遣唐使船の島 広島・倉橋島

 久し振りに神戸・元町の海文堂書店に寄った折、二階の海事関係の書棚で小さなタウン・マガジンを見つけた。雑誌名は「港町から」そして「瀬戸内海 倉橋島」を特集した創刊号のようだ。副題に遣唐使船の島と書かれている。

c0041039_13571620.jpg 倉橋島は九州方面クルージングの途中で数回寄港したことがあり、そこには古くは遣唐使船を建造してきた古代から木造船に関わってきた島の歴史が展示されている「長門の造船歴史館」があり、施設の中央には復元された遣唐使船が展示されていた。
(画像は復元遣唐使船の模型)

 遣唐使船は奈良~平安時代の1200年も昔、平均して一隻に150人が乗り組み4隻船団で600人が南シナ海を渡っていったと聞いていた。それを見て、150人乗りとしてはボクの想像よりもずっと小さかったが船体のつくりが立派なのが驚きだった、それに遣唐使船の派遣が菅原道真の建議で中止になってからその造船技術は全く途絶えてしまったという。そんな資料が乏しい古代の船舶をどのようにして復元したのだろうとズーッと思っていた。

 そんな疑問も見つけた小さな雑誌でみんな解消した。

この↓復元遣唐使船は20年前「'89海と島の博覧会・ひろしま」のメイン展示物として建造された。
c0041039_13581165.jpg
長さ :25m
幅  :7m
帆柱高:17m 
平成元年(1989年)建造

 「一枚の絵巻から復元した遣唐使船」には 設計及び建造監修者 松木 哲さん(神戸商船大学教授=当時)に取材した記事があり設計の意図も分かった。絵巻は吉備真備が乗った遣唐使船を描いた有名な法隆寺の絵巻「吉備大臣入唐絵詞」のイメージで外観は設計された。船の大きさは、一人寝るには畳み一畳は必要というところから100人~120人が同時に寝るとすると大体25m位の大きさになる。当時の中国船も凡そ25m位だったのでそれにも倣った。

 船体構造については、遣唐使船も前期は壱岐・対馬から朝鮮半島の沿岸を航海できたので内海用でも良かったが、白村江の戦い以降は友好国だった百済が新羅に破れたので外洋を航海し、唐に直行しなくてはならなくなり遣唐使船は耐航性のある構造船に変わっていったと考えられる。

c0041039_13585415.jpg 最初、復元船は展示物なので一番大事なのは外観だ、ということで内部構造は地元の船大工さんが手馴れた木造機帆船の構造になった。そして建造は桂浜の洋式ドック跡(画像右)で始まった。
 この建造を取り仕切った船大工の棟梁はフレームは全て檜、外板は杉、それも最高の日向弁甲を選び、棟梁以下船大工12名、槙皮職2人、帆職人、宮大工など17名のスタッフで8ヶ月にも及ぶ建造に取りかかった。

 やがて、船がドックでその姿を現せてくると展示物は海に浮かべようということになり本物の船になってしまった。その時期、広島で和裁教室を開いていた女性から「自分の70歳の記念に当時の衣装を全部作って差し上げましょう」という申し出があり、わざわざ京都まで調べに行って正一位から漕ぎ手までの衣装を作ってくれた。
 そして、はれて進水の日を迎え、鮮やか船体を海に浮かべ会場に向け出航するときには、古式豊かな古代の衣装に身を包んだ関係者達をのせ瀬戸内海を航海していった。船上には最高位、性一位に衣装に太刀を佩いた設計者の姿もあった。

 そんな復元遣唐使船も今は倉橋町の「長門の造船歴史館」に保存展示されていて、地元は遣唐使船と倉橋に関する歴史と文化を「くらはし遣唐使まつり」などで次代に伝承してゆくという。


【関連記事】:古い碇
【関連記事】:「合いの子船」 
【参考資料】:「港町から」第1号 08年10月30日発行 株式会社 街から舎
[PR]

by pac3jp | 2009-02-25 14:18 | 特殊船  

<< 前方ソナー(Forward l... プーアール茶(黒茶)をご馳走になる >>