カテゴリ:帆船( 16 )

 

進徳丸のバーカンティン帆装

 今週初め、神戸・元町の海文堂書店に寄ると店頭のショーウインドに総帆に順風を受けて航海する4檣バーカンティン型だった「進徳丸」の絵画が飾ってあり、同時に進徳丸の解説も掲示してあった。

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 《進徳丸の帆装型式決定の謂れ》
 大正10年10月、文部省は練習船建造調査会を開き、その船種と型式が検討された。海軍側の汽船論と文部省側の帆船論が対立したが、文部省督学官であった小関三平氏の熱心な主張により帆船と決定した。さらに帆装型式については、大成丸と同じ4本マストのバーク型と4本マストバーカンテイン型とが議論されたが、当時日本郵船の海務部長であった武田良太郎氏が英国で自ら乗船した経験より旋回性能に優れているバーカンテイン型を強く推奨したことにより4本マストバーカンテイン型に決定された。
 当時国内では大型帆船建造の経験が乏しく、英国のRamage&Ferguson Co.に帆船に関する部分の設計一切を依頼し、日本より技師を派遣し建造の指導を受けた。(神大海事科学部HPより)


c0041039_7354479.jpg バーカンティン型帆船

 左図は一般的な3檣バーカンティン型の帆装だが大型帆船だった「進徳丸」は4檣の内、メイン、ミズン、ジガーの縦帆が余りにも巨大で操作が困難だということで縦帆を分割してダブルガフに大改造された。
 艤装は複雑になったが操作性は良好だったといわれる。
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by pac3jp | 2010-08-20 07:43 | 帆船  

進徳丸メモリアル(2)

 深江丸をはじめ神大海事科学部に所属する船艇が停泊するポンド東側の用地に設置された「進徳丸メモリアル」を訪れる。夏草に埋もれていたようだが業者の若者が草刈の真最中である。もう暫くで作業完了の見込みだ。

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 デッキに上がりマストを見上げる。その昔は最後尾に立っていたジガーマスト(22.4m)で帆船時代は41.5mもあったという。マストの回りに汽笛やホーンなどが置いてある。
 振り返れば屋上には舵輪が載った大きな窓のブリッジ風の船室がある。そのブリッジ内には船長公室、隣には主機関の一部と実習生居室などが配置されている。

 施設の周囲に進徳丸のアンカー、プロペラなどの装備品と当時の木造の交通艇「むこ丸」(深江の沖に停泊した進徳丸への交通艇として活躍し、多くの学生が学校のポンドから、むこ丸により進徳丸に乗下船した。)が展示してある。

 1923年(大正13年)生まれの練習帆船・進徳丸は当時一般的な石炭を燃料とするレシプロ蒸気機関を搭載していた。舶用ディーゼル機関がやっと使われはじめたという時代だった。

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主機関(Main engine)
三段膨脹往復蒸気機関 2基 帆装を取り外して汽船で運用された時代もこのスチームエンジンだった。
1基 625HP 総馬力 1,250HP
高圧シリンダー:直径305mm 中圧シリンダー:直径 508mm 低圧シリンダー:直径838mm  ストローク:600mm
速力(機走) 10.5ノット (帆走) 13.0ノット

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【ご参考に】三段膨張機関の動作例

 赤で示されている高圧蒸気がボイラーから入り、青で示されている低圧蒸気として排気され復水器へ送られる。弁室は対応するシリンダーの左側に位置している

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トロットマンズ・アンカー(Trotman's Anchor)

 ヨーロッパの帆船で多く使用されており、フリューク部が可動式になっている。潮の満ち引きが激しいヨーロッパならではの錨である。
 特徴:爪の背に突き出ている突起が海底に引っかかり、爪が土中へ貫入するようになっている。片方の爪が土中に入ると、もう片方が寝た状態になる。初代の日本丸、海王丸にも搭載されていた。

c0041039_6194773.jpg 実習生居室の壁には、「追憶」のプレートが入った額が掲げられています。

昭和22年7月24日播磨灘二見沖において爆沈の悲運にあい、多数の死傷者を出した。戦後これを引き揚げ、神戸三菱ドックに曳航、改装修理が施され、昭和22年5月30日進徳丸は再興された。当時実習生として乗船していた高等商船学校第二期生らがこれを記念し、真実と自由と友愛の証として、真鍮板に「追憶」を刻し、昭和23年3月10日第一教室(学生食堂)左舷の壁に掲げた。以来、光り輝く青春の象徴として親しまれ、多くの実習生の手により磨き続けられた。(説明板より)

※窓際にあるその説明文の下線の年数が間違っていました。進徳丸が米軍の攻撃を受けたのは昭和20年の7月24日でした。

【関連記事】:進徳丸メモリアル(1)
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by pac3jp | 2010-08-14 06:41 | 帆船  

進徳丸メモリアル(1)

c0041039_8471742.jpg 神戸高等商船学校の初代進徳丸は華麗な帆船として生まれ、戦争の時代に汽船となりやがて陸に上がり神戸商船大学のモニュメントになったのだが、ボクの通勤コースの道路からもずっと見えていた。
 その後、阪神淡路大震災で進徳丸が倒壊し解体されてしまったことは新聞などで知ったが、被災地域に住居も職場もあったボクはもう自分の事でセイ一杯ですっかり忘れていたが、ある日小さいメモリアル施設に生まれ変わっていることに気が付いた。

 一度は行って見ようと思っていたが先週やっとその機会がきた。

 ボクにとって進徳丸の名はずっと身近な存在だった。それは昔、母からよく聞かされた話があったからだった。

 「戦争中、西岡(集落名)のすぐ沖の進徳丸に毎日のようにグラマンが飛んできて機銃掃射し、船の人がようけ死んだったんよ」、そしてグラマンの不発弾が村のあちこちにばら撒かれ「庭掃除をしていたお寺の人が不発弾の爆発で亡くなったこともあるんやで」と任意欄座した進徳丸の空爆の様子をよく教えてくれた。

 記録にある進徳丸が欄座した位置からボクの実家との直線距離を測定すると半農半漁の小さな部落を挟んで僅か500mほどしか離れていない。グラマンの編隊がもう動けない進徳丸を狙って急降下し、機銃掃射やロケット弾で攻撃する轟音は周囲の住民に恐怖の音として聞こえてきたのだろう。ボクも防空壕のなかでその音を聞いていたはずだが今では全く覚えてない。

戦時中、緊急物資の輸送として石炭輸送に従事していた昭和20年7月24日正午頃、二見沖停泊中、米軍の艦載機の機銃掃射とロケット弾による空爆を受け甚大な被害を被り、沈没を免れるため任意欄座した。この空爆により死亡者6名(実習生5名、乗組員1名)、重傷者6名(全員実習生)の人的被害を被つた。空爆は31日まで続き船体は無数の銃弾を受け全焼した。火災により当時の公式記録はすべて焼失した。二見港沖方位124度、距離420mの地点であった。
終戦1年後の昭和21年(1946年)7月31日に引揚げ作業が始められ、8月19日浮上、8月24日三菱神戸造船所に曳航され、修理が施された。翌昭和22年(1947年)5月30日汽船練習船「進徳丸」が甦った。
(神戸商船大学 海技実習センター年報 第2号 平成13年3月30日より)


 もう日本がほとんど降参していた昭和20年7月、終戦の20日前に、商船学校の練習船を執拗に空爆した米軍も非常識だが、無念にもお亡くなりになった若い学生5名と乗組員1名のご冥福をお祈りします。

【関連記事】:進徳丸メモリアル(2)
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by pac3jp | 2010-08-12 08:04 | 帆船  

インドネシアの復元古代船が日本に向け出港!

c0041039_7181221.jpg 10日ほど前の7月4日、インドネシア・ジャカルタの港を復元古代船が出航したとマスコミ各社が報道した。

 船は60フィートのアウトリガー、帆装は2本マストのラグセールのようであるがオセアニアのクラブクロウセール風でもあります。
 でも、復元古代船といっても船型などすっきりとしていて現在でも通用しそうですね。


 13世紀から16世紀までインドネシアのジャワ島を中心に栄えた「マジャパヒト王国」遺跡の発掘調査に対する支援を訴えるため、同国 政府と日本マジャパヒト協会(東京、田中穣代表)は古代インドネシアの木造船を復元した。
 6月27日に造船場所のジャワ州マドラ島を出港し、半年間かけてジャカルタに戻る約9千キロの航海がスタート。アジア各国に立ち寄り、発掘調査への資金や技術面での協力を求めるほか、地元住民との交流活動も行う。

 日本最初の寄港地は、琉球王国の交易を担った沖縄・久高島で今月中旬の到着予定。続いて那覇港に立ち寄り、仲井真弘多知事らを表敬訪問。鹿児島、横浜、東京、福岡などにも寄港する。
 木造船は全長20メートルで、ジャワ島・ボロブドゥール遺跡の8世紀ごろのレリーフに描かれた古代船を基に復元。くぎを1本も使わずにチーク材や竹などで造った。乗組員15人は大半がインドネシア人。
 2010/07/03 05:45 【共同通信】



 ボクはその復元船と沖縄の寄港地、久高島に特に興味があった。

 15世紀、明の永楽帝が朝貢体制を拡大するため鄭和の大艦隊がインド洋にも乗り出し、アラビアやアフリカまでの大航海が幾度も行われていた頃、アジアにも大航海の時代があった。勿論、日本も室町時代には官民合わせて勘合貿易を行ったし、琉球王国もその地の利を生かし中継貿易で大いに繁栄した時代だった。

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 インドネシア・ジャワでも交易船を各地に派遣して「マジャパヒト王国」がい大いに栄えたと伝えられるが当時の交易船の史料が全くないらしい。そこでジャワ・ボロブドール遺跡にレリーフされた8世紀頃のアウトリガー付航洋船や東部インドネシアの戦闘用大型アウトリガー船KORAKORAを基本型に、インドネシア研究者の英知を集め、これら史料から推定復元したという。

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 ジャワ・ボロブドール遺跡にレリーフされた8世紀頃のアウトリガー付航洋船レリーフからインドネシア研究者の英知を集め、これら史料から推定復元したデザイン図

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 復元された「スプリット オブ マジャパヒト号」釘を一切使わずホゾのようなものを使って部材を繋いでいるが、接続部の防水には天然の樹脂接着材を使っているのでしょうか、普通のマキハダでしょうかね。アウトリガーが竹なのでヒールすると水切りが悪いのでちょっと心配。

 航海予定のコースを見ると日本ではまず琉球王朝の交易を担った沖縄・久高島に入るという。本島南部沿岸にある人口200人程の小島にナゼ?と思い検索したがWebでは簡単に中世の交易の歴史は出てこなかった。インドネシア人達はかっての交易で図らずも欠礼してしまった答礼を今回はぜひしたいということである。

 久高島は琉球王国の時代から現代まで琉球神話聖地の島だし、ボクには久高イラブーを食べる勇気はないが、ほかにも色々と興味深い島なので一度は訪れてみたいと思っている。



 琉球の創世神アマミキヨが天からこの島に降りてきて国づくりを始めたという、琉球神話聖地の島である。琉球王朝時代に沖縄本島最高の聖地とされた斎場御嶽(せいふぁうたき)は、この久高島に巡礼する国王が立ち寄った御嶽であり、久高島からの霊力(セジ)を最も集める場所と考えられていた。島内には御嶽(うたき)、拝み所(うがんしょ)、殿(とぅん)、井(かー)などの聖地が散在しており、中でも島中央部にあるクボー御嶽は久高島第一の聖域であり、男子禁制である。

 それにこの島は琉球王朝時代の地割制度が唯一残っていて村有地などを除いて全てが共有地であり「久高島土地憲章」により分配・管理を行っている。

 久高島は土地が総有制、個人の持ち物ではない為に外部の資本がほぼ入れません。いつまでも、この制度を残せるように久高島土地憲章を制定して守っています。根底にあるのは、天、地、海を何よりも大切なものとしてきたこの島の生きざまです。この島にいると平気で土地を売り買いする現代社会が異常なものに感じてきます。
 島民は字から土地を借りて、家を建て、畑を耕します(ノロなど特別な役職に対しては別に土地が与えられていました)。島人には土地を所有するという概念は無いようです。まさに忘れ去られたようにここだけに残った土地制度、原始共産制の名残と言われます。正確に言うと、久高島の土地は字の共有財産、個人には使用権が与えられます。久高島にこれだけの自然、文化が残ったのは外部資本が入ってくるのを守るこの制度のおかげと言えるでしょう(久高島HPより)



 いずれ大阪にもやってくるので機会があれば現物を見てみたいが、出航時の動画ではかなりの速度で航行しているので船外機などエンジンは装備しているのかも知れないし、航海計器や通信機器は最新の機材を搭戴しているはずだ。これから日本近海は台風シーズンにもなるので安全第一の航海でやってきて欲しいと思っている。


 インドネシア・マドゥラ島スノッペンにて行われた復元古代船「スプリット オブ マジャパヒト号」の進水の様子です。



【参考Web】:日本マジャパヒト協会 とは 
 日本マジャパヒト協会は、2008年、マジャパヒト遺跡の発掘・周辺環境整備事業への支援を切り口に日本とインドネシア相互の文化と歴史の尊重と理解に立脚した新しい「かたち」の友好関係を構築することを目的に設立されました。
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by pac3jp | 2010-07-14 07:36 | 帆船  

弁才船の舵

 明治以来、西洋船に較べ弁才船が荒天時の耐航能力が劣るのは巨大な舵が引き上げ式になっているのも弱点の一つだといわれていた。

 しかし、和船は昔から大きな川の河口港や静かな湾奥の港などを多く利用していたので必然的に港は水深が浅かった。そんな港では大型の廻船は満潮だと出入りが出来るが干潮だと船底が海底について動けなくなる。幸い弁才船の船底は平たいのでそのまま海底に座っているが、舵は船底より深いのでそうは行かない。

 そんな日本の港湾事情から港に入ったらすぐに舵を引き上げるということは、浅い港の多さが生んだ船乗りの知恵だということになっている。
 江戸時代には桟橋に廻船が横付けなんてことはなく、天下の江戸ですら品川沖で沖懸かりしていたし、近世最大の港湾都市大坂でも安治川や木津川に入って碇泊していたから荷役はすべて瀬取船で行っていたのだ。

 下の図が江戸時代における弁才船の舵の変遷である。
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 17~18世紀初めまでの舵の面積は軍船などと同じくらいの大きさだった。(右端、帆と櫓走を併用していた時代)
 18世紀以後、弁才船の帆走専用船化が徹底するにともない舵面積が大きくなり、やがて19世紀中頃(幕末頃)には左端のように巨大化していった。

 舵の大きさは1000石積では身木(ラダーシャフトの部分)の太さは鷲口(船床梁の凹部)にはまる所で直径50Cm 、長さは約10m、1800石積みでは長さは12mに及んだ。身木の下半部に羽板がありその下の桟の長さが1000石積では3mでその面積は6畳敷きの大きさになる。

 この大きな舵面も操縦性の必要があって大きくなってきたのだ。内航船だった弁才船は微風でも狭い入り口の河口港や港に曳き船なしに入出港する必要があり、そのためには操縦性の確保が一番だった。それに逆風時には頻繁に間切り航行をしたので横風帆走時のリーウェイの防止にも効果があったという。

 舵面が大きくなると操舵が重くなるのが欠点だが、図を見ると時代と共に身木が曲がってきている。それによって現在のバランスド・ラダーのように操舵力を軽減する方法が考えられている。確かに舵面の身木の前にもバランス分がついている様である。
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 上の画像は1500石積以上の北前型弁才船の帆柱から後、艫の部分だが人間の大きさと舵の身木の高さとそこから伸びる舵柄の長さにも驚く。
 こんな巨大な舵は直接舵柄を持たずに滑車と轆轤で操船したのでしょうね。

 レーシングヨットのラダー形状は大きな物から段々と細く、そして長くなってきたようだが、内航用帆走貨物船の弁才船は小さい舵から段々大きくなってきたんですね。
 そんな巨大な舵をもつ船に新酒を満載して西宮から江戸への一番乗りを競う新酒番船での過去最高は寛政2年(1790年)の57時間、平均6.6ノットだったという。重い酒樽を満載し、北西の強風をうけて2日ちょっとで江戸まで突っ走っていますが、甲板での操船はさぞ大変だったろうと想像しますね!!


【参考文献】;和船Ⅰ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2010-03-20 13:28 | 帆船  

弁才船の帆走 Part2

 前の記事にある2枚の船絵馬をどうご覧になりましたか? 一見どちらも追風帆走のように見えますが、上の船の帆は右舷船首寄りの風を受けています。そのため風上になる帆の前部(ラフ)から船首方向に数本の両方綱が引かれているのがかすかに見えます。
 と、言うことで上の船絵馬が逆風・横風帆走中の弁才船です。下の船絵馬は両方綱が後に回っているので追風帆走です。

 因みに弁才船の積載量は本帆の反数で大体決まっています。上の船絵馬の本帆の反数(細長い部分)を数えてみると28反帆だったのでこの船は1300石積で、下は22反帆なので700石積という具合になります。

c0041039_16554092.jpg 弁才船の風上帆走性能については当時の船頭の航海記録などによると60度まで上ることが出来ると書かれているそうだが、「なにわの海の時空館」の復元・菱垣廻船「浪華丸」(25反帆の1000石積)で実際の性能を大阪湾で検証したときには70度まで上ったとされている。(左画像上)

 帆船の逆風性能にはリーウェイをどう押さえるかが問題だが、時代と共に大きくなってきたあの巨大な舵(1000石積で6畳敷大)もキールのような効果があったという。

 普通のヨットでは最大45度風上に進むと次はタッキングして反対タックで風上方向に向いながら風位の方向に進んでいくが、積荷を満載した上に上り角度も悪い弁才船はタッキング(上手回し)はしないそうで、ウエアリング(下手回し)でタックを入れ換える効率の悪いマギリ航法になる。
 白石一郎の海洋時代小説では上手回しの場面も出てきたように思うが、かなり海の条件がよくないとタッキングはできないのかもしれない。

 ボクも強風で波の悪い海をクルージングしているとき、安全を考え、ジャイブ回りで風上に向かうことも度々あった。でも帆走性能がよいレーシングヨットに乗っていたらボクでも絶対しませんね。

c0041039_16594578.jpg 画像左は「浪華丸」が右舷後方からの強風を受け、7ノットで追風帆走しているショット。帆船が一番よく走る風だが船首が低く甲板の防水が弱い弁才船が波の高い海を航海するときは大変だったのだろう。

c0041039_1703156.jpg 以前は弁才船である菱垣廻船や樽廻船が一枚の大きな帆だけで帆走していると思っていましたが、実際に速さを競う番船ではスピードや操船上必要な各種の補助帆を用いていたようで、右画像は19世紀中頃、「新綿番船船出帆図」に描かれた総帆を揚げた新綿番船。一番前の弥帆・中帆・伝馬帆・副帆・艫帆と目一杯帆をあげている。


【参考資料】1:なにわの海の時空館
      2:日本の船 和船編 安達裕之著
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by pac3jp | 2009-04-06 17:11 | 帆船  

弁才船(べざいせん)の帆走

 江戸時代の寛文年間に河村瑞賢により東回り、西回りの航路が開発され各地の年貢米が海上輸送で大坂・江戸にと大量に運ばれるようになってきた。その後、物流の増加で大坂と江戸を結ぶ航路には菱垣廻船やお酒を専門に積み込む樽廻船など大型の弁才船が競って運航するようになり、大消費都市・江戸を支える物流の大動脈になっていった。

 船が帆走で競えばレースになるのは今も昔も同じで、江戸時代から明治時代の初期まで毎年行われていました。菱垣廻船の新綿番船と樽廻船の新酒番船がそれで、到着の順番を競うところから当時は番船を「ばんぶね」とよんでいた。番船は順位が賭けの対象になるほど人気を集めた年中行事でした。

 特に樽廻船は我々の地元兵庫・西宮沖から一斉に出帆し、江戸・品川までを競う。その船頭に切手を手渡す切手場周辺はで大勢の見物人でにぎわったそうです(絵にもよく描かれている)。船頭が切手を受け取り西宮沖に碇泊する番船に力一杯に漕ぎ戻り、出帆となりレースは始まる。
 過去に一番早かった新酒番船は寛政2年(1790年)の57時間、平均6.6ノットだった。18世紀に入ると5日前後の記録はざらだったという。ヨットレースと大きく違うところは貨物を満載している状態で走らせていることで、この番船が弁才船の帆走技術の向上に大きな刺激を与えたことは間違いないでしょうね。

 横帆船は逆風帆走は出来ないなどの風評もあったが、現代の復元・菱垣廻船「浪華丸」の試験航海では風に対して70度まで上ったという記録もあるし、当時でも風上への間切り帆走も行われていたという。

 所で、下の2枚の船絵馬をご覧になりどちらが詰開き(上り)帆走かお分かりになりますか。この絵は当時有数の船絵師が描いた船絵馬で正確に書いてあるということです。当然、もう一方は追風帆走です。

 ヒントはセールの左右にある両方綱の取り方に注目。
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 弁才船は一般的には千石船とも呼ばれていて、一千石のお米を積載出来る船で、もう18世紀中頃の幹線航路では普通のサイズとなっている。
 その後、年とともに大型化が進み幕末の19世紀中期には1500~2000石積みの船も珍しくなくなってくる。ボクが持っている千石船のイメージは復元された千石船「浪華丸」くらいのサイズだが、実際に幕末から明治にかけて内航の幹線航路で運航されていた弁才船はその倍も大きかったわけだ。

 明治の頃の写真をみて大きさと貨物の積み方にびっくりした。

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 写真の説明には、北前型弁才船で1357石積の八幡丸。日露戦争中(1904年)にロシアの水雷艇に撃沈されたとある。


【関連記事】:合いの子船 

【参考資料】:日本の船 和船編 安達裕之 著 船の科学館
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by pac3jp | 2009-04-04 17:20 | 帆船  

日本丸のチークデッキと無線室

 チークデッキといえば日本丸などの帆船上で大勢の練習生が並んでデッキを磨いているシーンを思い浮かべる人は多いだろう。
 セレブ派は豪華客船のプロムナードデッキかな。

c0041039_10553552.jpg ヨットやボートでもコクピットやデッキにソリッドのチーク材やチーク合板が張ってあるフネはある。「チークデッキはボウズリ(デッキブラシ)で磨いたらアカンで!」と先達から教えられた。でも、手入れの方法がオーナーによってまちまちなので中には無残な状態にしてしまうフネも出てくる。

 
 練習帆船のデッキ磨きには椰子の実を使っているとは聞いていたが、外観から想像したら堅そうなので、大勢のクルーがゴシゴシやればかなり分厚いデッキでも摩滅するんではと不思議に思っていたが、見学してみると1985年進水で23歳の日本丸でもキレイなもんですね。

c0041039_10562315.jpg 近くにいた士官にお聞きするとデッキの厚さは5cmはあるでしょうとのこと。椰子の実で磨いたくらいでは減りませんよと、実物を見せてくれたが、ボクも触ってみてガッテンした。デッキブラシよりズット細かい繊維がぎっしり詰まったデッキには優しそうな道具だ。これは遠洋航海でハワイに寄った時に仕入れてくるらしい。

 それより、「汚れた時には石で磨くのでそっちの方では減りますね」とおっしゃる。 どんな石だろうと思っていたら大阪市の「あこがれ」のデッキにカットした椰子の実と15cm×15cm×厚さ10cm位の砥石が置いてあった。これだなと、納得した。
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 船尾よりの右舷デッキを歩いていると、どこからか、かすかなトンツーの音が聞こえてきた。もう大分前にGMDSSの発効でモールスは使わないようになっているのにぃ・・・と思いながら音の出ている方向に行ってみると左舷の無線室から聞こえてくる。
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 中を覗いてみると当直の通信士が事務的なお仕事をされている。モールスは頑丈な架台にセットされた無線機から聞こえてくる。そして、手前の机にはいまだ現役らしい「電鍵」が載っている。

 一緒に覗いていたオバサンがトンツーを聞きながら「SOSはこれでするの?」と質問した。
 通信士氏は笑いながら「遭難通信などは人工衛星をつかったシステムでやっています」 「いま、流れているモールスはアマチュア無線ですよ」とおっしゃる。

 そうなんだ。ボクにとっては“とっても難しかった”和文のモールスを自在にこなすプロの仕事は、全ての船舶がハイテク通信システムに変り不要になってしまったのだ。
 いまではかってのプロたちがトンツーでお喋りする場所はアマチュア無線の世界だけになってしまったようだ。

 船ではモールス符号を今でも、発光信号などには使うとおっしゃるが軍艦ならいざ知らず、商船ではきっとVHFでしょうね。


【関連記事】:チークデッキを張る
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by pac3jp | 2008-07-02 11:13 | 帆船  

省エネ帆装船の今昔(3)

 1980年代の石油危機には省エネ帆装船が開発され、大小船舶が実用に供せられたが、程なく石油価格の安定や、意外にセールなどの維持にコストが掛かりその後に続く帆装貨物船は日本では造られなかった。
 いま、原油は1バレル100ドルを越え、燃料高は車は勿論、船舶においても大変な時期にきているようだ。そんな時、NHKアーカイブで1983年に建造された帆走貨物船を冬の日本海でテストした「帆装タンカー荒海をゆく」と題する番組が再放送された。そして、その番組の冒頭に2007年12月15日ドイツで進水した最新の「貨物帆船」の映像が流れた。

世界初の貨物帆船がハンブルク港で進水式
報道メディア:北ドイツ放送(ndr)
発表日:2007年12月15日
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写真:北ドイツ放送(ndr)

 蒸気機関の発明以後には貨物船も含めて帆船は姿を消していたが、地球温暖化対策が叫ばれ、原油価格がバレルあたり100ドルに近づく昨今、ドイツでは《世界初の貨物帆船》が、連邦大統領夫人の臨席の下で12月15日に進水式を祝った。この船は1月にベネズエラに向けて処女航海に出る。
 全長 132 m のこの船の特長は、主機関のディーゼル・エンジンをコンピュータ制御のパラグライダ式の帆が助ける点にある。帆の面積が160 m2 ならば 20%、320 m2 ならば 30% の燃料が節約できる計算とのこと。600 m2 の帆も準備中。

 
 パラセールを推進力に採用したのはさすがドイツ人だが、「世界初の貨物帆船」と言っているのはちょっとおかしい。日本ではパラセールタイプは無かったがマストに展開するセールを持つ貨物船は20年前には存在した。凧のように揚げるパラセールは大洋の貿易風帯をずっと追手で走る航海ならもってこいだが、風が横に振れたり前に回れば効果はない。大圏コースを航海する本船では片道しか帆走できないかもしれない。また、風向の変化が多い日本沿岸を航海する内航船ではまず無理だろう。

 実はドイツで82年前の1926年、風力を利用する貨物船「バルバラ」が造られている。セイルではなく3本のローターを風力で回転させ推進力を得るという発想で造られたそうだ。その原理は野球の変化球と同じ理論によっている。
 大雑把にいうと、投手が投げたボールが回転していると、その回転でボールの表面の片側に空気の圧力の高い部分が出来、その反対側が低くなる。その圧力差でボールの進む方向が変わり、変化球となる。その原理を使い、ボールの代わりに風の中で大きな円筒を回して円筒の外側に圧力差を起こし、それが起す力で船を推し進めるというものだった。
 地中海への初航海では主機関で約10%の節約が出来た。でも、追手の航海では変な癖が出てうまく走らなかったらしい。

 1980年代には省エネのテーマは燃費や人件費の低減が主だったが、現在は地球温暖化対策が大きなテーマとして叫ばれている。
 日本の船舶でも政府が主導して「エコシップ」(エネルギー消費効率の優れた船舶)など進めているが、船舶の主推進力を自然のエネルギーから調達するという正面から向き合う省エネの大物アイデアはなくソーラーパネルや風車で貨物室の照明を賄うなど小物?省エネ対策や固定バラストを装備し、バラスト水の量を減らし海域の環境保全に当るなどがあるが・・・。

 開発リスクの大きい帆走型より、抵抗の少ない船型やガスタービン対応型新船型 、電気推進式二重反転プロペラ型ポッド推進器を用い電気制御による人員の削減や操船の簡易化など補助金の付きそうな「エコシップ」の方向に進もうとしているのだろうか。

【関連記事】1:省エネ帆装船の今昔(2)
【関連記事】2:省エネ帆装船の今昔(1)

参考図書:酔狂な船たち 三宅啓一著
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by pac3jp | 2008-03-21 12:09 | 帆船  

省エネ帆装船の今昔(2)

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 上の画像の499トン型貨物船は「カルビー・ポテト丸」である。面白い船名を持つ船として船好きの中では有名らしい。昨年、神戸港・六アイのマースクバースの沖で碇泊中にボクも近くを通りかかり、面白い名前の船だと思い写真に撮った。コンテナを積んでいるがジャガイモ輸送の専用船という。

 省エネ帆装船と全く関係がなさそうだが、実はこの船の先代「カルビー・ポテト丸」が1984年に大分・三浦造船所でディーゼルエンジン推進の補機としてコンピューター制御の硬質な帆を持つ帆装貨物船として建造されたと同社の建造記録の中にあったのだ。

 第1次、第2次のオイルショックに伴う燃料価格の高騰で船舶の省力・省エネ技術で競争力の向上が叫ばれ、1980年代には官民あげて新型船の開発が進められた。

 最初に現れたのが【操帆タンカー “新愛徳丸” 1980年】だった。

“新愛徳丸”は昭和55年(1980)に竣工した世界で最初の、操帆に人手を必要としない省エネ帆装商船の実用化第一船です。燃料消費を節約するために自然の風力エネルギーを利用するもので、財団法人日本船舶振興会の援助を受けて財団法人日本舶用機器開発協会が研究開発し、実用化にこぎつけたものです。操帆の自動化をはじめとして、船型やプロペラ、エンジンなどにも改善を行い、同型の在来船と比較して、約50%も燃料の節約をすることができました。

c0041039_9541379.jpgトン数 699.19総トン  1,499載貨重量トン
全長 63.85メートル
幅(型)10.60メートル
深さ(型)5.20メートル
主機 ディーゼル1,600馬力 1基
速力(航海) 12.0ノット  
乗組員 8名
建造年 昭和55年(1980)9月
建造所 今村造船所

(日本財団図書館より引用)


c0041039_1011559.jpg もう大分昔になるが、この金属製のセイルを持つ内航タンカーの姿は時々、西宮・尼崎の沖で碇泊しているのを見たことがある。当時は2万トンクラスのバラ積み船(画像右)、内航貨物船、マグロ延縄漁船など国の補助金も付いたのだろうか、省エネブームに乗って次々と建造された。

 だが、実際に運航してみると50%も燃料を節約できると謳われたが、実際の燃料費節減は10%位だったり、帆装に関わるスペースやそのメンテナンスの費用が予想外にかかり営業的には成功したモデルではなかったのだろうと、ボクは想像している。やがて、神戸港の沖でも四角いセイルをつけた貨物船を見かけることはなくなった。

 それらの機帆船の行く末はどうなったのか分らない。上の画像の「カルビー・ポテト丸」も先代と同じ大きさなのでマストを外して改装したのだろうかとも思ったが、調べると全く新しく建造された船だった。
 スピードとコストが勝負の貨物輸送の業界で当分はセイルが補機で出てくることはなさそうだが、地球環境や自然保護の意識の高い乗客を呼び込める客船などでセイルのついた省エネ帆装船が活躍する場面は今後充分あるのあるのでしょうね。
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by pac3jp | 2008-01-09 10:10 | 帆船