進徳丸メモリアル(1)

c0041039_8471742.jpg 神戸高等商船学校の初代進徳丸は華麗な帆船として生まれ、戦争の時代に汽船となりやがて陸に上がり神戸商船大学のモニュメントになったのだが、ボクの通勤コースの道路からもずっと見えていた。
 その後、阪神淡路大震災で進徳丸が倒壊し解体されてしまったことは新聞などで知ったが、被災地域に住居も職場もあったボクはもう自分の事でセイ一杯ですっかり忘れていたが、ある日小さいメモリアル施設に生まれ変わっていることに気が付いた。

 一度は行って見ようと思っていたが先週やっとその機会がきた。

 ボクにとって進徳丸の名はずっと身近な存在だった。それは昔、母からよく聞かされた話があったからだった。

 「戦争中、西岡(集落名)のすぐ沖の進徳丸に毎日のようにグラマンが飛んできて機銃掃射し、船の人がようけ死んだったんよ」、そしてグラマンの不発弾が村のあちこちにばら撒かれ「庭掃除をしていたお寺の人が不発弾の爆発で亡くなったこともあるんやで」と任意欄座した進徳丸の空爆の様子をよく教えてくれた。

 記録にある進徳丸が欄座した位置からボクの実家との直線距離を測定すると半農半漁の小さな部落を挟んで僅か500mほどしか離れていない。グラマンの編隊がもう動けない進徳丸を狙って急降下し、機銃掃射やロケット弾で攻撃する轟音は周囲の住民に恐怖の音として聞こえてきたのだろう。ボクも防空壕のなかでその音を聞いていたはずだが今では全く覚えてない。

戦時中、緊急物資の輸送として石炭輸送に従事していた昭和20年7月24日正午頃、二見沖停泊中、米軍の艦載機の機銃掃射とロケット弾による空爆を受け甚大な被害を被り、沈没を免れるため任意欄座した。この空爆により死亡者6名(実習生5名、乗組員1名)、重傷者6名(全員実習生)の人的被害を被つた。空爆は31日まで続き船体は無数の銃弾を受け全焼した。火災により当時の公式記録はすべて焼失した。二見港沖方位124度、距離420mの地点であった。
終戦1年後の昭和21年(1946年)7月31日に引揚げ作業が始められ、8月19日浮上、8月24日三菱神戸造船所に曳航され、修理が施された。翌昭和22年(1947年)5月30日汽船練習船「進徳丸」が甦った。
(神戸商船大学 海技実習センター年報 第2号 平成13年3月30日より)


 もう日本がほとんど降参していた昭和20年7月、終戦の20日前に、商船学校の練習船を執拗に空爆した米軍も非常識だが、無念にもお亡くなりになった若い学生5名と乗組員1名のご冥福をお祈りします。

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by pac3jp | 2010-08-12 08:04 | 帆船  

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