室町時代の遣明船

 兵庫県立考古博物館で大手前大学・小林先生の「山名氏と室町幕府」と題する講演を聴いてきた。えらい人気で開演30分前には会場に到着したのにもう殆ど満席だった。中世の歴史に興味があるのだろう結構若い人たちもいる。定刻前には追加したイスにも座れない立ち見の客さんが大勢いた。

 内容は山名時熈から持豊(宗全)にいたる時代が中心のお話だが、恐怖政治をした将軍足利義教や播磨守護だった赤松満祐の嘉吉の乱などで聞き覚えのある名前が出てくるので古い出来事でも身近に感じられる。

 レジュメに永享6年6月 山名時熈、日明貿易で不正疑惑で政治力後退 という項があった。

 記録によると前年、義教が再開した第8次遣明船団が 永享5年(1433年) 正使を龍室道淵とし、幕府・相国寺・山名氏・大名寺社十三家・三十三間堂らが共同で船団を送っている。この航海で山名氏に不正があったのかも知れない。

 遣明船は室町時代の応永11年(1404年)から天文16年(1547年)まで約1世紀半で17次(のべ84隻)に渡り、日明貿易(勘合貿易)に用いられた船のことである。

 遣明船は遣唐使船のように歴史上の著名な人物が航海で苦労した物語が後世に伝えられ、21世紀の現在、各地に復元遣唐使船が出現するほど有名ではないが当時の貿易船として室町幕府や守護大名、有力寺社などの重要な収入源にはなっていた事は確かである。

 遣明船はどんな船だったかは興味がわくが、実はよく分らないらしく史家は15世紀の史料や絵図から想像するという。
 『真如堂縁起』の「円仁を乗せて帰朝する遣唐使船」が切手などで遣明船のモデルにされていますが、下の絵も同時代の絵画で遣明船をモデルに描かれた可能性があります。
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 ↑画像は神功皇后の軍船(神功皇后縁起 永享5年)となっていますが船尾に黒く見えるのが刳船部材だというので準構造船ともいえるのですが構造船にいたる前棚板造りの船でしょうね。絵師が将軍義教に同行して兵庫で再開第一次の遣明船を見送った時に写生した遣明船をベースに兵士を配し神功皇后の軍船として描いた可能性があります。
 当時の絵画は時代考証などは一切なく描かれた当時の風物をベースに過去の想像図を描いていたといいます。ちなみにこの船の艫を押している白い装束の人物は住吉明神だそうです。

 遣明船は当初から対外貿易用に建造された大型商船を外交使節や商人などの居室用の屋形を増設するなど大規模改修を行って用いた。大きさは150人から200人の乗員に加えて食糧、貿易商品などを搭載したので1000石~2500石積くらいの大船だったと思われる。

 航海は兵庫から瀬戸内海を通り、博多に集結し準備を整え渡海するのが常だった。季節風を利用し春は南方の五島奈留浦から、秋は北の肥前大島小豆浦から寧波(ニンポー)を目指しました。帰りは夏に多い南西の季節風を利用した。風が悪ければ翌シーズンを待つ慎重さもあったという。
 応仁乱以降は堺から四国南岸をまわり九州を迂回する南海路も開かれます。これには勘合貿易の権利を争った細川・大内両氏の対立が激化したことが大きいが安全性や経費の面では瀬戸内経由の方が優れていた。

 それに航海技術の進歩があった。12世紀前期には中国船は磁石を航海に用いているので頻繁な交流があった日本船も15世紀には一般的に磁石が用いられはずで格段に航海の安全が向上していたのでしょうね。帆は莚帆だったが当時は高価だった高性能な鉄の錨が装備されていた。

【参考文献】:「日本の船」和船編 安達裕之著 船の科学館 
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by pac3jp | 2010-06-09 11:43 | 歴史・民俗  

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