2014年 03月 30日 ( 1 )

 

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊

天平年間(729~749年)に、僧・行基が一日の行程を測って西から檉生(むろう)、韓、魚住、大輪田、河尻の5つの泊を設けたと伝えられている。その古代の摂播・五泊で魚住泊の西側にあたる韓泊に比定されている姫路市的形町福泊漁港と的形港を訪ねた。
かって、この港の沖から頼山陽が命名したという景勝地「小赤壁」を眺めながら八家川河口の木場YHにはレースやクルージングなどで時々は寄港していたが、西隣の福泊漁港には入ったことはなかった。

平日のお昼頃、静かな港である。的形漁協の前に底引き漁船が4隻と小型漁船が数隻泊まっている。あとはプレジャーボートだろう。フィッシングセンターの駐車場があるので乗合の釣り船は沖に出ているのだろうか。

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古代の韓泊の史料は少ないようだ。「三善清行意見封事十二箇条」に出ている以外は未だない様だ。今後の発掘調査などの結果を待つしかないのかな。

【韓泊】角川日本地名大辞典より

奈良期から見える泊名 播磨国印南【いなみ】郡のうち奈良期に僧行基が摂播(摂津・播磨)五泊の1つに定め、遣唐使なども停泊した。当地には、古くから泊(港)があったと思われる。
延喜14年(914)4月28日の三善清行意見封事十二箇条に「自檉生泊至韓泊一日行、自韓泊至魚住泊一日行」と見える(本朝文粋/群書27)
正応2年9月29日の伏見天皇宣旨案にも韓が見えるが、行基が定めた五泊の1つとして見えるものである(東大寺文書/大日古5)
鎌倉期以降は福泊と見える現在の姫路市的形町福泊付近に比定される。

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福泊港から西方の小赤壁を望む。
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燈籠地山
沖から見ていると「小赤壁」がある低い岩山は西から木庭山・姫御前山・燈籠地山と並んでいる。木庭山には木庭神杜が鎮座し、姫御前山は、神功皇后が陣を張ったという伝説があり、旧の印南、飾磨郡の郡境に位置する燈籠地山は鎌倉時代、その山頂に安東蓮聖が泊の目印に灯火をともしたことから名付けられたという。
最盛期の頃この泊は昼間の入港の目印は大岩があり、夜は燈籠地山の頂上に明かりがつき、しっかり港の機能を備えていた。福泊神社の前の街道には回漕問屋の倉や屋敷が並び人々が行き交い賑わっていたのだろう。

鎌倉時代の1292年(正応5)ころ,律宗の僧行円房顕尊が〈福泊島勧進〉上人となって,この泊に風浪を防ぐ島の修築事業を進め、往来の船から〈築料〉として艘別200~300文の津料(入港料)を徴集していた。顕尊が1300年(正安2)に入滅した後、その檀那(後援者)であった北条家得宗の要人だった安東蓮聖が事業を引き継ぎ、「大石を積み上げ、数百貫の私財を尽して、二町余(約200m)沖に人工島を築造して、1302年(乾元1)に築港を完成」以後兵庫津に劣らず繁栄したという。 【峯相記】より

一方、安東蓮聖の経歴から見ると律宗の僧は「円房叡尊」と親交を結ぶと出てくる。「叡尊」は慈善活動の為とはいえ権力と癒着し木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、などの記述もみるので峯相記の書き間違いかも知れない。

【参考】安東蓮聖 【あんどう・れんしょう】

生年: 延応1 (1239)
没年: 元徳1 (1329)
鎌倉後期の武士。得宗被官,摂津守護代。弘長2(1262)年,北条時頼の使者として西大寺叡尊のもとに赴く。以後叡尊との親交を結ぶ。文永年間(1264~75),山僧と結託して京都で借上を営み,蓄財に成功。文永10年多田院造営の惣奉行を務め,建治3(1277)年久米田寺の別当職を買得し,律宗寺院として再建,弘安5(1282)年には,叡尊を請じて堂供養を催した。乾元1(1302)年,数百貫の私財を投じて福泊を修築するなど得宗権力を支えるために,流通路支配の最前線で活躍した。 朝日日本歴史人物事典より

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【福泊神社】

福泊神社の御祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の四柱で、主神は神功皇后です。福泊にも神功皇后の伝説があり、皇后が西征の際に当地で御陣を止められ、御腰をかけられたと伝えられています。御陣を止められたところを御陣山(燈籠地山)、御腰をかけられた岩は御前岩と名付けられ、この近海を御前の浜と呼ぶようになりました。また皇后は応神天皇を御懐妊されており、当地で御腹帯を召されたことから、この里の名を腹帯里と書いて「ふくとまりの里」と呼ぶようになり、神社を創建し「大帯祠(おほおびのやしろ)」と称したとあります。後に地名は福泊と書くようになり、社名は「福泊大帯社」或いは「弁財天社」といわれるようになり、現在では福泊神社と称しています。「弁財天社」は市杵島姫命を祀っていることに由来します。福泊屋台の狭間彫刻「神功皇后」は、御前岩から皇后が瀬戸内海を見渡し、御座船を迎える場面を彫刻したといわれています。
本殿の建立は明確ではありませんが、建築様式から室町時代中期の建立といわれ、一間社春日造りで現在では当時の様式が残る社殿が殆どなく、大変貴重な建築であることから、平成13年8月23日に姫路市重要文化財に指定されました。拝殿は江戸時代に再建されたといわれ、幾度かの修復を重ね現在に受け継がれています。
的形・湊神社HPより

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大正7年に撮影された福泊神社。境内に松の大木があり、拝殿は現存しているが、屋台の倉は未だない。周りの田畑も今はもうないように見えたが・・・。多分、良寛さんはこの写真とそう変わらない風景のなかで泊まったんでしょうね。

この神社に江戸時代の禅僧良寛が帰郷の途中に境内で野宿し歌を残している。

つぎのひはからつてふところにいたりぬ
     こよひもやどのなければ
おもひきや みちのしばくさ うちしきて
 こよひもおなじ かりねせむとは


(漢字仮名まじり文では)
次の日は韓津てふ所に至りぬ
今宵の宿の無ければ
思ひきや道の芝草うち敷きて今宵も同じ仮寝せむとは 

良寛が帰郷の為に倉敷市玉島の円通寺を旅立つのは、寛政八年(1796年)正月、三十九歳の時のようです。あの有名な良寛さんがまだ若い39歳の冬、ここで一夜を過ごしたことがあるとは驚いた。大昔ではなく19世紀の少し前だった。当時でも福泊は韓津とも呼ばれていた様だ。

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同じく韓泊の比定地とされる住吉神社がある的形町的形はボクが知っている?昔から奥村ボートさんがあり40年の歴史を持つ的形YCのヨット泊地として有名だったので海からも陸からも訪れたことはある。今もこの河口は沢山のヨットが繋がれいいヨットハーバーになっている。

参考文書:はりま伝説 夢物語 「燈龍山の火と福泊」 神戸新聞社
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by pac3jp | 2014-03-30 11:57 | 歴史・民俗