日本の船(海から見た日本史) 画 谷井建三 解説 谷井成章

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 表紙は平成22年度NHK大河ドラマのハイライトだった慶応4年(1867年)坂本龍馬の海援隊が運航する「いろは丸」と御三家・紀州藩の「明光丸」が六島沖で衝突した現場が描いてある。

 船のイラストを描かせたたらどう見ても一番だろうと思っている谷井建三さんが小さな和船のイラスト集を故郷の富山・魚津市で出版されたので、つい最近買い求めた。 A-4版 39ページ 定価1,000円(送料など必要)

 和船系の書籍ではモノクロのイラストで表される和船の図を谷井さんが描くと、色彩豊かに船と背景、それに人物が配され誰にでもそのフネの大きさがちゃんとイメージできてとてもわかり易い。

 ページを繰っていると江戸中期の田沼意次の終わりの時代、天明6年(1786年)に建造された1500石積の「三国丸(さんごくまる)」が冬の日本海を間切り航行している絵があった。
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 三国丸は輸出用産物である俵物(干しあわび、フカヒレなど)を専門に運ぶ廻船で長崎~日本海経由の蝦夷地交易に従来の年1回の航海から冬季も運航をする海運の合理化を図るため耐航性のある新型廻船として幕府が建造した。ジャンク式の隔壁と肋骨が入った船体構造、舵は弁才船の吊り下げではなく楫釣木で支持する洋式、ジブ・スパンカーなど洋式帆装、そして和式の総屋倉を持つ和洋中の折衷船である。

c0041039_612399.jpg たった一隻だけ建造された折衷船「三国丸」の外観図は日本にはなかったのですが、ルイ16世から太平洋の探査を命じられフランス海軍大佐ラ・ペルーズ率いる艦隊は、日本海を北上中の1987年6月、隠岐の北東海上で日本船2艘に遭遇しました。ブロンドラ海軍中尉が目と鼻の先を通過した1艘の絵を残しています。特異な船首の洋式の補助帆と船尾廻りの形状からして、この船に該当するのは三国丸以外にはありえません。画家の観察眼は鋭く、一瞬すれ違っただけなのに三国丸の特徴が見事にとらえられています。
(ミツカンWeb「和船の技術と鎖国の常識」より)

 家康以来の農本主義が行き詰まってきた徳川幕府が財政改革のため、老中田沼意次の手により重商主義に大きく舵を切った時代だった。北方からはロシアが通商を求めて南下してくる。

■天明3年(1783年)仙台藩の工藤平助が著した「赤蝦夷風説考」により国防の緊急性や蝦夷地の金山の開発などを老中に建白。結果、老中田沼意次は丈夫な調査用新造船二隻を建造し蝦夷地に最上徳内らの調査隊を送ることにした。しかし、船は調査がすめば民間に払い下げ、建造費の一部を回収する。それに蝦夷地には空船では危険とかで往復とも交易品を積むとかして抜け目なく、総経費三千両でもって請負人の全責任おいて運用するという民間委託のようなかたちがとられた。

■天明5年(1785年)蝦夷地調査隊 江戸を出帆。

■天明6年8月(1786年)田沼意次罷免 長崎~蝦夷航路に「三国丸」就航した同じ年だった。

■天明8年(1788年)三国丸は完成からたった3年目に能登沖を航行中に暴風に遭い、乗組員は伝馬船で飛島に逃れ、船は出羽国赤石浜に漂着して破船した。

 田沼意次の失脚で政治はまた質素倹約の農本主義に逆戻りし、新しい機構を盛り込んだ新型廻船「三国丸」の同型船がもう造られることはなかった。


【参考Web】:谷井建三と成章のアート塾
【参考Web】:ミツカン水の文化センター 和船の技術と鎖国の常識

【参考資料】:和船Ⅱ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2011-01-23 06:24 |  

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