B29の落し物

c0041039_171453100.jpg 毎週ハーバーに通う道沿にある鋼材会社の塀際に変な物がぶら下がっているのを見つけた。角柱に「B29の忘れ物 1945年」と書かれていて、直径40cmと50cm位の鋳物の円盤と滑車状のものが2個ぶら下がっている。何の為の部品か分らないので近くの人に聞くと、「この会社の社長さんがB29の神戸大空襲の時にひらったものらしいよ」と教えてくれた。現在それがぶら下がっている場所は埋立地なので何処か以前に住んでいたところから持ってきたのだろう。


 そして最近、渡辺謙主演の映画「硫黄島からの手紙」を見た。太平洋戦争後期の上陸作戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った唯一の戦闘であったといわれている。アメリカはどんな犠牲を払ってでもB29の為に硫黄島を占領したかったわけだ。

 1944年夏、アメリカ軍はマリアナ諸島を攻略し、11月以降B-29による日本本土への長距離爆撃を開始した。しかし硫黄島は日本本土へ向かうB-29を無線で報告する早期警戒拠点として機能しており、またマリアナ諸島からの出撃では距離の関係上、護衛戦闘機が随伴できなかった。また、 日本上空で損傷を受けたり故障したB-29がマリアナ諸島の基地までたどり着けず海上に墜落することも多かった。そして、しばしば日本軍の爆撃機が硫黄島を経由してマリアナ諸島の基地を急襲し、地上のB-29に損害を与えていた。とりわけ、12月にはイスレイフィールドのB-29爆撃機11機が破壊され8機が大きな損害を受けた。

 アメリカ統合作戦本部は、日本軍航空機のサイパンへの攻撃基地の撃滅、硫黄島レーダー監視所による早期警報システムの破壊、硫黄島を避ける為の爆撃機の航法上のロスの解消、損傷爆撃機の中間着陸場と長距離護衛戦闘機の基地として、硫黄島の占領を決定した。フィリピンにおけるレイテ島の戦いが終わりに近づくと、沖縄侵攻までの2か月間に行う作戦計画として硫黄島攻略が決定された。進攻作戦は「デタッチメント作戦」と名付けられた。

 硫黄島の奪取によってアメリカ軍は日本本土空襲の為の理想的な中間基地を手に入れた。終戦までの間に2,251機のB-29が硫黄島に不時着。その全てが技術的な問題を抱えていたわけではなかったと思われるが、それにしても延べ2万名以上の乗員の生命が救われたとされている。
 アメリカ陸軍航空空軍の中で実際に爆撃機を運用していた各爆撃兵団の司令官達は、単発戦闘機の長距離護衛を面倒なお荷物としてかなり低く評価していたが、現実的には双発の邀撃機の活動を昼間は不可能にしたばかりか、日本軍戦闘機の邀撃を困難にした。活動を本格的に活発化させたアメリカ軍各爆撃兵団は、東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施し、あわせて約10万人の市民の生命が奪われた。(ウィキペディア(Wikipedia)硫黄島の戦いより)

 ボクが生まれた明石には大きな川崎航空機工場がありがあり、戦争末期にB29の大編隊の空襲にあい、周辺の人たちを爆撃の後片付けに動員したそうで父親からそのときの悲惨な状況など聞いた覚えがある。そういえばボクの子供の頃、その工場周辺にまだ高射砲陣地の土塁が残っていたなぁ。

 街角にある「B29の忘れ物 1945年」の標柱がどんな意図で作られたのか持ち主からお聞きしたわけではないが、戦時中とはいえ実際に米軍のB29による都市無差別爆撃で非戦闘員の一般市民が多数犠牲になったことは間違いないのだ。
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by pac3jp | 2007-01-15 17:23 | ウオッチング  

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