95年前に太平洋を帆走で渡った男

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密航漁夫 吉田亀三郎の生涯 小島 敦夫著 を読んだ。

 ジョシュア・スローカム船長は1895年に自分の為にスプレー号で世界一周の航海に出たが、日本では個人が自分の意思で太平洋を帆走し、アメリカに渡ったのは1962年の堀江青年が最初かと思っていたが、1912年(明治45年)四国、愛媛の帆走漁船を使ってアメリカに渡った男たちがいた。

 彼らが、太平洋を渡ってアメリカに行こうとしていた1912年の時代背景はこうだった。
 日本では日露戦争が日本の勝利で終わり、日本人そして、軍が大陸に進出しようとしていた。また、北米では日本人の労働移住の制限が厳しくなってきていた。海洋ではタイタニック号が氷山に衝突して沈没した年でもあった。

 彼らは、船主で漁師の吉田亀三郎を始めとする5人が、1912年5月5日に持ち船で住吉丸という全長10mの「打瀬船(底引き網で漁をする帆船で、船体は伝統的な和船構造だが、水密の船倉が装備され、3本の帆柱に中国式の帆2枚を用いたもので前後のやりだしは取り外していた)」で愛媛 川之石港を出発、一路ワシントン州シアトル市を目指したが、76日後の7月19日、着いたところは目的地より南へ2千キロ離れた米国サンディエゴ市北郊のフラットロック海岸だった。

 やっとたどり着いた海岸で船が難破し、全員で北を目指して歩いていた所を通報されて移民局の係官に正式な手続きをせずに入国した疑いで逮捕拘留されてしまった。その後裁判をうけ、故国へ強制送還されてしまうことになった。
 (だが、翌年、東行丸で大圏コースをとり、カナダ中部沿岸に上陸を果たすことができた)

 彼らの目的はアメリカ、あるいはカナダで働くことだったが、規制が強くなり、密航するにしても通常の手段では渡航が難しくなり、かって、この宇和の海で培ってきた打瀬漁船とその航海技術をもって大きな太平洋を渡ってやろうと思い立ったのだろう。

 彼らに太平洋を渡れそうな船はあったが、安全な航海を保証する当時最新の航海計器は勿論ない。和式の羅針盤は持っていたようだが、正式に大洋の航海術を学んだ事もない。
 自己の判断と技量だけを頼りに生命をかけて行動を起すことこそ、人間にとって、真の意味で「勇気」と言うべきものである。そしてそのような行為こそが「冒険」と呼ばれるべきである。 
・・・とこの本の著者も言っているが、航海は推測航法と緯度高度航法でアメリカをめざしたようである。まず、愛媛から日本列島を北へ向かい、北緯35度の房総半島から北太平洋海流に乗り太平洋を渡り北緯47度のシアトルへと思ったらしい。だが、この海域でハワイまでは上りの風も多く、タックを重ねる内に船位を見失ったのだろうか、前述のように太平洋は無事に横断したが、目的地からかなり南に到着してしまう。

 この住吉丸の航海は、今知られている限り、日本人が個人の船で自主的に成し遂げた最初の太平洋帆走横断だったが、残念ながら、その時代が彼らを海洋の冒険航海者としては許さなかった。

 50年後の1962年 ヨット、マーメードで密航しきた堀江青年をアメリカ人は海の冒険者として大歓迎してくれたのだったが・・・。

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 ヨット乗りの読者の皆さんはキールのない和船タイプの漁船が、真上りの風が吹く太平洋を走れるのかと疑問があると思うが、船をヒールさせることで、チヤインがキールの代わりをするらしく当時の熟練の打瀬漁船の船頭さんはヨットと同じ、45度までは上れたといわれている。
 だが、風の弱い時の上りはというと、ヒールを付けるために荷物やバラスト代わりの石を風下に移動したのかなと思っている。エンジンがなかった頃の旅の帆走漁船は「タックの度に重いバラスト石を移動させていたよ。」と聞いたことがあったから。
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by pac3jp | 2006-02-03 10:24 |  

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