阿波沖海戦

 紀伊水道の伊島といえばクルージングやその中継港でよく寄港させてもらっている。そして付近の椿泊や橘湾、牟岐大島などもクルージングエリアとして楽しませてもらっている。

 そんな紀伊水道の伊島“北東海域”で風雲急を告げる幕末の1868年(明治元年)1月3日、今から139年前、そこで日本史上初めて近代蒸気軍艦同士の海戦があった。阿波沖海戦という。榎本武揚指揮の旧幕府最大の軍艦「開陽丸」と、まだ若かった東郷平八郎らが乗り組んでいた薩摩の新鋭軍艦「春日丸」、運送船「翔鳳丸」の3隻が戦ったのだ。
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 前年の12月15日、薩摩が雇った浪人たちの手で、江戸のほうぼうが放火された。放火犯たちは三田の薩摩屋敷に逃げ込むが、庄内藩が鎮圧に出て、フランス軍事顧問団ブリュネ大尉の助言のもと、薩摩屋敷を砲撃した。火災の中、戦いが始まった。やがて浪人と薩摩藩士らは屋敷から逃れ、羽田沖に停泊中であった薩摩の運送船「翔鳳丸」に乗って、江戸湾を脱出しようとした。幕府艦隊のうち、在府であった「咸臨丸、回天丸」の二隻が「翔鳳丸」を追ったが、逃げられた。これが羽田沖海戦、または江戸湾海戦と呼ばれている戦闘である。

 12月28日には、追ってきた「回天丸」が大坂に到着、薩摩による江戸城などの放火が報告される。大阪城内はこの報告にいきりたち、たちまち薩摩討つべしの合意ができていった。その時、薩摩の「翔鳳丸」は兵庫港に逃げ込んでいた。

 鳥羽・伏見の戦いが開始された1月3日、薩摩軍艦「春日丸」、同藩運送船「翔鳳丸」・「平運丸」が兵庫港に停泊し、鹿児島への帰藩準備を進めていた。一方、榎本武揚率いる旧幕府艦隊の「開陽丸」は、大阪湾に停泊して海上より鳥羽・伏見の戦いを見守っていた。

 1月4日早朝、薩摩の軍艦「春日丸」、運送船「翔鳳丸」は紀伊水道に向けて出港した。由良瀬戸を越えた頃、これを追跡していた「開陽丸」が発見、同時に「春日丸」も「開陽丸」を視認した。速度の遅い同行の「翔鳳丸」を曳航しょうとするが、速度が上がらず、追撃の「開陽丸」に追いつかれてしまう。午後2時過ぎ、「春日丸」は「翔鳳丸」の曳き綱を切り、単独で戦うことに決断した。そして大きく回頭し、太陽を背に交戦体制に入る。

 距離2500m、「開陽丸」が十六サンチ施条カノン砲の初弾を発射した。砲弾は大きな弧を描き「春日丸」の左舷15mのところに落下。準至近弾だ。「春日丸」も百ポンド砲が火を吹き「開陽丸」の手前20mに着弾。大きく揺れる外洋の波の中で砲の照準合わせに必死に取り組む。両艦は互いに1200m~1500mの距離から「開陽丸」は25発の砲撃を加えた。相手の「春日丸」は18発の砲を放ったがどちらも大きな損害には至らなかった。
 片舷の艦砲を撃ち終えた「開陽丸」が回頭している隙に艦の火力に差がある「春日丸」はその俊足を生かして戦場を脱出する。またもや「開陽丸」が追跡するが、最大速力が5ノット以上もの違いは大きく、やがて春日丸は無事薩摩に帰還した。

 一方、「翔鳳丸」は多島海の橘湾に隠れようとしたが叶わず、土地の漁師を雇い土佐の甲浦を目指すが、船の故障で難所、蒲生田岬をやっと越え由岐浦にはいるが操船を誤り座礁、そして折からの強風にあおられ湾口にある「へらの島」の岩礁に乗り上げ大破。制海権を持つ徳川艦隊の追っ手を恐れて、彼らは翔鳳丸に積み込んできた江戸の薩摩藩邸からの貴重品共々弾薬庫に火を放ち自爆し、自分たちは小船に分乗して日和佐、甲浦へと脱出していった。

 このように阿波沖海戦の場面を回想すると殆どが一度ならず寄港した港だ。翔鳳丸が最後に座礁した由岐浦は今でもそう大きな港ではない。湾口に「へらの島」が外洋の大波を防ぐ天然の防波堤になっている。でも島の北側は危ない暗礁地帯で初めて入るには海図がいる海だ。
 この前、由岐に行ったときはサーファーが大勢で波乗りを楽しんでいる。ヨット乗りは島影で錨を入れてお昼寝をする。ヤッパリ平和な時代が一番いいなと思った夏の日だった。
 
開陽丸:排水量2817t、長さ約72.8m、エンジン400馬力、スクリュー2軸、
    備砲計26門、速力10ノット
春日丸:排水量1015t、長さ74m、エンジン300馬力、外車2基、
    備砲6門、速力17ノット

【参考図書】:「軍艦 開陽丸物語」 脇 哲著
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by pac3jp | 2007-02-26 11:12 | 歴史・民俗  

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