「みょうとぶね」と浮鯛抄(うきだいしょう)

 小型貨物船や漁船それにヨットでも夫婦二人だけで乗っているのは「みょうとぶね」と呼ばれている。ボクも短期間の経験はありますが中々良いもんです。「みょうとぶね」がよそのフネと喧嘩しているのも見たことないし、確かに大人しいフネにはなるようです。

 ボクの愛読書、「スピン・ナ・ヤーン」のなかでも自由漁民として西日本一円にその名も高い広島県豊島の「みょうとぶね」が語られている。

 船首にテントなどを張った特徴のある家船(えぶね)で 彼らは単独か、多くて3~4隻の船隊を組んで遠くは五島や壱岐・対馬まで出漁する。漁法は延縄か一本釣で大ぜいで来ることもないから漁場の争いも聞いたことがない。

 一夜の泊まりを求めて見知らぬ漁港へ入っていくと、地元の船の混み合わない、それでいて安全な一隅に「みょうとぶね」が二、三隻ひっそりと泊っている。寄せていって声をかけると、「ああ、 ここはええよ。 ともから錨入れて前の岸壁に鼻付けしたらええ。 うちの船の隣へ来いよ」おおきに、と言っていったん離し、錨をいれフェンダ-を吊るして寄っていく。船頭が綱を取ってくれる。
 このあたりでおかみさんの方も顔を見せて係留を手伝ってくれながら、「あんた、どこからおいでたん? ひとり? さびしいねえ。 とうちゃん、うちアナゴ活けとったやろ、あれ少し、このひとにわけてあげよ」 「ありがたいなぁ、でもあんたら、せっかく釣ってきたんじゃけん、これ少しじゃけど取っといてよ」「いやいや、これは売り物じゃない。 金くれるんじゃったら魚やらん」と、心温まるやりとりがあった・・・。

 著者は「この人たちの暮らしを見ていると、日本の海辺の文化の原点を見る思いがする。そして、もともと私たちはみな、こんなに開放的で人懐こい心情を持っていたのだろうと今更のように思うのだ 」と述べている。(この文章には写真が付いていてボクもその場所で泊ったことがあった)

そんな自由漁民の原点はそう遠くない所にあった。

 その家船(えぶね)の発祥の地が広島県三原市の能地だとされている。芸予諸島・大久野島(毒ガス島)の対岸、今は大きなクレーンご目立つ幸陽ドックがある辺りである。またこの地にはかって、浮鯛現象が見られた。この浮鯛現象は「初夏の大潮の日に、あまりの急潮に浮き袋の調節が出来なくなった鯛が群れをなして海面に浮かび上がってくること」で日本書紀にも記述がある大昔から有名な現象だった。

 古くから瀬戸内海には漂泊の漁民がいた。陸に住居がなく家族が家船で漂泊しながら漁労をし、末子相続で流れ着いた全国の海浜に枝村を増やしてきたという。
 沿岸の漁業権を持たない家船の民は漁業権の及ばない沖合いで漁をし、女たちはその付近の町で売りさばくことで生計を立てていた。魚が捕れなければ死活問題なので、先進漁法の開発者はいつも家船の民だった。そして、そんな新漁法を地元漁民に教えることで共存してきた。

 そんな家船の民が遠くの海で漁をするさい浮鯛抄という巻物を通行証明書として大事にしていたという。この巻物の写しを見せるとどの浦浜でも大目にみてくれて漁ができた。
 それには日本書紀の神功皇后伝説から説き起こし、本拠地の浮鯛話も絡ませ、神功皇后から諸国の浦浜での漁業権を認められ、かつ家船漁民は運上金を出さなくていいなどと彼らの由緒が書いてあるが、十八世紀の浦浜の漁民がこの巻物が読めたかどうかも問題ではあるなぁ。

 ボクは無理ですが、皆さん下の巻物、読めますか?

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 安芸の国豊田郡能地浦浮鯛は神功皇后この所に到ます時鯛魚多く御船の傍に聚しに皇后鯛魚に酒を洒き給へば魚即ち酔て浮ぬ時に海人その魚を獲て献る 
 又皇后岡にあがらせ給ひ東西の野を御覧じて左右のうちよきかな五穀豊穣べしと云ひしその所を号して能地といふ 
 その岡はいま八幡大神宮鎮座まします所といふ皇后この浦にて海神に幣を手向給ひ海へ流し幣の流れ寄りし所を浮幣といふ 
 今その所に浮幣社といふ小祠あり神功皇后と海神とを祭るといふ浮鯛の事は日本書紀巻第八に在り傅いふ
 その時海人浮鯛をすくひ清らかなる器もなかりしにより飯をいるる器に入て男は恐れありと女これを頭にいただきて献ると今に此浦の漁家の女は魚を市に鬻ぐに頭にいただきて歩く
 その魚入るる器を飯○というはその縁なりとその時皇后勅して此浦の海人に永く日本の漁場を許し給ふと夫故世々今に此所の海人は何國にて漁すれども障方なく運上も出す事なしといふ

豊田郡誌より

【参考web】:浮鯛祭り
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by pac3jp | 2009-01-30 15:46 | 歴史・民俗  

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