863年 薩摩藩が英国商人グラバーから購入 船名:安行丸

◎1865年 薩摩藩の五代才助がマカオ生まれのポルトガル人ロウレイロ(デント商会)に安行丸を売却

◎1866年 薩摩の五代才助の世話で大洲藩主の代理人国島六左衛門が在長崎ポルトガル領事から約一万両で購入。契約書の船名:イロハマンス
※従来は同じく五代の世話でオランダ商人から七万ドル(42,500両)で購入とされていた。

 また、6月には長崎歴史民俗資料館の松永館長が「長崎の海と船展」の準備中、いろは丸と思われる絵図を見つけた。その史料は長崎港外の深浦亀ヶ崎で入港する船舶を絵図で記録していた佐賀藩士がつづった記録誌「白帆注進外国船出入注進」(鍋島報效会所蔵)に掲載されていたという。

 ちなみにこの記録誌は広島県立歴史博物館で「幕末の動乱と瀬戸内海」という展示会で公開されている。11月23日(火・祝)まで。

下の図が新たに見つかった「いろは丸」

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「いろは丸」と特定した理由は
1.史料の前ページの記事に「四国船」との記載がある。10月24日に長崎を出港とあり年号の記載はないが前後に慶応2年の「長州征伐(第二次)」の記載があるため同年に描かれたとした。
2.メインマストトップに赤地に白の蛇の目の旗が見えるがこれが大洲藩加藤家の家紋である。
3.大洲藩がポルトガル人から船を購入したのが慶応2年6月。同年9月に大洲藩内の長浜港に着船したあと、一旦長崎に戻り、11月に長浜港に寄港したという記載が「いろは丸終始顛末 豊川渉日記抜抄」にあり、時系列的にも合う。

 慶応3年(1867年)4月23日午後11時頃、濃霧の備讃瀬戸西側、六島沖で紀州の明光丸と衝突・沈没したわけだが談判の席で龍馬が万国公法を持ち出し交渉に当たっていたというが当時の万国公法に現在の「海上衝突予防法」などに類する海上交通の規則が記載されていたのかな・・・。

◎慶応3年(1967年)5月22日 総合的な交渉力に勝った土佐藩が紀州藩から賠償を受け取ることになった。
[証書内容]
■賠償金額        83,526両198文
■いろは丸沈没につき船代 35,630両
■積荷物等代価      47,896両198文

◎慶応3年(1967年)10月19日 龍馬の代理として中島作太郎が長崎で紀州藩の山田伝左衛門と会談し賠償金を13,000両余り減額し70,000両で決着の和解が成立する。

◎11月7日 紀州から土佐藩に賠償金が完済される。

◎11月15日 坂本龍馬、京都近江屋にて暗殺される。

◎12月30日 佐々木三四郎、賠償金のうち15,345両余を海援隊一同に分配する。
      大洲藩へ船価・海援隊貸し金の合計42,500両が返還される。

 賠償の流れを見ていると「いろは丸」の船価や積荷が高いこと、積荷が砂糖や米だったらそんな高額にはならないので、一説によると諸藩に売り捌くための武器弾薬などを積んでいたとかいわれていた。

 賠償金の分配を単純に計算すると土佐藩の取り分が12,155両になりしっかり稼いでいるし、大洲藩も1万両で買い入れた船を傭船に出した先の損失で充分元をとったという感じだなあ。

 沈没場所は特定(北緯34度16分46秒・東経133度28分40秒)されているし水深も20mくらいなので前後2回調査されているが、丁度、瀬戸内海の幹線航路に当たるのと海底にヘドロが2mもあり水中の視界が悪く遺物もたいしたものは上がっていない。大物のスチームエンジンやボイラー、腐食に強いブロンズのプロペラなどもまだ見つかっていない。それに運んでいたかもしれない銃器のかけらもなかったようだ。

 当時の談判史料から現在の「海上衝突予防法」に照らして調べた研究者によるとどうも坂本龍馬の「いろは丸」に歩が悪い判定になっていますね。

【参考資料】:いろは丸事件と鞆・坂本龍馬 講演資料より
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by pac3jp | 2010-11-03 10:47 | 歴史・民俗  

海路図一里の距離は?

 神戸大学海事博物館に所蔵されている江戸時代の海路図のいくつかが電子化されたのに伴いそこに記載されている航海情報から当時の航海術を検証するという市民セミナーを聞く機会があった。

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 上の表は 1826年、紀州藩が海防の必要から作成(写し)したといわれている「自浪速至東都図解」に記載されている海路行程表です。

 ボクは以前から江戸時代の海路図を見ていると航路の方位は12支24方位で、距離は里で表示されているのは知っていたが、この海路図の一里は航海に便利な“海里”にしては数字があわないなあと思っていた。

 一番身近な大阪湾を縦断する大坂川口~紀州加太を見ると13里となっているが現在の海図では28海里になる。但し陸上で使われる1里を約4kmとするとほぼ同じ距離になる。
 表の内、比較的近い湊間はほぼ海図に近い距離が表示されているが、鳥羽~伊豆下田は75里となっているが実際は100海里でかなり長めの距離になっている。
 また「図解」の中には沖乗りの伊豆諸島の利島~三宅島は5里(実は28海里)、三宅島~八丈島は60里(実は62海里)と記入され誤差が大きくなっている。

 正確な海図も速度や距離を計測する計器もなかった頃に陸上の距離や目測、それに長年の経験から判断した距離だが近距離は良く合っているが長距離や伊豆諸島などの離島間では誤差が大きい。

 距離の換算は以下のようになる。

1里=3.927m=2.12海里

 この海路図に表示されている距離と海図の海里を比較すると平均で1.87(海里/里)になり差は 0.25 で経験値にしては精度が良いと説明されていた。(2.12-1.87=0.25)

 昔の廻船船頭さんは殆どが地乗り航海で、海路図などではなく記憶した沿岸の目標をたどるか、あるいは目標を書いたメモで走らせていたのではないかといわれています。また、初めての海域に入る時はその海に詳しいガイドを雇ったといいます。

 1海里とは緯度1分の距離のことなので海図による航法計算がとても簡単になるのですが日本の商船ではいつ頃から“海里”使われ始めたのだろうかと想像してみると、やっぱり航海用にちゃんとした海図があり位置や速度も測れるようになった明治8年、三菱の横浜~上海航路の外航船くらいからでしょうかね。

 江戸時代のきらびやかな海路図は沢山残っていますが、海上で実際に使われることはなく幕府・藩庁などの役所や富豪のお座敷の装飾として存在していたのだろうと思われる。紀州藩のこの図は屏風ではなく折りたたんであるので紀州藩のお役所で実際に使われたのかもしれない。

 つい最近も1821年に幕府に上呈された復元伊能大図を見てきたので「自浪速至東都図解」の紀伊半島部分がコピーかと思って注意深く見たがその海岸線はマンガ的でどうも伊能図のコピーではない様である。


【ご参考に】

里は元々は古代中国の周代における長さの単位であった。1里は1800尺(360歩、6町)四方の面積を表しており、後にこの1辺の長さが距離の単位「里」となった。1尺を30cmとすると1800尺は540mとなる。その後、時代により変動があるが、今日の中国では500mを1里としているので、周代の里に戻ったことになる。

日本では1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。人が歩く速度は地形や道路の状態によって変わるので、様々な長さの里(36町里、40町里、48町里など)が存在することになるが、目的地までの里数だけで所要時間がわかるという利点がある。しかし、やはりこれでは混乱を招くということで、江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町里を標準の里とすると定めた。明治時代に入り、メートル条約加入後の明治24年(1891年)に制定した度量衡法では、1里=36町とし、それ以外の里の使用を禁止した。 (ウイッキペディアより)

1里=36町=2160間=12960尺=2.12海里=3.927m
1町=60間
1間=6尺
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by pac3jp | 2010-10-17 14:49 | 歴史・民俗  

伊能図のコンパスローズ

 コンパスローズといえばチャートのアチコチに印刷されていて真方位と磁針方位の目盛りが打ってあり、装飾性は一切なく機能のみが正確に記入されたチャートの一部分であるという認識である。

 ところが並べられた伊能図では色合い豊かなコンパスローズがたくさん散らばっているのが目につく。ここではコンパスローズが伊能図をつなぐ合いマークとして使われている。

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    (クリックすると少し大きくなります)
 今回は大図の内、特に色彩豊かで精巧に描かれた長州藩・平戸藩に献納され伊能図副本と言われる大図の周りから撮影したが、他の地方のものもある。明治に複製した図にはこのコンパスローズを丁寧に書いていない図もあるという。

c0041039_6525161.jpg 左上の画像がやや荒っぽく描かれたコンパスローズ。半分より下はきちんと写されているが、上にくる地図の写本の完成度がやや低いのだろう色合いや方位文字の記入がない。

 左下画像は古いハンドベアリングコンパスを撮影した。文字が反転しているのは方位をプリズムで読むからです。

 この伊能コンパスローズを見ていると、つい最近まで使われていた磁気コンパスカードの北には「N」が入っておらずに特徴ある絵柄が配置されていた。これはブルボン家の百合(Fleur-de-Lys)というが、これとよく似たデザインが北を示す位置に描かれている。

 16世紀、ヨーロッパの大航海時代のコンパスにはブルボン家の紋章が既に使われているが、鎖国の日本にも200年前、19世紀初めにはこの紋章が「北」のマークとして地図に描かれていることが面白いですね。
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by pac3jp | 2010-09-18 06:57 | 歴史・民俗  

彎窠羅針(わんからしん)と船磁石

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 伊能忠敬は従来からあった導線法という測量法に交会法と天測をあわせて日本全国を測量した。
 曲がった海岸線を測量するとき、直線の連続になるように梵天をたて、杭を打ち、測線を設定し、その距離と曲がり角の方位を測りながら進んででゆく。距離は間縄や鉄鎖それに歩測も、方位は小方位盤(彎窠羅針(わんからしん)または杖先磁石ともいう)で測る。

 銅像の伊能忠敬が右手に持っている杖先磁石を特別講演で先生は「彎窠羅針」とおっしゃていたのでこの呼び名が正式名だろう。彎窠(わんか)という難しい漢字だがどうも「ジンバル付きコンパス」というイメージのように感じている。

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c0041039_5595773.jpg ↑会場にこの「ジンバル付きコンパス」の複製品が展示してあった。(覗尺は収納状態です)
 方位は十二支で表示されているが目盛りは360度切ってある。でも「逆針」(さかばり)である。この時代に精密な目盛りを切り、磁針の軸受けに水晶を使い、尚かつジンバルに乗ったコンパスは伊能忠敬のアイデアだそうだが中々大したものである。

 ちなみに、1560年にイタリア人が船舶用のジンバルを発明しているので彼は書物などそれを知り応用したのかもしれない。


c0041039_61247.jpg 逆針の磁石といえば和船の船磁石(右画像)を思いつくが測量の分野でも使われていたとはボクの新しい発見だった。
 でも、梵天の角度を測るとき覗きスリットを梵天に合わせ磁針の示す角度を読めば方位が分るので簡単で便利である。
 「逆針」は磁針タイプのコンパスを使い続けた日本独特のアイデアで、一番最初は船乗りではなくやっぱり測量家が考え使い始めたという。

 和船では操舵用として磁石の子-午(北-南)の方向が船首尾方向に固定して使用し、逆廻りになっている方位の磁針が指す針路が現在の進行方向になる。勿論、目標の方位を測定する普通の磁石もあったのでこちらは「本針」といったそうだ。

 和磁石の構造は轆轤でひいた木製の円筒を台盤としてその中をくり抜いた中心に鋼の支軸を立てその上に磁針を乗せた簡単なもので方位目盛りは十二支だが、中間点の刻線によって24方位となっている。製作者は「はりや久兵衛」「さかいや仁兵衛」など大坂の業者が大半を占めていた。船磁石に彎窠羅針のジンバルのような揺れにたいして安定した針路を示す機構が取り入れられなかったということは弁才船など殆どが沿岸航海でコンパスがそう重用されなかったからでしょうね。

 一昔前にヨットで使っていた同じような道具、「ハンドベアリングコンパス」は方位を測定する方向に向け、そのコンパスカードを読めばとっても簡単?なのだが、揺れるヨットのデッキでコンパス方位の測定は意外と難しかったですね。
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by pac3jp | 2010-09-14 06:14 | 歴史・民俗  

伊能中図・伊能小図

 体育館のフロア一杯に2万6千分の1サイズの大図が並べられている一角に中図(1:216,000)8枚と小図(1:432,000)3枚が並んで展示されている。これらは大図と違って地図記号のほかに経緯度線と岬、山など遠方の目標からは方位線が引かれより地図らしさがある。

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 画像手前がフランスで発見された伊能中図。右上が伊能小図、この図の半分の大きさのでカナ書きされた特別小図がシーボルト事件で問題になったなど幕末の日本でこれらの図がいろんな騒動や事件に絡んできた。

中図 
 この8枚組の図はペレイ図といい、パリ郊外に住むイブ・ペイレ博士がディジョンの近くの小さな町に持っていた別荘の屋根裏を整理していて1970年頃に発見したもので針穴のある副本だった。描画、色彩、保存も優良で記入内容も充実している。でもなぜこのような優れた伊能中図がフランスに渡ったかは不明。

 筆者(渡辺一郎さん)の推測によれば、幕末、幕府にはフランスの軍事顧問団が雇われていた。徳川幕府の崩壊で幕府艦隊を引きつれ江戸を脱走した榎本武揚と共に函館に渡ったフランス軍人大勢いた。それに榎本武揚の父親は伊能測量隊員だったので当然その地図の存在は知っているはずだし、江戸から東北、北海道と転戦しながら航海するためには正確な地図は是非とも必要なため江戸城から持ち出したのだろう。やがて五稜郭も落城し、フランス軍人も故国に帰えることになるが敗戦で何も上げる物がない武揚は伊能中図を差し上げたのかもしれないと・・・。
 当時函館で戦ったフランス軍人のなかには本国で陸軍大臣や将軍に出世した人もいたという。

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小図 
 この3枚組の図は昌平坂学問所に伝存したものが東京国立博物館で見つかりその針穴がある副本を修復(重文)したものから作成された。

 攘夷だ開国だと騒がしい幕末の1961年(文久元年)、アクティオン号を旗艦とするイギリス海軍の測量艦隊が来日し沿岸測量と測探を行った際、監督の幕府役人が持ち込んだ伊能小図を艦長のワード中佐が見て、その優秀さに驚き、幕府に依頼して同図を譲り受け、沿岸測量を中止して引き揚げた。
 そして、1863年(文久3年)イギリス海軍水路部は伊能小図をもとに「日本政府の地図から編集」と明記して「日本近海の海図No.2347」を大改訂した。このときの伊能小図は英国海軍水路部に現存し、グリニッジの海事博物館に保管されている。

 この話はよく聞いていたのでどんな地図を渡してうるさいイギリス海軍を引き下がらせたのだろうと思っていたがやっと現物(複製)を見て念願がかなったなあ。

 長州が英米仏艦隊と交戦した翌年、1865年(慶応元年)勝海舟が幕府開成所より伊能小図をもとにして初めて「官板実測日本地図」(木版刷り)を発行。

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伊能中図による明石海峡付近(クリックすると大きくなります)

 海岸沿いにお馴染みの地名が並んでいる。伊能隊は大蔵谷と須磨それに淡路・岩屋で天測したの星マークがある。神戸西区の雄子山、雌子山から淡路島・江崎と岩屋に方位線が引かれている。現在の山名とは入れ替わっているが図の東側の少し高い雌岡山(めっこ山)から岩屋港は353度、雄岡山(おっこさん)は359度だ(真方位)。当時の江戸には偏差はなかったし、隠岐でE2度くらいだと聞いいていたので較べてみたいと思っているが和磁石の読み方と図の字が少し崩れているともう苦労する・・・。

 現在の地図ならば明石に東経135度の子午線が通っているが当時の日本は京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準としたのでこの当たりに経緯線は書かれていない。


【参考資料】:伊能忠敬の全国測量 渡辺一郎 編著 伊能忠敬研究会 発行
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by pac3jp | 2010-09-11 18:23 | 歴史・民俗  

完全復元伊能図 全国巡回フロアー展 in 加古川

 もう20年にも前になるが、井上ひさしさんの著書「4千万歩の男」という伊能忠敬を主人公にした小説を読んで以来、是非とも伊能忠敬が歩測で日本全土を測量したという地図を見たいという願望はずっともっていた。地元の博物館で部分的に公開されることはあっても全部となると大変だなと思っていた。(正確に計算するとじつは「5千万歩」だったらしい・・・)

 ところが近年、数多くの伊能図がアメリカで見つかり里帰り展示会を開催するなどのニュースが聞こえてくるようになった。そして先月の8/26~30日まで加古川市の兵庫大学で「完全復元伊能図 全国巡回フロアー展」が開かれ、2日間、ゆっくりと214枚の伊能大図を、そして研究者の特別講演会、映画「子午線の夢」など「伊能忠敬と伊能図」にどっぷりと浸ってきた。

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 大学の体育館に並べられたタタミ一帖分の大きさがある214枚の伊能大図、施設の広さの関係で北海道が別の場所にあるが手前が九州・鹿児島で奥が東北・青森である。西日本地域に並ぶと北海道の広さが実感できる。人が集まっている場所が近畿の瀬戸内地方である。東北や関東地方には細かく見る人は少ない。会場には数人の伊能忠敬研究会のスタッフ、元国土地理院の院長だった星埜先生などが色んな疑問に気さくに答えてくれる。

 伊能忠敬とそのスタッフが長きに亘り測量し、「大日本沿海輿地全図」として大図214枚、中図8枚、小図3枚が作成され、文政4年(1821年)に幕府に提出された。そして公刊されることなく江戸城の奥、紅葉山文庫に秘本として収納された。

 でも、こんな大量の地図が今日まで一括して無事に保管されてきたわけではなかった。

■1973年(明治 6年):52年後に太政官内の地誌課に保管されていた伊能図が皇居炎上により伊能図正本の全てが失われてしまう。(前年より借用していた伊能家副本の献納を受ける。)
■1923年(大正12年):関東大震災により東京帝大図書館に保管されていた伊能図副本の全てが燃失する。

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 ↑フロアに展示された伊能図大図214枚の出展先の一覧がパンフレット表示されている。

●アメリカ議会図書館:145枚 明治の陸軍が模写したもので戦後、米国に渡ったが経緯は不明。
●日本国会図書館  :43枚
●国立民俗博物館  :5枚
●海上保安庁海洋情報部:13枚 明治の海軍が海図作成のため模写したもの。 
●山口県文書館毛利文庫:6枚 伊能隊より長州藩に提供された。
●松浦史料博物館   :2枚 伊能隊より平戸藩に提供された。 

 長らく行方不明だった伊能図の67%がアメリカにあったのだ。その図を最初に日本の研究者が発見した時は割りと粗末に扱われていたが、歴史的価値などその値打ちが分った後はアメリカ議会図書館でも2番目の貴重な史料として大事に保管されているという。

 地図が作られた時代に長州藩と平戸藩に提供された伊能大図は後世に模写されたものより彩色などが美しく、合いマークのコンパスローズなどの意匠も優れている。伊能隊が原図から複写する時、測点をピンで突いて位置を正確に写すため「針突法」が使われたのでこれらには針穴が見えた。

 明治に地図の専門家が模写した図は絵から今のような地図記号に置き換えられているものもあるというが、ボクはその確認を忘れてしまったなぁ。

 一番関心があったのは子供の頃遊んだ神社の海岸からの参道が、今は海になっているが「昔はもっと南あった」という祖母の言葉を確認したかったのだが、200年前もそう変わってないように見えるので3万6千分の一の縮尺では判断できないのかもしれない。


【参考資料】:伊能忠敬の全国測量  渡辺一郎 編著
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by pac3jp | 2010-09-09 07:20 | 歴史・民俗  

マジャパヒト号の建造法は

 インドネシアの古代船を復元する際には伝統的な技法を用いて建造したと言われているがどんな方法だったの?と聞かれたが説明できるほど詳しくないので日本マジャパヒト協会のホームページ内に建造中の画像があり、熱帯硬木の厚板の曲げ加工や側板の接続方法が分りそうな画像などお借りしましたのでご覧下さい。

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 画像の説明には 「船底部の曲げ具合を加熱して調整しているところです。ロタン、熱帯硬木等を用いた材料を加工しています。」
 ロタンは藤のことだが船体材料のうち、一体どこに使っているのだろう。考えられるのは部材を縫合する材料だろうけど・・・。

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 「船底板とキールの接続です。金属は一切使っていません。」
 ホゾを打ち込み接続しているようです。小さい和船では船釘を用いずチキリとタタラによってつなぐ手法もあった。

 その他の詳しい画像はこちらから。

 
 どこの世界でも木造船の建造は似たような手法で造られるが、造船場付近で手に入る材料によってそれぞれ違った工法があるということでしょうね。

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by pac3jp | 2010-07-19 15:51 | 歴史・民俗