弁才船(べざいせん)の帆走

 江戸時代の寛文年間に河村瑞賢により東回り、西回りの航路が開発され各地の年貢米が海上輸送で大坂・江戸にと大量に運ばれるようになってきた。その後、物流の増加で大坂と江戸を結ぶ航路には菱垣廻船やお酒を専門に積み込む樽廻船など大型の弁才船が競って運航するようになり、大消費都市・江戸を支える物流の大動脈になっていった。

 船が帆走で競えばレースになるのは今も昔も同じで、江戸時代から明治時代の初期まで毎年行われていました。菱垣廻船の新綿番船と樽廻船の新酒番船がそれで、到着の順番を競うところから当時は番船を「ばんぶね」とよんでいた。番船は順位が賭けの対象になるほど人気を集めた年中行事でした。

 特に樽廻船は我々の地元兵庫・西宮沖から一斉に出帆し、江戸・品川までを競う。その船頭に切手を手渡す切手場周辺はで大勢の見物人でにぎわったそうです(絵にもよく描かれている)。船頭が切手を受け取り西宮沖に碇泊する番船に力一杯に漕ぎ戻り、出帆となりレースは始まる。
 過去に一番早かった新酒番船は寛政2年(1790年)の57時間、平均6.6ノットだった。18世紀に入ると5日前後の記録はざらだったという。ヨットレースと大きく違うところは貨物を満載している状態で走らせていることで、この番船が弁才船の帆走技術の向上に大きな刺激を与えたことは間違いないでしょうね。

 横帆船は逆風帆走は出来ないなどの風評もあったが、現代の復元・菱垣廻船「浪華丸」の試験航海では風に対して70度まで上ったという記録もあるし、当時でも風上への間切り帆走も行われていたという。

 所で、下の2枚の船絵馬をご覧になりどちらが詰開き(上り)帆走かお分かりになりますか。この絵は当時有数の船絵師が描いた船絵馬で正確に書いてあるということです。当然、もう一方は追風帆走です。

 ヒントはセールの左右にある両方綱の取り方に注目。
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 弁才船は一般的には千石船とも呼ばれていて、一千石のお米を積載出来る船で、もう18世紀中頃の幹線航路では普通のサイズとなっている。
 その後、年とともに大型化が進み幕末の19世紀中期には1500~2000石積みの船も珍しくなくなってくる。ボクが持っている千石船のイメージは復元された千石船「浪華丸」くらいのサイズだが、実際に幕末から明治にかけて内航の幹線航路で運航されていた弁才船はその倍も大きかったわけだ。

 明治の頃の写真をみて大きさと貨物の積み方にびっくりした。

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 写真の説明には、北前型弁才船で1357石積の八幡丸。日露戦争中(1904年)にロシアの水雷艇に撃沈されたとある。


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【参考資料】:日本の船 和船編 安達裕之 著 船の科学館
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by pac3jp | 2009-04-04 17:20 | 帆船  

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