カテゴリ:歴史・民俗( 38 )

 

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」

先日、神戸・元町の海岸通りに全日海が運営する「戦没した船と海員の資料館」の見学に行った。

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日本は昭和16年12月8日から米・英・蘭・中など連合国を相手に太平洋戦争を始め、敗戦までの3年9か月に及ぶ長期間、日本近海を始め太平洋や遠くインド洋でも戦いました。陸海軍艦船は勿論ですが、民間の商船も多数徴傭され戦争遂行のために働き、多くの船舶が潜水艦や航空機の攻撃で失われてしまいました。その数、凡そ2800隻、乗員は60,608人が命を失いました。そして、資料館はこれら船舶の在りし日の写真が年度別に分類され展示されている。

パネルには一般の汽船が殆どだが中にはアメリカ海軍の軍艦が獲物にするには小さすぎるだろうと思われる遠洋漁船の写真も入っている。

展示物は写真パネルばかりでなくモデルシップもある。ケースの中に空母らしきモデルがある。

以前の記事「旧陸軍が運航する船艇」にも書いたが陸軍が上陸作戦専用に1934年(昭和3年)建造した「神州丸」の発展型で飛行甲板を持つ揚陸艦「あきつ丸」だ。戦没した商船だけが展示されているので何故と思ったが、解説文に日本海運所属 陸軍特殊貨物船とある。
(陸軍は戦時の際に徴用することを前提として海運会社に補助金を出し、上陸舟艇母船を民間籍の商船として建造させている)

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【仕  様】

総トン  :9,433t
全 長  :152m
水線長  :143.8m
全 幅  :19.5m
吃 水  :7.86m
飛行甲板:全長123m
全 幅 :22.5m
機 関  :重油専焼水管缶4基+ギヤード・タービン2基2軸
最大出力:13,000hp
最大速力:21.0kt
乗 員  :
兵 装  :八八式 7.5cm単装高射砲2基(1943年:4基)・三八式 7.5cm野砲10基
      九八式 20mm 単装高射機関砲8基・九六式 25mm単装高射機関砲2基
搭載機  :九七式戦闘機13機・三式指揮連絡機8機・ (輸送任務時には一式戦闘機「隼」等20~30機弱を搭載可能)上陸用舟艇:大発動艇27隻


旧陸軍が上陸作戦用の大型の揚陸艦を開発・保有しようとした背景には、当時の海軍には戦艦・巡洋艦・空母など前方装備の拡充に総力を注ぎ、輸送や船団護衛・上陸支援など地味な艦種の開発をしなかったので必然的に陸軍が受け持つことになったという。
あきつ丸の運用分担は本船の操船は民間の船員が担当し、兵器となる大発動艇や対空火砲は陸軍船舶兵が受け持ち、搭載航空機は陸軍飛行隊が運用したのだろう。

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艤装形態が平時・戦時舟艇満載・飛行甲板装備状態と変更できるようになっていたが、竣工は1942年(昭和17)の戦時中なので飛行甲板が設置されていた。

太平洋戦争開戦直後に竣工した「あきつ丸」は早々に蘭印作戦の第16軍ジャワ島上陸戦にて、第2師団のメラク海岸揚陸の任に当たりこれを成功させた。以降「あきつ丸」は南方各地への輸送任務に就いたが、太平洋戦争後期には陸軍版護衛空母の候補となり、1944年(昭和19)飛行甲板の拡幅・甲板後部デリックの撤去・独自開発の着艦制動装置設置等の改装が行われている。

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あきつ丸の飛行甲板に駐機する三式指揮連絡機2機(画像は上下ともウイッキペディアより)

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三式指揮連絡機(対潜爆雷2個、着艦フック装備)は対潜哨戒能力や離陸距離 49~68m、着陸距離 45~61m(向かい風4m) など123mの飛行甲板でも短距離離着陸性能が良好で低速巡航が可能(Max280㏋で最高速力178km!)なので「あきつ丸」の対潜哨戒用の艦載機に選ばれた。

足が遅いので操縦者はグライダー操縦経験のある特別操縦見習士官第1期出身者にて構成される独立飛行第1中隊が編成され、日本近海で対潜哨戒任務に就くことになった。

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輸送船団の中で航行中の「あきつ丸」の雄姿だが ↑ まだ船尾のマストとデリックがあるので改装前の姿だ。
護衛空母に改装された頃の「あきつ丸」の航空写真 ↓ 

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【あきつ丸の最後】

1944年(昭和19)11月14日0600
ヒ81船団(僚船9隻、護衛7隻)として部隊要員約2500名を乗せ、伊万里湾発マニラに向け東シナ海を航行中、15日1150頃、N33度05分、E128度38分(五島列島福江・長崎鼻北40㎞付近)において米潜水艦SS-393 QUEENFISHから発射された魚雷を左舷船尾に受け、搭載していた弾薬、爆雷が誘爆し船尾が沈下、その後火災が発生し3分後に横転裏返しとなり沈没した。沈没により部隊要員2093名、船砲隊140名、船員67名が戦死。
部隊要員の中には教育総監関係学校卒業者227名が含まれる。 ↓ 図の赤丸は沈没場所

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米潜水艦SS-393 QUEENFISH ↑

この潜水艦は「あきつ丸」を撃沈した4か月半後の1945年4月1日に、米国も航海の安全を保証し安導券を付与した赤十字の救恤(きゅうじゅつ)運搬船阿波丸を魚雷攻撃し、2000人を越す犠牲者を出した「阿波丸撃沈事件」を起こす。
艦長は「不注意」だったと認めて戦後米国から補償がなされた。


※救恤とは:困っている人を救いめぐむことです。そして、救恤船は敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船を指します。船体の表示標識は緑地に白十字です。


下記は戦争が終わった時政府が発表した船舶被害の総数です。

官・民一般汽船  3,575隻
機 帆 船     2,070隻
漁    船     1,595隻
合    計     7,240隻


参考web:1.あきつ丸 ウイッキペディア

     :2.戦没した船と海員の資料館


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by pac3jp | 2014-04-29 17:07 | 歴史・民俗  

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊

天平年間(729~749年)に、僧・行基が一日の行程を測って西から檉生(むろう)、韓、魚住、大輪田、河尻の5つの泊を設けたと伝えられている。その古代の摂播・五泊で魚住泊の西側にあたる韓泊に比定されている姫路市的形町福泊漁港と的形港を訪ねた。
かって、この港の沖から頼山陽が命名したという景勝地「小赤壁」を眺めながら八家川河口の木場YHにはレースやクルージングなどで時々は寄港していたが、西隣の福泊漁港には入ったことはなかった。

平日のお昼頃、静かな港である。的形漁協の前に底引き漁船が4隻と小型漁船が数隻泊まっている。あとはプレジャーボートだろう。フィッシングセンターの駐車場があるので乗合の釣り船は沖に出ているのだろうか。

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古代の韓泊の史料は少ないようだ。「三善清行意見封事十二箇条」に出ている以外は未だない様だ。今後の発掘調査などの結果を待つしかないのかな。

【韓泊】角川日本地名大辞典より

奈良期から見える泊名 播磨国印南【いなみ】郡のうち奈良期に僧行基が摂播(摂津・播磨)五泊の1つに定め、遣唐使なども停泊した。当地には、古くから泊(港)があったと思われる。
延喜14年(914)4月28日の三善清行意見封事十二箇条に「自檉生泊至韓泊一日行、自韓泊至魚住泊一日行」と見える(本朝文粋/群書27)
正応2年9月29日の伏見天皇宣旨案にも韓が見えるが、行基が定めた五泊の1つとして見えるものである(東大寺文書/大日古5)
鎌倉期以降は福泊と見える現在の姫路市的形町福泊付近に比定される。

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福泊港から西方の小赤壁を望む。
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燈籠地山
沖から見ていると「小赤壁」がある低い岩山は西から木庭山・姫御前山・燈籠地山と並んでいる。木庭山には木庭神杜が鎮座し、姫御前山は、神功皇后が陣を張ったという伝説があり、旧の印南、飾磨郡の郡境に位置する燈籠地山は鎌倉時代、その山頂に安東蓮聖が泊の目印に灯火をともしたことから名付けられたという。
最盛期の頃この泊は昼間の入港の目印は大岩があり、夜は燈籠地山の頂上に明かりがつき、しっかり港の機能を備えていた。福泊神社の前の街道には回漕問屋の倉や屋敷が並び人々が行き交い賑わっていたのだろう。

鎌倉時代の1292年(正応5)ころ,律宗の僧行円房顕尊が〈福泊島勧進〉上人となって,この泊に風浪を防ぐ島の修築事業を進め、往来の船から〈築料〉として艘別200~300文の津料(入港料)を徴集していた。顕尊が1300年(正安2)に入滅した後、その檀那(後援者)であった北条家得宗の要人だった安東蓮聖が事業を引き継ぎ、「大石を積み上げ、数百貫の私財を尽して、二町余(約200m)沖に人工島を築造して、1302年(乾元1)に築港を完成」以後兵庫津に劣らず繁栄したという。 【峯相記】より

一方、安東蓮聖の経歴から見ると律宗の僧は「円房叡尊」と親交を結ぶと出てくる。「叡尊」は慈善活動の為とはいえ権力と癒着し木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、などの記述もみるので峯相記の書き間違いかも知れない。

【参考】安東蓮聖 【あんどう・れんしょう】

生年: 延応1 (1239)
没年: 元徳1 (1329)
鎌倉後期の武士。得宗被官,摂津守護代。弘長2(1262)年,北条時頼の使者として西大寺叡尊のもとに赴く。以後叡尊との親交を結ぶ。文永年間(1264~75),山僧と結託して京都で借上を営み,蓄財に成功。文永10年多田院造営の惣奉行を務め,建治3(1277)年久米田寺の別当職を買得し,律宗寺院として再建,弘安5(1282)年には,叡尊を請じて堂供養を催した。乾元1(1302)年,数百貫の私財を投じて福泊を修築するなど得宗権力を支えるために,流通路支配の最前線で活躍した。 朝日日本歴史人物事典より

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【福泊神社】

福泊神社の御祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の四柱で、主神は神功皇后です。福泊にも神功皇后の伝説があり、皇后が西征の際に当地で御陣を止められ、御腰をかけられたと伝えられています。御陣を止められたところを御陣山(燈籠地山)、御腰をかけられた岩は御前岩と名付けられ、この近海を御前の浜と呼ぶようになりました。また皇后は応神天皇を御懐妊されており、当地で御腹帯を召されたことから、この里の名を腹帯里と書いて「ふくとまりの里」と呼ぶようになり、神社を創建し「大帯祠(おほおびのやしろ)」と称したとあります。後に地名は福泊と書くようになり、社名は「福泊大帯社」或いは「弁財天社」といわれるようになり、現在では福泊神社と称しています。「弁財天社」は市杵島姫命を祀っていることに由来します。福泊屋台の狭間彫刻「神功皇后」は、御前岩から皇后が瀬戸内海を見渡し、御座船を迎える場面を彫刻したといわれています。
本殿の建立は明確ではありませんが、建築様式から室町時代中期の建立といわれ、一間社春日造りで現在では当時の様式が残る社殿が殆どなく、大変貴重な建築であることから、平成13年8月23日に姫路市重要文化財に指定されました。拝殿は江戸時代に再建されたといわれ、幾度かの修復を重ね現在に受け継がれています。
的形・湊神社HPより

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大正7年に撮影された福泊神社。境内に松の大木があり、拝殿は現存しているが、屋台の倉は未だない。周りの田畑も今はもうないように見えたが・・・。多分、良寛さんはこの写真とそう変わらない風景のなかで泊まったんでしょうね。

この神社に江戸時代の禅僧良寛が帰郷の途中に境内で野宿し歌を残している。

つぎのひはからつてふところにいたりぬ
     こよひもやどのなければ
おもひきや みちのしばくさ うちしきて
 こよひもおなじ かりねせむとは


(漢字仮名まじり文では)
次の日は韓津てふ所に至りぬ
今宵の宿の無ければ
思ひきや道の芝草うち敷きて今宵も同じ仮寝せむとは 

良寛が帰郷の為に倉敷市玉島の円通寺を旅立つのは、寛政八年(1796年)正月、三十九歳の時のようです。あの有名な良寛さんがまだ若い39歳の冬、ここで一夜を過ごしたことがあるとは驚いた。大昔ではなく19世紀の少し前だった。当時でも福泊は韓津とも呼ばれていた様だ。

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同じく韓泊の比定地とされる住吉神社がある的形町的形はボクが知っている?昔から奥村ボートさんがあり40年の歴史を持つ的形YCのヨット泊地として有名だったので海からも陸からも訪れたことはある。今もこの河口は沢山のヨットが繋がれいいヨットハーバーになっている。

参考文書:はりま伝説 夢物語 「燈龍山の火と福泊」 神戸新聞社
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by pac3jp | 2014-03-30 11:57 | 歴史・民俗  

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)

大阪湾や播磨灘で小舟に乗って長い間楽しんできたが明石エリアの漁港には浅い、狭い、混雑しているなどで明石港以外はあまり入った事がなかった。しかし、長い歴史をもった港もある。

室町時代に東大寺が兵庫津で関銭を徴収した記録「兵庫北関入船納帖」に、明石市内の港は中庄・船上・林・松江・営嶋・伊保角・二見などが記録されている。営嶋は古代に「魚住泊」と呼ばれた赤根川河口の江井島のことだろう。

魚住泊の推定地である江井島港に「泊」と刻まれた大きなモニュメントが立っている。

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往きめぐり 見とも飽めや 名寸隅(なきすみ)の 船瀬の浜に しきる白波     笠金村

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【 摂播五泊 】とは? 天平年間(729~749)に、僧・行基が一日の行程を測って西から檉生(むろう)、韓、魚住、大輪田、河尻の5つの泊を設けたと伝えられています。

檉生泊   - たつの市御津町
韓泊(福泊)- 姫路市的形町
魚住泊   - 明石市大久保町
大輪田泊  - 神戸市兵庫区
河尻泊   - 尼崎市神崎町

その距離は檉生と韓泊間が22km、韓泊と魚住泊間が21km、魚住泊と大輪田泊間が30km、大輪田泊と河尻泊間が22kmとなっており、魚住泊と大輪田泊との間が他より長くなっています。
これは、その間には潮の流れが速い幅約4kmの明石海峡が存在することによるものと考えられています。
この明石海峡は1曰2回,潮流の向きが変化します。そこで、東行する船は東流時を選び,西行する船は西流時を選ぶため、それぞれの港が潮待ちのための重要な港であったことがわかります。

魚住泊の位置については明石市魚住町の瀬戸川河口説と同じく大久保町の赤根川河口説とがあり、いまだ確定はしていません。ただ、大久保町江井島の赤根川河口には延命寺・長楽寺・定善寺など行基開基の伝承をもつ寺院が存在していることなどから、赤根川河口に求める説が有力です。

この港は、832 (天長9)年に清原夏野が修築を建言し、さらに、867 (貞親9)年には元興寺僧賢和が改修を願い出ています。そして、914 年には三善清行が「意見封事十二箇条」の中で、魚住泊の修復を請願しています。その中で,「…此の泊天平年中建する所なり。其後延暦の末に至る五十余年,人其の便を得る。弘仁の代,風浪侵齧し、石頽れ沙漂う」とあり、海岸浸食により荒廃していた様子がよみとれます。

その後は管理されず放置されたために、航行する船の多くが沈み、人命まで損失ことがあったようです。そこで、1196 (建久7)年、大輪田泊とともにこの魚住泊の石椋(いしぐら)工事の奏上を太政官に提出し、その願いは聞きとげられました。当時、重源は東大寺の再建のあたり、大勧進になっており西国からの建築資材を連ぶには、西国からの建設資材を運ぶには明石海峡を安全に通過させる必要があったために海峡をはさんだ両港のの整備を図ったものと考えられています。

重源の修築以降、建保年間(1213~1219年)重聖上人による修築が行われ、1289 (正応2)年に性海上人の奏上によって修築が行われた記録が残されています。この正応2年の修築以来、改修の記録は1888(明治21)年まで途絶えています。

戦国時代には織田信長の三木城攻めに際し、安芸の毛利氏から籠城中の別所氏に届ける兵糧がこの港で陸揚げされ、近くの魚住城に運び込まれ織田勢の動向を見ながら三木城に送られたのだろう。

画像は現在の江井島港ですが、航空写真が古く今は岸壁には漁船が一杯で外来船が着ける場所はないように見えます。赤丸が石椋が出た場所です。

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1986年の赤根川浚渫工事で引き揚げられた多くの加工されまだ皮まで付いた松の丸太。当時この木を見た材木商は日向松だと言ったそうです。

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これらのことから引き揚げられた木は、井桁状に組み合わせ、その上に河原石を置いて沈め、波堤の基礎としたものであると推定されます。この木組みは東方向へ延びていたものと考えられ、赤根川河口から東へ250 mの位置にある江井島漁業協同組合事務所の南の護岸工事の際にも発見されています。下の画像は井桁の模型とその下は海底に埋まっていた松材と石です。

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江戸時代の地誌『播州名所巡覧図絵』に江井島は「旧は嶋にて、釋の行基の築く所なり。故に嶋といふ。地中、今も石木など残れり。」とあります。このことから江戸時代において、すでに、港に基礎となる石や材の存在が認識されていたことと、この港の築造が行基にさかのぼることが伝承とし残されてていたことがわかります。

江井島水利組合には,江戸時代の天明年間(1781~I788)に描かれた絵図が残されています。こには、赤根川の川筋は蛇行しつつ河口へ至り、河口付近で大きく東へその流路を変えて表現されています。この河道の南が東西方向に延びる突堤状の島になっていることから、人工的に設けらた船入りのための港であったと推測することができます。また、この絵図には、島の突端部に石積状の堤防が描かれ、「波門」の表記が認められます。地元ではこれを「しようにんさんのはと」とよんでおり、潮が引くと築堤に使ったとされる石が多数見つかり、その中でも大きな石を「馬石」とよんでいたといいます。

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絵図と伝承を合わせて1957年、まだ港が拡張されてない頃の地図にボクが「魚住泊」の場所を書き込んでみたら、赤根川は東に流れ、島になっている部分の赤根川河口の石椋出土場所から漁協前の松材出土の間にオレンジラインの波堤があった。今でも漁協の北側に昔は水路だったと思うような船溜まりもあるし・・・。

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石椋の松材が発見されてから28年も経つのに何故今までC14年代測定法で確認しなかったのかとずっと不思議に思っていたが、当時学習院大学に依頼したC14年代測定法では<1380+-110 A.D.570>6~7世紀と報告されているので文献の10世紀には合致しなかったのだ。

今回の「明石の古代展」に合わせて?最新の測定機材で再鑑定されたのだろう。
1986 (昭和61)年に赤根川河口から引き揚げられた木は、2013 (平成25)年に炭素14の年代測定を工藤雄一郎さん(国立歴史民俗博物館)がおこなって研究した結果、10世紀初頭の年代が与えられ、文献に見る魚住泊に関する材であったことが確かめられました。

地元の神戸新聞に2013/11/9付けで「明石・魚住泊 赤根川河口付近 位置ほぼ特定」と報道されていた。
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参考図書:「明石の古代」発掘された明石の歴史展 図録
  同 :古代の「海の道」石野博信編
  同 :中尾のすがた むかし・いま 黒田義隆
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by pac3jp | 2014-03-16 13:54 | 歴史・民俗  

江戸の屋形船

江戸の町が明暦(1657年)の大火から復興して、景気も良くなってくる17世紀後半頃には裕福な町人たちが経済力をつけ豪華な屋形船を競って造り川遊びをするようになってきた。それは長さが70~80尺で十間もある大型屋形船もあったという。

しかし将軍が綱吉にかわり寸法規制がかかる。上口長さ27尺(8.2m)・幅4.6尺(1.4m)・屋根高さ5尺(1.5m)と定められてしまった。このサイズではたった二間しか取れず、三畳と二畳の合わせて五畳敷しかとれない貧弱な屋形船になってしまう。

ところが規制は緩むもので、18世紀初頭に作られた関東河川での川船に関する文書で川船奉行所が徴税対象の各種川船の船型確認の手引書として使っていた「船鑑(ふなかがみ)」に掲載されている屋形船(下の図)の絵には右上に「上口凡(およそ)二丈七八尺ヨリ五丈位、ヨコ八九尺ヨリ一丈四尺位 但先年ハ長七八丈、横一丈五六尺迄有之、当時ハ無之」と情報が記載されている。

当時の川船は一般的には上口長27尺~50尺(全長32f~60f)だが長さ78尺、幅15~16尺(全長90f)の大型の屋形船もあったとある。 
(クリックすれば画像は大きくなります)
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図の船体の上口長さを四十尺(全長では48f位)として屋形寸法は長さ二十四尺、最大幅十二尺程度、座敷の広さは表から順に六畳、四畳、六畳の十六畳敷きとみられる。

時代は下り、豪華な遊山船の屋形船は少なくなり、代わりに手軽な屋根船が増えてきた。19世紀初めには江戸に500艘もあったという。

江戸っ子の川遊びは5月の両国の川開きから始まるのだろう。当日は日没から花火が打ち上げられ両国橋は人で一杯になり川面には大型の屋形船や中型の屋根船、小さい猪牙船まで数多く集まり、船上の大宴会組も橋上の大観衆も花火に熱中する。
花火見物船は乗合、貸切もあったのでしょうが、こんなに大イベントに予約を取るのは当時でもきっと大変だったと想像します。でも自家用船ならば予約はいらず好きな場所でゆっくりと見物できるので費用は掛かってもお金がある人には気分がいいものでしょうね。

(クリックすれば画像は大きくなります)
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東都両国ばし夏景色 橋本貞秀 (19世紀中頃)
橋の川上、川下に10隻ほど停泊している唐破風などの屋根を持つ、大きな船が「屋形船」です。

最近、「黄金期の浮世絵 歌麿とその時代」という展覧会を見てきた。その描かれた時代は18世紀後半から19世紀初頭の頃だった。浮世絵の江戸美人も結構でしたが、ボクは背景に描かれた川船に興味があった!

(クリックすれば画像は大きくなります)
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喜多川歌麿 両国橋 船あそびの女たち(18世紀末)
女性が乗っているのは屋根に唐破風がないので屋形船ではなく屋根船。画像右端の橋脚の向うに屋形船「河一丸」が見える。ちょっと気になるのは橋脚と橋桁の結合部のカスガイだ。こんなに頼りない方法で留めていたのかな?

(クリックすれば画像は大きくなります)
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闇牛斎 円志 隅田川料亭図 (18世紀末)

川の左に屋根から竿をさす船頭がいる屋形船「川一丸」と右の櫓を押す屋根船が描かれている。

※上口長さとは、水押際から戸立までの長さ。又は舳船梁から艫船梁までの長さ。


参考資料:和船Ⅱ 石井謙治著
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by pac3jp | 2014-02-14 16:40 | 歴史・民俗  

姫路のお殿様の豪華ヨット?(1)

 神戸市中央区の相楽園で江戸時代に姫路藩主が河川での遊覧に使った川御座船の屋形部分を陸上で保存していて通常は紫外線劣化を防ぐ日よけを付けているが春と秋の年に二回だけ外観のみの一般公開している。

 世界遺産の姫路城を築城したのは播磨国五十二万石を領した池田輝政だが、新築の巨大な城郭は完成したがしばらくして鳥取に転封を命じられ、二代目姫路城主は本多忠正で領国は姫路十五万石のみと大幅に領地は減っているが大きなお城の主になった。しかし、十五万石で五十万石のお城を維持するには難しいのか?その後も目まぐるしく城主は変わり、奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家(天和2年~宝永元年 1682年~1704年)となり、錺金具の家紋などからこの元禄年間に姫路藩の川御座船が建造されたと推測される。

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日本庭園にある池の西側に左舷側を見せた船屋形が華麗な姿を見せている。

構造・形式
木造1重2階、切妻造段違、桧皮葺  桁行五間、梁問一間
1階:21.87㎡  2階:21.87㎡
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右舷側を後方からみると生垣より下の部分が陸上に上がった時にかさ上げされた部分。

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艫側から二階を望む。開いた舞良戸(まらいと)の横桟の間には金箔が押してある。天井まで木肌の見える春慶塗りと重厚な黒漆が塗り分けられて、長押や垂木の先端には金箔を押した錺金具が打たれている。正面上には本多氏の後に入った榊原家の金箔の家紋があるが裏面には本多家の紋が残っているという。

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船屋形は船に載っているものなので展示資料に船体の側面図があった。大きさは木割書「川御座船仕法書」によって寸法を当てはめてみると梁間内法は8尺なので肩幅16尺となり全長は約90尺(27m)と言うことになる。当時の川御座船は幕府所有の朝鮮通信使など国賓接待用の紀伊国丸が全長98尺(29.7m)肩幅20尺が最大なのでそれらにつぐ大きな船だったという。

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琉球使節を載せて淀川を遡上する川御座船船団、前方が宇和島藩、後が長州藩の川御座船。

このように姫路藩の川御座船も大坂を拠点に運用されいたのだろうか。船が建造されたとされる元禄年間から幕末までに朝鮮通信使は5回来ているし、琉球使節は13回も使節を江戸に送っている。その間お接待する藩はその都度指名されて務めるのでしょうが、きっとこの船も何回かは使節のお供などを乗せて淀川を上下したのかもしれない。

参考資料1:図説 和船史話  石井謙治著
      2:和船Ⅱ        石井謙治著
      3:詳説 日本史図録 山川出版社
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by pac3jp | 2014-02-03 15:37 | 歴史・民俗  

姫路のお殿様の豪華ヨット?(2)

 
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封建体制の中で180年余も姫路藩主の御座船として働いてきたが、明治維新の廃藩置県で姫路藩はなくなってしまった。明治初年には姫路藩のお船手組があった飾磨港付近に置かれていたようだが、まず高砂の川本氏の邸内に移築され、船框から下を継ぎ足して茶室として使われていました。この時の残存部分は「おもて(船首側)」からの二室分のみで、屋根を桟瓦で葺いているなど、船屋形としての影はほとんどとどめていない状態でした。

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その後、昭和16年に神戸市垂水区舞子の牛尾邸の敷地内に再び移築されました。この移築の際には、失われた「次の間」を付加して現在の上下三室構成とし、間仕切りを復旧し、屋根を桧皮葺に改めるなど、各所にわたり復原をおこない、もとの船屋形の形態に近づける努力が払われました。

三度目の移築は昭和55年のことで、昭和53年に前所有者の牛尾吉朗氏より神戸市が寄贈を受け、現在の相楽園内に修理・移築されました。

現存する船屋形としては熊本の細川家が参勤交代に使っていた海御座船の船屋形の一部が残っているのと、香川県宇多津町の西光寺境内に多度津城主の御座船の一部が船屋形茶室として1棟が残っている。

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細川家 波奈之丸舟屋形
ベースの船体は喫水のある軍船である関船を豪華に飾り立てた海御座船だ。もちろん河川や浅い海域では運用できない。今は熊本城小天守閣1階に展示されているのは御座船「波奈之丸」の御座所部分です。。
詳しくはここをクリック。

海の大名行列
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「帰国する藩主を乗せて豊後鶴崎に入る熊本藩の船団」という大絵馬(1798年)があります。
左手の大きな船が大櫓46挺立ての海御座船波奈之丸です。万延元年(1860年)の帰国の際には波奈之丸以下123艘が船団を組み、船頭、水主、水夫総勢2563人が藩主一行1186人を運んでいます。
画像をクリックすると大きくなります。

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西光寺船屋形茶室 (香川県宇多津町)

江戸時代末期に建造した旧多度津藩藩主の御座船と伝えられる船屋形です。
由来については定かでないが元治元年(1864)に船下しした六二艘立の「順風丸」とする説や三十五反帆を誇った海御座船「日吉丸」とみる説などがあってその伝承も一定していない。
詳しくはここをクリック。

ボクは最初、姫路のお殿様が河川で遊覧した豪華ヨットかなと思っていたが、姫路付近で90フィートもある大型船を乗り回せる川はないので河口か瀬戸内沿岸で使われていたのかもしれないが、常時は大坂で船蔵で保管され15万石の格式を見せるために参勤交代用にのみ使われたのかもしれないなぁ。当時の弁才船の寿命は20年~長くて30年位だ。それに比べて180年も持ったということは殆ど使われなかったか、維持管理に十分にお金を掛けられたかだが、多分、前者だったのでしょうね。

姫路の歴代城主に派手で遊び好きなお殿様はいなかったのかと探してみるとこんな記事をウィッキで見つけた。

1704年に再入封した榊原家は本多忠勝と並ぶ徳川四天王の榊原康政を祖とする譜代の名門で、3代30年以上にわたって姫路藩15万石を領したが、寛保元年(1741年)第8代当主政岑は将軍・徳川吉宗が出した倹約令を無視して贅を尽くし、奇抜な服装で江戸城大手門を警備し、吉原で派手に遊興にふけった。寛保元年春には新吉原の三浦屋の名妓・高尾太夫を1800両(2500両とも)で身請けするなど、奢侈を好んだ。さらに高尾のために豪勢な酒宴を開き、その費用は3000両を超えたといわれている。これは尾張藩主徳川宗春の乱行同様、享保の改革に対する抵抗と見なされ、吉宗の怒りを買い、藩主隠居の上榊原氏は豊かな西国の姫路から内高が少なく実収の乏しい北国の越後高田15万石に懲罰的転封されてしまった。

・・・と出てきた。将軍おひざ元の江戸で吉原遊郭の花魁を身請けするというほど筋金入りの遊び人なら江戸でも地元に帰った時にも榊原家の紋の入った専用ヨットで存分に川遊びを楽しんだ事は十分考えられるなぁ。


参考資料:日本の船 和船編 足立裕之著
      
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by pac3jp | 2014-02-02 16:23 | 歴史・民俗  

兵庫県加西市の鶉野(うずらの)飛行場跡を訪ねる

 兵庫県の東播磨地域に旧日本軍の飛行場があったことは前から知っていたが正確な場所となるとちょっと自信がなかったが・・・。
 毎年8月の終戦記念日が近づくと新聞は大東亜戦争時代の話題が掲載される。今年は旧姫路海軍航空隊基地があった加西市の鶉野飛行場跡の防空壕など戦争遺跡が見学可能になったと報道された。
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 初めてこの鶉野飛行場跡地にやって来て驚いた。66年前の姫路海軍航空隊基地の建物跡は当然全くないが、当初からある60m×1200mの滑走路はちゃんと残っていた。北東端のほうで道路が横切り1200mの全長は使えないが、今でも軽飛行機位の離着陸は充分出来そうだ。
 その古びたアスファルトの滑走路を地元の車がのんびりと走っているし、おっちゃんが自転車で横切っているが、今でもれっきとした陸上自衛隊の演習場だと表示されている。残りの用地は神戸大学農学部の農場と一般の農家に分譲され周辺は立派な農地になっている。(滑走路の画像はガイドブックより)

 ここには戦前、西宮・鳴尾浜で水上機や飛行艇を生産していた川西航空機が戦争末期に局地戦闘機「紫電」と「紫電改」の大増産で甲南製作所、宝塚製作所そして姫路と工場を次々と開設していた。
 姫路製作所は1942年(S.17)に姫路・京口に開設された。完成した機体を分解して遠くまで馬車や牛車などで飛行場まで運ばなくてはならないので1943年(S.18)、姫路海軍航空隊基地が開設された鶉野飛行場隣地に鶉野組立て工場を開設した。そして、終戦までの3年で「紫電」466機、「紫電改」44機が製造された。

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 「紫電」は水上戦闘機「強風」のフロートを取り外してエンジンを中島の軽量・強力な「誉」に換え陸上戦闘機に改造されたが翼は水上機の中翼のまま。一方「紫電改」は低翼になり機首や胴体断面の形状が変わり胴体が40cm延長された。故障が多かった長い脚柱も短くなり「紫電」の課題は一挙に解決した。

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 飛行場の各種施設のうち堅固な構造物だった防空壕や機銃座が数多く残っている。そのうち見学できるのは民家の敷地内にある半地下構造の防空壕で空襲時には地下指揮所に使われていたという施設だが、長い間水没していたのを地域の皆さんの協力で排水・整備し、戦争遺跡として公開されている。

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 入り口の看板には「姫路航空隊 飛行科 地下指揮所・需品庫」と書かれている。もう一方の出入り口は竹材で加工された戸があり和風庭園の一部になっている(右画像)。

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 防空壕は分厚いコンクリート造りで2部屋あり東部屋は3.7m×4.7m、西部屋は3.7m×3.1mで天井はドーム状で高さは約3m、地上からの通路は10mで爆風を防ぐため曲がり角が3箇所ある。

 壕内には当時の飛行機の写真や飛行場の史料と、学徒出陣が始まりここで編成された神風特別攻撃隊「白鷺隊」の史料などが展示されている。出身を見ていると、早稲田、明治、東京音楽学校など遠くで学んでいた学生たちがここから訓練用の九七式艦攻で南の海へ出撃していったことがわかる。

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【関連記事】:US-2型救難飛行艇 

【参考資料】:加西・鶉野飛行場跡 加西市教育委員会 (ガイドブック)
【参考Web】:ガイドブック Web版 
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by pac3jp | 2011-08-22 06:24 | 歴史・民俗  

伝説の「黒ひげ」の海賊船から錨を回収する!

 5月にはジャック・スパロウの「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉」が封切りされて「黒ひげ」も出るので是非とも見てこようと思っていたが、見逃してしまい、残念ながら今度はWOWOWで見るしかないなぁと、あきらめていたが、先日、カリブ海最強の海賊だった「黒ひげ」の旗艦「クイーン・アンズ・リベンジ号」(アン女王の復讐号)の錨が引き揚げられたと報道されていたのでちょっと黒ひげを調べてみた。

 伝説の海賊「黒ひげ」船のいかりを回収 米調査隊  2011.05.28(CNN)

c0041039_7541084.jpg ノースカロライナ州沖の海底を探索している同州の調査隊は27日、18世紀に活躍した伝説の海賊「黒ひげ」の旗艦のいかりを回収した。このいかりは黒ひげの旗艦「クイーン・アンズ・リベンジ号」の3つのいかりの1つで、重さは3000ポンド(約1360キロ)ある。
続きはここから 


 海賊船「クイーン・アンズ・リベンジ号」は1718年に米ノースカロライナ州ボーフォート沖の浅水域を航行して座礁・沈没したと考えられている。同船は278年後の1996年にトレジャーハンターたちによって発見された。そこはボーフォートのアトランティック・ビーチの2kmほど沖の水深7mの場所だった。その後、船は州当局に委譲され、考古学者や博物館員が少しずつ積み荷を引き揚げてきた。将来はノースカロライナ海洋博物に収蔵する予定で数年前から段階的に船に積まれている品の回収作業が行われている。

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 「黒ひげ」はイギリス生まれの海賊。1716年から1718年にかけて北は米ペンシルベニア州から南はカリブ海まで荒らしまわった事で知られる。 黒ひげは注目されるのが大好きだった。燃える瞳と轟くような声をもつこの巨漢は、深紅のマントを愛用していた。戦いに飛び込む際には点火した導火線を髪にからめ、胸には6丁の拳銃を吊り下げた。ラム酒に火薬を注ぎ込み、火をつけてから飲み下すのが好きだったとも言われている。この余りに印象的な黒髭の姿が、後の小説や劇、映画などに登場する海賊の姿の元になった。

 黒ひげと呼ばれた男、エドワード・ティーチの出自は明らかではない。『ロビンソン・クルーソー』の作者デフォーと同一人物という説もあるチャールズ・ジョンソン大佐は、1724年の大著『英国海賊史』で、英国ブリストル出身と記した。黒ひげ伝説の大半は同書が基になっている。

 ティーチは、英国王に敵船の略奪を許された私掠船の乗組員から海賊に転じたという。当時の英国にはティーチと同じような船員上がりの海賊が何千人もいた。なにしろ1隻襲撃すれば、稼ぎは当時の金額で2万ポンド(現在の約5億円)に達することもあったのだから無理もない。山分けしてもその取り分は、堅気の船員が生涯に稼ぐ金額の何倍にもなったのだ。

 ティーチが海賊として名をはせたのは1716年、ベンジャミン・ホーニゴールド大佐という有力な海賊の下で帆船を指揮していた頃だ。ティーチはほどなくホーニゴールドの傘下を離れ、スティード・ボネット少佐と連合船団を組む。

c0041039_7562033.jpg ボネットはカリブ海の島、バルバドスの裕福な農園主だったが、口うるさい妻から逃れるために海賊になったと伝えられている。ティーチの指揮で、二人の船団は、現在のキューバのハバナから米国東岸のデラウェア湾の海域を席巻し、11隻の船を捕らえた。
(右画像は黒ひげの海賊旗)

 カリブ海のセント・ビンセント島付近で、ティーチはフランスの奴隷船ラ・コンコルド号を襲ったことがある。相手が投降すると、ティーチはベキア島という小島に乗組員や奴隷の大半を下ろし、小さな帆船と数トンの豆だけを残して置き去りにした。奪った大型の奴隷船には40門の大砲を据え付け、船名を“アン女王の復讐”と改めた。こうして当時のカリブ海で最大最強クラスの海賊船を手に入れたティーチは、意気揚々と出帆していった。その時から1年以上に及ぶ、歴史に残る略奪の旅が始まった。

 やがて黒ひげとその船団はイギリスの軍艦、パール(HMS Pearl)によって、ノースカロライナ州オラコーク湾に追い詰められた。激しい戦いの中で黒髭は死ぬまでに25回以上剣や銃で傷つけられながらも暴れ回り、死後にパール艦長のロバート・メイナードの手によって首を切り落とされた。彼の頭は船首に吊るされた。


 引き揚げられたフィッシャーマンタイプのアンカーは1360kgとさすがに大きなものですね。船が大型の航洋帆船なので当然ですが日本では18世紀の千石船には1番錨で300kgくらいでしたね。でも8番錨までと数は持っていましたよ。

 獰猛で知られるカリブの海賊の頭目にも恐妻家はいたようですね!!
  (アンダーライン部分参照)

【参考Web】1:カリブ海最強の海賊:18世紀初頭、米国東岸とカリブ海を席巻した伝説の海賊「黒ひげ」。ノースカロライナ沖の沈没船調査の結果から、その実像に迫る。
【参考Web】2:ノースカロライナ海洋博物館
  
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by pac3jp | 2011-07-18 08:00 | 歴史・民俗  

陸奥爆沈・・・「陸奥記念館」

c0041039_8341613.jpg ボクも安芸灘の柱島西に旧海軍柱島泊地があり、戦艦「陸奥」が謎の爆沈をしたことは知っていて一度はその場所に行ってみたいと思っていたが、今までヨットで柱島の東は時々航行しても西側には行ったことがなかった。

 しかし今回は車だったので泊地の南に位置する周防大島の東端の伊保田から旧柱島泊地方面を眺めたが、折からの黄砂で視界が悪く肝心の柱島も見えなかったけど地図によると多くの小島に囲まれた適度に広い水面が狭い海峡で閉ざされている環境が潜水艦による奇襲攻撃などの防御がし易い感じだったのでしょうね。

 その屋代島・周防大島町伊保田には大東亜戦争中、帝国海軍の旗艦だった戦艦「陸奥」(39050トン)が昭和18年6月8日正午頃にこの島の沖の柱島泊地で大爆発を起し沈没し、乗員、1,121人の犠牲者を出してしまうという大事件があった。
 それから27年後の1970年から8年間に渡り遺品及び艦体の75パーセントの引き上げを行った。そして遺品や艦の一部、遺族から寄贈・寄託された貴重な資料を展示し、恒久平和とその歴史を後世に伝えるためにその爆沈海面が見える陸に町営の「陸奥記念館」がある。

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 陸奥記念館正面 前庭右に艦首錨が展示してある。ちなみ主砲は呉の大和ミュージアムのエントリーに展示しされている。

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 館内風景 画像の右下に犠牲者の写真が出身の都道府県名と名前が表示されているが中には無名の写真があったように思ったが何故だろう?

 陸奥記念館では良く分らなかった部分ももう少し知りたいと思ってノンフィクション「陸奥爆沈」吉村 昭著を読んでみた。

 丁度、深田サルベージが「陸奥」の引き上げ作業を始めた1970年に発売されたので当時は話題の本だったという。大戦中にそのM調査(軍事機密のため艦名は伏せられた)に関わり当時存命された多くの関係者の聞き取り調査や軍の報告者などを検証し中々詳しく書かれている。

 著者による犯人像は艦の警察・軍紀・風紀の維持を担当する衛兵司令(士官)の下部に所属するQ二等兵曹が疑わしいと書かれているが爆沈後の死体も発見出来なかったので、もしやと思って27年後の出生地を訪ねてみても分らず結局著者も確証は得なかった。

 原因は当初新型砲弾の自然発火などと言われていたが、海軍当局が実施した調査によって、内部からの人為的要因によるものと推定されたが、物的証拠等の決め手がなく、断定には至っていなかったのである。しかし、引き揚げられた物件等から、当時の推定の妥当性が確認され、それまでにあったスパイによる破壊工作等、様々な憶測に基づく議論に終止符が打たれることとなった。(参考Web 2.より引用) 

 読んでいて驚いたのは1905年(明治38)日露戦争の連合艦隊旗艦だったあの有名な軍艦「三笠」(15,140トン)がバルチック艦隊を撃破して佐世保軍港に凱旋し、東郷平八郎大将が天皇に報告するため東京に向かった夜、突然火薬庫から火災が発生し、鎮火したかと思われたが続いて大爆発を起こして爆沈した。
 原因はお偉方がいない艦内で開放的な気分なった兵たちの内数名が深夜上官の目の届かぬ火薬庫に酒を持ち込み宴をひらいた。そのときローソクが倒れ、火薬に引火した。兵たちはあわてて消そうとしたが、たちまち大火災となり火薬庫が爆発し、艦は沈没し、死者は251名に達した。

 原因は火薬の自然発火とされたが、しかし、この上記の事実が判明したのは「三笠」が神戸沖で2度目の火薬庫火災事故を起した6年後の1911年(大正1)だった。

 明治~大正期の日本海軍では軍艦「三笠」を最初として、1906年(明治39)の軍艦「磐手」、1908年(明治41)の軍艦「松島」(4280トン)、1911年(大正元)に再び軍艦「三笠」と軍艦「日進」(7750トン)、1917年(大正6)軍艦「筑波」(13750トン)、そして翌1918年(大正7)に軍艦「河内」(20800トン)と、明治から大正の時代にかけて7 件もの事故が起こっている。明治39 年の「磐手」と大正元年の「三笠」、「日進」は小規模の火災事故だったが、それ以外は多くの犠牲者を出した爆沈事故だった。

 当初これらの事故は、艦内にあった弾火薬類の自然発火によるものと考えられたが、多くの犠牲者を数えた海軍当局は事故の原因は火薬の自然発火ではなく、内部の人為的要素によるものであると突き止め、以後徹底的な事故防止対策が実施され「三笠」爆沈からの14年間に7件も続発していたこの種の事故は1918年(大正7)に軍艦「河内」以降は沈静化し、「陸奥」爆沈までの26年の間、再び発生することはなかった。

 だが多くの乗組員が複雑な装置を操る軍艦の内部は規律を強めても何らかの人為的トラブルが発生する可能性は絶えずあると思われるが、致命的な大事故を防ぐ手立てもまたあるはずだと思う。

 諸外国の例ではアメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ロシアでも火薬庫事故があり、日本はイギリス・フランス・イタリアなどともに人為的な火薬庫事故が多いといわれていたが、何故かドイツには公表される?大事故はなかったようだ。

 アメリカの空母のようにちょっとした町の人口並みの五千人を越す若い兵士が長期間艦内で共同生活しているという軍艦の軍紀や治安の維持などはどうしているんでしょうかね、チョッと興味があります。


【参考Web】:1.戦艦陸奥(ウイッキペディア)
【参考Web】:2.軍艦爆沈事故と海軍当局の対応 ※PDFファイルです。
    -査問会による事故調査の実態とその規則変遷に関する考察- 
         山 本 政 雄(防衛研究所戦史部所員)         
         
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by pac3jp | 2011-05-22 08:50 | 歴史・民俗  

民俗学者・宮本常一先生の故郷を訪ねる

c0041039_8282028.jpg 2009年7月に屋久島で10日ほど過ごした時、宮之浦港のビジターセンターで屋久島など離島に関する民俗誌を読む機会があった。現地取材されたのはもう大分昔だが、現在発行されているガイドブックには載ってないない島の歴史や民俗習慣がたっぷりと記載され、時間も充分あったので大いに参考になったもんでした。

 左画像はその宮本常一著「屋久島民俗誌」です。硬そうな雰囲気の本ですが読みやすい文体で書かれています。

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 そして最近、宮本常一の代表作で英語にも翻訳・出版されている「忘れられた日本人」を読み、先生の生まれた瀬戸内海の屋代島・周防大島町平野にある資料館「周防大島文化交流センター」を訪ねました。

 屋代島の東部北岸の波静かな安芸灘に面した文化交流センターでは丁度、「宮本常一が写した昭和」の企画展が終わった後で常設の展示物だけで何か寂しい感じでしたが、関連の展示パネルと多くの宮本著作本が本棚に並んだ資料閲覧室で先生の業績を描いたVTRを見ていると遠くからやってきた甲斐があったと思いました。

 展示フロアでは海の生産用具が展示されている。島の南部の沖家室島の地先で使われていたタイやハマチの一本釣り用の小さな本物の木造漁船と木碇などが展示されている。この島の漁師たちは明治の頃には船団を組み国内はもとより、朝鮮、台湾、ハワイにまで果敢に出漁していたという。いつだったか、お盆に各地から大勢の島出身者が帰省するので「お盆に沈む島」として報道されていたのを覚えているなぁ。
 文化交流センターの隣(画像の手前)には町の施設と大島出身の作詞家「星野哲郎記念館」がある。こちらのほうが断然お客さんは多い!

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 上の画像は大正末期に使われた4人乗り組みの帆走漁船「沖家室船」の模型。風があるときはミヨシに小さい帆を巻いて帆走り、風がなくなれば櫓を押して航海し、雨が降れば苫を屋根に葺いて寝るという。「忘れられた日本人」にある対馬の老漁師に聞き取りした話では明治の初めに周防大島から対馬に出漁した漁船は5~6人乗りの「大釣」だったと言うのでこの模型よりは少し大きめのフネで船団を組み一月もかけて遠くに漁場を求めて移動していったわけだ。

 2005年5月にもヨットで周防大島南部の安下庄港にも入ったことがある。安下庄湾は広くて良い湾だが、港は細長くて狭い、その上潮汐の差が大きいので昼間はよじ登っていた岸壁が夜中になるとフェンダーが掛からないほどの潮高となり大慌てした思い出がある。残念ながら当時は民俗学者として高名な宮本常一先生の生誕の島だとは知らなかったので近くを散歩しただけで出港してしまったのだ。

 でも今回は車だったので結構大きな島だったが楽々と一周出来た。途中、沖家室島の対岸にある小さな岬、牛ヶ首にあのシーボルトが江戸参府の際、ここに上陸し植物採集やスケッチをしたという石碑が立っている。今は沖家室島は大島とあいだに橋が架かっているが昔はこの海峡が弁才船の航路、或いは泊地にもなっていたのでしょうね。

 ちなみにこの橋の建設記念碑には宮本常一先生の短い碑文が刻まれている。

 此の橋全国同胞 の協力によって できました 感謝します
                   沖家室島民


【参考Web】:周防大島文化交流センター 

【関連記事】:1.流れ着いた漂着物の所有権は? 
【関連記事】:2.屋代島西安下庄港です 
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by pac3jp | 2011-05-08 08:38 | 歴史・民俗