伊能中図・伊能小図

 体育館のフロア一杯に2万6千分の1サイズの大図が並べられている一角に中図(1:216,000)8枚と小図(1:432,000)3枚が並んで展示されている。これらは大図と違って地図記号のほかに経緯度線と岬、山など遠方の目標からは方位線が引かれより地図らしさがある。

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 画像手前がフランスで発見された伊能中図。右上が伊能小図、この図の半分の大きさのでカナ書きされた特別小図がシーボルト事件で問題になったなど幕末の日本でこれらの図がいろんな騒動や事件に絡んできた。

中図 
 この8枚組の図はペレイ図といい、パリ郊外に住むイブ・ペイレ博士がディジョンの近くの小さな町に持っていた別荘の屋根裏を整理していて1970年頃に発見したもので針穴のある副本だった。描画、色彩、保存も優良で記入内容も充実している。でもなぜこのような優れた伊能中図がフランスに渡ったかは不明。

 筆者(渡辺一郎さん)の推測によれば、幕末、幕府にはフランスの軍事顧問団が雇われていた。徳川幕府の崩壊で幕府艦隊を引きつれ江戸を脱走した榎本武揚と共に函館に渡ったフランス軍人大勢いた。それに榎本武揚の父親は伊能測量隊員だったので当然その地図の存在は知っているはずだし、江戸から東北、北海道と転戦しながら航海するためには正確な地図は是非とも必要なため江戸城から持ち出したのだろう。やがて五稜郭も落城し、フランス軍人も故国に帰えることになるが敗戦で何も上げる物がない武揚は伊能中図を差し上げたのかもしれないと・・・。
 当時函館で戦ったフランス軍人のなかには本国で陸軍大臣や将軍に出世した人もいたという。

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小図 
 この3枚組の図は昌平坂学問所に伝存したものが東京国立博物館で見つかりその針穴がある副本を修復(重文)したものから作成された。

 攘夷だ開国だと騒がしい幕末の1961年(文久元年)、アクティオン号を旗艦とするイギリス海軍の測量艦隊が来日し沿岸測量と測探を行った際、監督の幕府役人が持ち込んだ伊能小図を艦長のワード中佐が見て、その優秀さに驚き、幕府に依頼して同図を譲り受け、沿岸測量を中止して引き揚げた。
 そして、1863年(文久3年)イギリス海軍水路部は伊能小図をもとに「日本政府の地図から編集」と明記して「日本近海の海図No.2347」を大改訂した。このときの伊能小図は英国海軍水路部に現存し、グリニッジの海事博物館に保管されている。

 この話はよく聞いていたのでどんな地図を渡してうるさいイギリス海軍を引き下がらせたのだろうと思っていたがやっと現物(複製)を見て念願がかなったなあ。

 長州が英米仏艦隊と交戦した翌年、1865年(慶応元年)勝海舟が幕府開成所より伊能小図をもとにして初めて「官板実測日本地図」(木版刷り)を発行。

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伊能中図による明石海峡付近(クリックすると大きくなります)

 海岸沿いにお馴染みの地名が並んでいる。伊能隊は大蔵谷と須磨それに淡路・岩屋で天測したの星マークがある。神戸西区の雄子山、雌子山から淡路島・江崎と岩屋に方位線が引かれている。現在の山名とは入れ替わっているが図の東側の少し高い雌岡山(めっこ山)から岩屋港は353度、雄岡山(おっこさん)は359度だ(真方位)。当時の江戸には偏差はなかったし、隠岐でE2度くらいだと聞いいていたので較べてみたいと思っているが和磁石の読み方と図の字が少し崩れているともう苦労する・・・。

 現在の地図ならば明石に東経135度の子午線が通っているが当時の日本は京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準としたのでこの当たりに経緯線は書かれていない。


【参考資料】:伊能忠敬の全国測量 渡辺一郎 編著 伊能忠敬研究会 発行
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by pac3jp | 2010-09-11 18:23 | 歴史・民俗  

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