小野友五郎と福沢諭吉
でもマイナーな海事史学の立場からみれば今でも小野友五郎や赤松大三郎は有名だしその航海術には評価が高いが・・・。
小野友五郎について書かれた中公新書「咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート」の中で若い頃の福沢諭吉の興味ある行状の記述を見つけた。著者の藤井哲博氏はもと海軍中尉で零戦搭乗員、かつ理学部物理学科で原子炉技術者という異色の経歴をおもちの方である。
福沢諭吉は小野に特に頼み込んでの外国方通訳としての随行であったが、彼は終始使節団にとってはお荷物となった。彼は前二回の洋行経験と英語能力をもって友五郎に随員として採用してもらったのだが米国に渡ってみると、彼の英語力は、今日の観光英語の程度でとうてい公務の遂行には役にたたないことがわかった。彼の仕事は翻訳方つまり書記官の役だが、日米往復文書の翻訳をやらせてみると、英文和訳はまだしも和文英訳のほうはてんで駄目で彼の訳文はとても公用文として使えるものではなかった。それに彼は私的なアルバイトが本当の目的で使節団にただ便乗していたのだった。
翻訳や通訳は他の能力のある団員に任せ、周囲の負担を増やさざるを得なかった。福沢は、任された為替が現金化できない、雇った現地人に公金を持ち逃げされる、託送荷物の荷揚げ交渉に手間取り将軍から大統領への贈り物が間に合わないなどのまったくの駄目ぶりである。
小野は福沢に、幕府の公的な必要書籍の購入を命じる。彼は幕府の公共物と自分の私物を一緒にして、卸値で購入する。そして卸値と小売の差額をコミッションとして自分くれと小野に申し出る。もちろん公務なのに手数料など払えるものではないと小野は拒否するが勝手に実行する。さらに悪いことに、大量に購入した私用の書籍代まで、公用の支払いに潜り込ませた。
そして運賃も。小野は私物の運賃は個人払いにするよう指示していた。他の随員はよく理解し会計は皆厳正にやっていた。小野自身ももちろんそうした。けれどもひとり福沢は、購入した私物の書籍を幕府の荷物と一括で渡し公金勘定にしてしまった。
福沢が本来自分で払わねばならない私物購入やその運賃を公金勘定にした額に商人からのコミッションを加えると、つまり横領した額は、なんと一万五千ドルだったと明治になってから正直に告白している。
現在価値換算して1.5億円~2億円といわれる。当時でも艦砲の11インチ・ダールグレン砲二台分の費用を賄える大金だったという。
帰国の乗船直前にこのことを知った小野は、運賃表を船会社から取り寄せて、福沢に自分の荷物の運賃を見積り、戻入れするよう指示。しかし日本に着く際に小野が福沢に確認したところ、運賃表を紛失したなどと言い千ドルを越す運賃を払うつもりがない。
そこで正使・小野と副使の松本は福沢の荷物を神奈川奉行に差し押さえさせた。そして福沢を告発し、自分らも部下取締り不備ということで進退伺いまで出した。当時、小野友五郎は勘定奉行の目付役ともいうべき「勘定吟味役」の職にあったし松本は福使として使節団員の行動に責任があったのでこの時の両人の告発と進退伺いの提出は当然のことであるといわれる。
福沢は7月14日外国奉行より、「其方儀アメリカ行きの御用中不都合の次第あり謹慎申付くる」との命を蒙った。
福沢がこの件で罪を免れたのは、幕府崩壊のためであって、無実が証明されたからではない。どさくさにまぎれて罪を免れてしまったということだ。
それなのに、石河幹明氏が「福沢諭吉伝」で「小野といふ人は頑固な官僚的人物であつたらしく、自分は外国の事情を知らぬ癖に長官風を吹かせるので、(福沢)先生はこれにたまり兼ねて事ごとに衝突するやうになったのである」と一方的に小野を非難している。
明治の新聞界などに福沢の思想の信奉者が多かったので、こうした公金使込みなど不名誉な行状が余り世間や現代に伝えられることがなかったのかもしれない。
そんな事件から117年が経った1984年、福沢諭吉は聖徳太子の後を継ぎ日本の紙幣の代表である一万円札の肖像になっている。
まぁ、日本では100年も経てば大抵のことは時効になってしまうということでしょうかね。
【参考資料】:藤井哲博著「咸臨丸航海長 小野友五郎の生涯 幕末明治のテクノクラート」中公新書
by pac3jp | 2009-02-07 10:51 | 本