2014年 03月 16日 ( 1 )

 

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)

大阪湾や播磨灘で小舟に乗って長い間楽しんできたが明石エリアの漁港には浅い、狭い、混雑しているなどで明石港以外はあまり入った事がなかった。しかし、長い歴史をもった港もある。

室町時代に東大寺が兵庫津で関銭を徴収した記録「兵庫北関入船納帖」に、明石市内の港は中庄・船上・林・松江・営嶋・伊保角・二見などが記録されている。営嶋は古代に「魚住泊」と呼ばれた赤根川河口の江井島のことだろう。

魚住泊の推定地である江井島港に「泊」と刻まれた大きなモニュメントが立っている。

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往きめぐり 見とも飽めや 名寸隅(なきすみ)の 船瀬の浜に しきる白波     笠金村

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【 摂播五泊 】とは? 天平年間(729~749)に、僧・行基が一日の行程を測って西から檉生(むろう)、韓、魚住、大輪田、河尻の5つの泊を設けたと伝えられています。

檉生泊   - たつの市御津町
韓泊(福泊)- 姫路市的形町
魚住泊   - 明石市大久保町
大輪田泊  - 神戸市兵庫区
河尻泊   - 尼崎市神崎町

その距離は檉生と韓泊間が22km、韓泊と魚住泊間が21km、魚住泊と大輪田泊間が30km、大輪田泊と河尻泊間が22kmとなっており、魚住泊と大輪田泊との間が他より長くなっています。
これは、その間には潮の流れが速い幅約4kmの明石海峡が存在することによるものと考えられています。
この明石海峡は1曰2回,潮流の向きが変化します。そこで、東行する船は東流時を選び,西行する船は西流時を選ぶため、それぞれの港が潮待ちのための重要な港であったことがわかります。

魚住泊の位置については明石市魚住町の瀬戸川河口説と同じく大久保町の赤根川河口説とがあり、いまだ確定はしていません。ただ、大久保町江井島の赤根川河口には延命寺・長楽寺・定善寺など行基開基の伝承をもつ寺院が存在していることなどから、赤根川河口に求める説が有力です。

この港は、832 (天長9)年に清原夏野が修築を建言し、さらに、867 (貞親9)年には元興寺僧賢和が改修を願い出ています。そして、914 年には三善清行が「意見封事十二箇条」の中で、魚住泊の修復を請願しています。その中で,「…此の泊天平年中建する所なり。其後延暦の末に至る五十余年,人其の便を得る。弘仁の代,風浪侵齧し、石頽れ沙漂う」とあり、海岸浸食により荒廃していた様子がよみとれます。

その後は管理されず放置されたために、航行する船の多くが沈み、人命まで損失ことがあったようです。そこで、1196 (建久7)年、大輪田泊とともにこの魚住泊の石椋(いしぐら)工事の奏上を太政官に提出し、その願いは聞きとげられました。当時、重源は東大寺の再建のあたり、大勧進になっており西国からの建築資材を連ぶには、西国からの建設資材を運ぶには明石海峡を安全に通過させる必要があったために海峡をはさんだ両港のの整備を図ったものと考えられています。

重源の修築以降、建保年間(1213~1219年)重聖上人による修築が行われ、1289 (正応2)年に性海上人の奏上によって修築が行われた記録が残されています。この正応2年の修築以来、改修の記録は1888(明治21)年まで途絶えています。

戦国時代には織田信長の三木城攻めに際し、安芸の毛利氏から籠城中の別所氏に届ける兵糧がこの港で陸揚げされ、近くの魚住城に運び込まれ織田勢の動向を見ながら三木城に送られたのだろう。

画像は現在の江井島港ですが、航空写真が古く今は岸壁には漁船が一杯で外来船が着ける場所はないように見えます。赤丸が石椋が出た場所です。

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1986年の赤根川浚渫工事で引き揚げられた多くの加工されまだ皮まで付いた松の丸太。当時この木を見た材木商は日向松だと言ったそうです。

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これらのことから引き揚げられた木は、井桁状に組み合わせ、その上に河原石を置いて沈め、波堤の基礎としたものであると推定されます。この木組みは東方向へ延びていたものと考えられ、赤根川河口から東へ250 mの位置にある江井島漁業協同組合事務所の南の護岸工事の際にも発見されています。下の画像は井桁の模型とその下は海底に埋まっていた松材と石です。

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江戸時代の地誌『播州名所巡覧図絵』に江井島は「旧は嶋にて、釋の行基の築く所なり。故に嶋といふ。地中、今も石木など残れり。」とあります。このことから江戸時代において、すでに、港に基礎となる石や材の存在が認識されていたことと、この港の築造が行基にさかのぼることが伝承とし残されてていたことがわかります。

江井島水利組合には,江戸時代の天明年間(1781~I788)に描かれた絵図が残されています。こには、赤根川の川筋は蛇行しつつ河口へ至り、河口付近で大きく東へその流路を変えて表現されています。この河道の南が東西方向に延びる突堤状の島になっていることから、人工的に設けらた船入りのための港であったと推測することができます。また、この絵図には、島の突端部に石積状の堤防が描かれ、「波門」の表記が認められます。地元ではこれを「しようにんさんのはと」とよんでおり、潮が引くと築堤に使ったとされる石が多数見つかり、その中でも大きな石を「馬石」とよんでいたといいます。

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絵図と伝承を合わせて1957年、まだ港が拡張されてない頃の地図にボクが「魚住泊」の場所を書き込んでみたら、赤根川は東に流れ、島になっている部分の赤根川河口の石椋出土場所から漁協前の松材出土の間にオレンジラインの波堤があった。今でも漁協の北側に昔は水路だったと思うような船溜まりもあるし・・・。

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石椋の松材が発見されてから28年も経つのに何故今までC14年代測定法で確認しなかったのかとずっと不思議に思っていたが、当時学習院大学に依頼したC14年代測定法では<1380+-110 A.D.570>6~7世紀と報告されているので文献の10世紀には合致しなかったのだ。

今回の「明石の古代展」に合わせて?最新の測定機材で再鑑定されたのだろう。
1986 (昭和61)年に赤根川河口から引き揚げられた木は、2013 (平成25)年に炭素14の年代測定を工藤雄一郎さん(国立歴史民俗博物館)がおこなって研究した結果、10世紀初頭の年代が与えられ、文献に見る魚住泊に関する材であったことが確かめられました。

地元の神戸新聞に2013/11/9付けで「明石・魚住泊 赤根川河口付近 位置ほぼ特定」と報道されていた。
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参考図書:「明石の古代」発掘された明石の歴史展 図録
  同 :古代の「海の道」石野博信編
  同 :中尾のすがた むかし・いま 黒田義隆
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by pac3jp | 2014-03-16 13:54 | 歴史・民俗