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江戸時代に外国船をサルベージした男

 先日、兵庫県たつの市の龍野歴史文化資料館で開かれている「描かれた船」という特別展を見学してきた。室津の賀茂神社の古い船絵馬が修復されたのを記念して帆船と関連する資料が集めらて展示されていた。

その中で特にボクの興味を引いたのが「長崎蘭船挽揚図解」だった。

 1798(寛政10)年10月、出帆しようとしたオランダ船が急な嵐で長崎港外で沈没した。これを周防国櫛ケ浜村(現、周南市)の廻船業 村井喜右衛門が引揚げに成功し、再び同船を日本から船出させるまでを描いた絵図。この成功は国内だけでなく海外までも知られたという。
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 上の図は全体の流れを描いている。

 嵐で長崎港外唐人ケ瀬で座礁(左下)→マストを倒して浸水した船を港内に曳航している(下中)→やがて木鉢浦まで引き寄せたが沈没→沈没した船を浮上させる(右中)→ 多くの大船・小船が帆をあげ岸近くへ曳く(中)→砂浜に乗り上げ積荷を降ろし修繕を始める(左上)
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↑図は難破したオランダ船を修理している作業場の海上風景である。船の修理用材が肥前の国からやってきた(中上)。マスト材は地元の寺社林から大杉を切り出したという。
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↑図は難破した6000石(900トン)もある大きな木造帆船の引揚げを請負った喜右衛門が考えた仕組みを詳しく図で説明している。

 長崎奉行へ提出した資材リストには、大柱は長さ13尋、廻り6尺余もの2本、長さ8間、廻り5、6尺もの20本、スギ柱長さ6尋もの240本など柱だけで1444本、竹は廻り1尺ぐらいのもの600本、板は長さ6尋、幅5尺、厚さ8寸ものなど60枚、これらをくくりつける綱は苧(お)綱、市皮綱、ヒノキ綱が300本、4斗ダル250個、土俵2000俵、タイマツは5尺〆もの3000把、滑車大小合わせて900余個。など厖大だった。
 作業船は毎日60石積み(9t)を75隻から150隻、作業員は600人前後。柱を船の回りにたて干潮のとき沈没船と引き船を結びつけておき、満潮で浮上すると、すかさず沈没船の下へ土俵をつめる。つぎの干潮でまた同じ作業をするとあった。


 ボクの疑問は何故、長崎で難破した外国船を防州の人間が引き揚げるようになったかだったが、Webで調べてみると、この事件はかなり有名で、サルベージの先駆者として長崎や山口県に多くの資料があった。

 寛政10年といえばまだ鎖国の時代。幕府は長崎を窓口にオランダとだけ通商をしていた。船の年表によれば近藤重蔵が蝦夷を巡視し、エトロフ島に至る。高田屋嘉兵衛が国後島やエトロフ島に漁場を開く。ロシア船が日本の周辺に現れ始めていた頃である。

 その今から約200年も昔、国内ではまだ千石船が運航していた時代に、6000石もある外国帆船のサルベージをした村井喜右衛門の仕事もすごいが、商人の仕事なのにちゃんと現在まで記録が残っているのも素晴らしい。

防州出身のボクのお友達に聞けば、こんな話はきっと詳しくご存知でしょうなぁ・・・。

参考Web:村井喜右衛門

by pac3jp | 2008-03-05 16:57 | 歴史・民俗  

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