弁才船の舵

 明治以来、西洋船に較べ弁才船が荒天時の耐航能力が劣るのは巨大な舵が引き上げ式になっているのも弱点の一つだといわれていた。

 しかし、和船は昔から大きな川の河口港や静かな湾奥の港などを多く利用していたので必然的に港は水深が浅かった。そんな港では大型の廻船は満潮だと出入りが出来るが干潮だと船底が海底について動けなくなる。幸い弁才船の船底は平たいのでそのまま海底に座っているが、舵は船底より深いのでそうは行かない。

 そんな日本の港湾事情から港に入ったらすぐに舵を引き上げるということは、浅い港の多さが生んだ船乗りの知恵だということになっている。
 江戸時代には桟橋に廻船が横付けなんてことはなく、天下の江戸ですら品川沖で沖懸かりしていたし、近世最大の港湾都市大坂でも安治川や木津川に入って碇泊していたから荷役はすべて瀬取船で行っていたのだ。

 下の図が江戸時代における弁才船の舵の変遷である。
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 17~18世紀初めまでの舵の面積は軍船などと同じくらいの大きさだった。(右端、帆と櫓走を併用していた時代)
 18世紀以後、弁才船の帆走専用船化が徹底するにともない舵面積が大きくなり、やがて19世紀中頃(幕末頃)には左端のように巨大化していった。

 舵の大きさは1000石積では身木(ラダーシャフトの部分)の太さは鷲口(船床梁の凹部)にはまる所で直径50Cm 、長さは約10m、1800石積みでは長さは12mに及んだ。身木の下半部に羽板がありその下の桟の長さが1000石積では3mでその面積は6畳敷きの大きさになる。

 この大きな舵面も操縦性の必要があって大きくなってきたのだ。内航船だった弁才船は微風でも狭い入り口の河口港や港に曳き船なしに入出港する必要があり、そのためには操縦性の確保が一番だった。それに逆風時には頻繁に間切り航行をしたので横風帆走時のリーウェイの防止にも効果があったという。

 舵面が大きくなると操舵が重くなるのが欠点だが、図を見ると時代と共に身木が曲がってきている。それによって現在のバランスド・ラダーのように操舵力を軽減する方法が考えられている。確かに舵面の身木の前にもバランス分がついている様である。
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 上の画像は1500石積以上の北前型弁才船の帆柱から後、艫の部分だが人間の大きさと舵の身木の高さとそこから伸びる舵柄の長さにも驚く。
 こんな巨大な舵は直接舵柄を持たずに滑車と轆轤で操船したのでしょうね。

 レーシングヨットのラダー形状は大きな物から段々と細く、そして長くなってきたようだが、内航用帆走貨物船の弁才船は小さい舵から段々大きくなってきたんですね。
 そんな巨大な舵をもつ船に新酒を満載して西宮から江戸への一番乗りを競う新酒番船での過去最高は寛政2年(1790年)の57時間、平均6.6ノットだったという。重い酒樽を満載し、北西の強風をうけて2日ちょっとで江戸まで突っ走っていますが、甲板での操船はさぞ大変だったろうと想像しますね!!


【参考文献】;和船Ⅰ 石井謙治著 法政大学出版局
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by pac3jp | 2010-03-20 13:28 | 帆船  

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