中世 瀬戸内海の海賊 其の1

 神戸大学海事博物館の市民セミナーは「・・・江戸時代海路のにぎわい」をテーマに5回開催されたが、その内3回は中世の海が舞台のお話しだった。そして最終回は「しまなみ海道は海城ゾーンだった」とおっしゃる山内先生が語る「瀬戸内海の海賊」のお話を興味深くお聞きした。

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 芸予諸島は大阪湾から広島や松山方面へクルージングする時は必ず通過するエリアだがまず、最初にエリアに入る航路を決めなければならない。大型船は来島海峡になるが、小型船やヨットなどは伯方島と伊予大島の鵜島間にある急潮で有名な「船折瀬戸」を通過する。
 ボクも最初は連れ潮で入り、水路の真ん中に洗岩があったり狭い瀬戸なのにクランクに折れ曲がり「船折れ」とその名前も怖いなぁ、港湾案内には初心者は潮どまりに通過せよとか書いてあったし・・・、と緊張しながら通過したものでした。

 その船折瀬戸の突き当たりに周囲800mというとても小さな島がある「能島(のじま)」だ。その昔「日本最大の海賊」と宣教師フロイスが報告した能島村上氏の本拠だった能島城があった島だが、いつ通っても早い潮流や対向船が気になり島を詳しく観察も出来なかったのが残念だったが、一度は上陸して見たいと思っている。
 また近くの見近島にも海城の遺構が発見され陶磁器も数多く出土されていることから交易の拠点だったのではと考えられている。

 船折瀬戸を西へ抜け宮窪瀬戸に出ると伯方島と大三島の間の南北水路が最大8ノットもの急潮が流れる鼻栗瀬戸がある。古くは鼻繰瀬戸と牛の鼻輪に例えられるほど狭く屈曲したさまを表した名前だったとかいう。地図で見ると広いように見えるが実際非力なヨットで通過すると潮の流れが渦を巻いているようで船折瀬戸と同様緊張する時間だった。

 こんな難しい瀬戸を昔のエンジンを持たない船がよく通過できたなあと感心するが、一方海賊衆はその海域の潮の流れを熟知し自由に行動できるノウハウを持つので通行料の徴収など海賊業が可能になってくるのだろう。

 そして戦国時代まではこれら海の難所にはちゃんと海賊たちも生息していた。その本拠はそれぞれの海城で能島村上氏、来島村上氏、因島村上氏と近くの島々で活動していた。海賊衆の本拠は小島に築かれた海城で、外敵には海面に守られた城で、海面が土塁、激しい潮流が堀であったという。

 やがて時代とともにこれらの有力な海賊衆は毛利、河野、大友など戦国大名の海上兵力として組み入れられ、水軍として活動してゆく。(続く)
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by pac3jp | 2010-11-23 18:49 | 歴史・民俗  

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