人気ブログランキング | 話題のタグを見る

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」

先日、神戸・元町の海岸通りに全日海が運営する「戦没した船と海員の資料館」の見学に行った。

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16193201.jpg
日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_18220543.jpg


日本は昭和16年12月8日から米・英・蘭・中など連合国を相手に太平洋戦争を始め、敗戦までの3年9か月に及ぶ長期間、日本近海を始め太平洋や遠くインド洋でも戦いました。陸海軍艦船は勿論ですが、民間の商船も多数徴傭され戦争遂行のために働き、多くの船舶が潜水艦や航空機の攻撃で失われてしまいました。その数、凡そ2800隻、乗員は60,608人が命を失いました。そして、資料館はこれら船舶の在りし日の写真が年度別に分類され展示されている。

パネルには一般の汽船が殆どだが中にはアメリカ海軍の軍艦が獲物にするには小さすぎるだろうと思われる遠洋漁船の写真も入っている。

展示物は写真パネルばかりでなくモデルシップもある。ケースの中に空母らしきモデルがある。

以前の記事「旧陸軍が運航する船艇」にも書いたが陸軍が上陸作戦専用に1934年(昭和3年)建造した「神州丸」の発展型で飛行甲板を持つ揚陸艦「あきつ丸」だ。戦没した商船だけが展示されているので何故と思ったが、解説文に日本海運所属 陸軍特殊貨物船とある。
(陸軍は戦時の際に徴用することを前提として海運会社に補助金を出し、上陸舟艇母船を民間籍の商船として建造させている)

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16201114.jpg


【仕  様】

総トン  :9,433t
全 長  :152m
水線長  :143.8m
全 幅  :19.5m
吃 水  :7.86m
飛行甲板:全長123m
全 幅 :22.5m
機 関  :重油専焼水管缶4基+ギヤード・タービン2基2軸
最大出力:13,000hp
最大速力:21.0kt
乗 員  :
兵 装  :八八式 7.5cm単装高射砲2基(1943年:4基)・三八式 7.5cm野砲10基
      九八式 20mm 単装高射機関砲8基・九六式 25mm単装高射機関砲2基
搭載機  :九七式戦闘機13機・三式指揮連絡機8機・ (輸送任務時には一式戦闘機「隼」等20~30機弱を搭載可能)上陸用舟艇:大発動艇27隻


旧陸軍が上陸作戦用の大型の揚陸艦を開発・保有しようとした背景には、当時の海軍には戦艦・巡洋艦・空母など前方装備の拡充に総力を注ぎ、輸送や船団護衛・上陸支援など地味な艦種の開発をしなかったので必然的に陸軍が受け持つことになったという。
あきつ丸の運用分担は本船の操船は民間の船員が担当し、兵器となる大発動艇や対空火砲は陸軍船舶兵が受け持ち、搭載航空機は陸軍飛行隊が運用したのだろう。

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16260809.jpg


艤装形態が平時・戦時舟艇満載・飛行甲板装備状態と変更できるようになっていたが、竣工は1942年(昭和17)の戦時中なので飛行甲板が設置されていた。

太平洋戦争開戦直後に竣工した「あきつ丸」は早々に蘭印作戦の第16軍ジャワ島上陸戦にて、第2師団のメラク海岸揚陸の任に当たりこれを成功させた。以降「あきつ丸」は南方各地への輸送任務に就いたが、太平洋戦争後期には陸軍版護衛空母の候補となり、1944年(昭和19)飛行甲板の拡幅・甲板後部デリックの撤去・独自開発の着艦制動装置設置等の改装が行われている。

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16202097.jpg


あきつ丸の飛行甲板に駐機する三式指揮連絡機2機(画像は上下ともウイッキペディアより)

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16200537.jpg

三式指揮連絡機(対潜爆雷2個、着艦フック装備)は対潜哨戒能力や離陸距離 49~68m、着陸距離 45~61m(向かい風4m) など123mの飛行甲板でも短距離離着陸性能が良好で低速巡航が可能(Max280㏋で最高速力178km!)なので「あきつ丸」の対潜哨戒用の艦載機に選ばれた。

足が遅いので操縦者はグライダー操縦経験のある特別操縦見習士官第1期出身者にて構成される独立飛行第1中隊が編成され、日本近海で対潜哨戒任務に就くことになった。

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16201676.jpg


輸送船団の中で航行中の「あきつ丸」の雄姿だが ↑ まだ船尾のマストとデリックがあるので改装前の姿だ。
護衛空母に改装された頃の「あきつ丸」の航空写真 ↓ 

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16200338.jpg


【あきつ丸の最後】

1944年(昭和19)11月14日0600
ヒ81船団(僚船9隻、護衛7隻)として部隊要員約2500名を乗せ、伊万里湾発マニラに向け東シナ海を航行中、15日1150頃、N33度05分、E128度38分(五島列島福江・長崎鼻北40㎞付近)において米潜水艦SS-393 QUEENFISHから発射された魚雷を左舷船尾に受け、搭載していた弾薬、爆雷が誘爆し船尾が沈下、その後火災が発生し3分後に横転裏返しとなり沈没した。沈没により部隊要員2093名、船砲隊140名、船員67名が戦死。
部隊要員の中には教育総監関係学校卒業者227名が含まれる。 ↓ 図の赤丸は沈没場所

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16202465.jpg

日本陸軍が運用した強襲揚陸艦の先駆け「あきつ丸」_c0041039_16195997.jpg


米潜水艦SS-393 QUEENFISH ↑

この潜水艦は「あきつ丸」を撃沈した4か月半後の1945年4月1日に、米国も航海の安全を保証し安導券を付与した赤十字の救恤(きゅうじゅつ)運搬船阿波丸を魚雷攻撃し、2000人を越す犠牲者を出した「阿波丸撃沈事件」を起こす。
艦長は「不注意」だったと認めて戦後米国から補償がなされた。


※救恤とは:困っている人を救いめぐむことです。そして、救恤船は敵国から依頼を受け捕虜へ慰問品を届ける船を指します。船体の表示標識は緑地に白十字です。


下記は戦争が終わった時政府が発表した船舶被害の総数です。

官・民一般汽船  3,575隻
機 帆 船     2,070隻
漁    船     1,595隻
合    計     7,240隻


参考web:1.あきつ丸 ウイッキペディア

     :2.戦没した船と海員の資料館


# by pac3jp | 2014-04-29 17:07 | 歴史・民俗  

神戸港に四代目の新しい大成丸が初入港した!

2014年4月23日(水)晴天微風の神戸港に消防艇の歓迎放水や満船飾のタグ「竜王}に迎えられ午前10時、予定通りに新港第一突堤に入港した。

神戸港に四代目の新しい大成丸が初入港した!_c0041039_17191975.jpg

先代と比べると全長で34m短く、総トン数で1897トン少ないので大分小さく思えるるが、幅や深さは余り変わらないのでやや太めに見える。でもこの四世から大成丸の訓練内容が「内航船の船員を育成するため」と大きく変わり、主機はかって大型外航船で使われた蒸気タービンから内航用練習船として、内航貨物船などで一般的な主機の中速ディーゼルエンジンが搭載されている。

総トン数:3,990t
全   長:91.28m
幅    :15.50m
深 さ  :9.0m
機   関:4サイクル中速ディーゼル機関 1基
出   力:4,000/3,000 PS/KW
最大速力:16.2 kt
航海速力:14.5 Kt
竣工年月: 2014年4月1日

建造場所:三井造船玉野事業所
船舶所有者:航海訓練所・東京センチュリーリース(株)
※リース会社が共同所有者になっているが航海訓練所が独立行政法人になったのに関係があるのだろうか。
神戸港に四代目の新しい大成丸が初入港した!_c0041039_17213883.jpg

突堤の先端には歓迎のUW旗が翻っている。以前には余り見なかったがこの頃は流行っているのだろうか。勿論、大成丸のマストにはUW1旗が上がっている。右端の人はUW2旗(入港を歓迎する)を振っている!

神戸港に四代目の新しい大成丸が初入港した!_c0041039_17242666.jpg

岸壁には近くの幼稚園児が大勢見学に来ている。消防音楽隊の歓迎演奏を奏でている。
ギャラリーはさすがにお暇なシルバー世代が多い・・・。
大成丸は神戸港の常連でいつも一突に停泊していた。日本丸や海王丸ほど人気はない様だが、大成丸で訓練航海をしたというヨット乗りに時々出会うこともあった。

神戸港に四代目の新しい大成丸が初入港した!_c0041039_17245164.jpg

ブリッジは殆んどの内航貨物船では船尾寄りにあるのを考慮して船体中央部に配置された。
煙突も先代タービン船が必要だった太い排気管は不要で煙突外観は大きいが、排気が必要な太めの主機用、それに3基の750KW発電機用排気管が3本、それに加えて焼却炉用など6本が収納されているという。

新しいライフボートは66人用が2艇と交通艇、訓練艇がある。この端艇甲板の後部は人工木材が張られた木甲板があり運動にも使えるそうだ。

神戸港に四代目の新しい大成丸が初入港した!_c0041039_17264069.jpg機関室には、4000PSの主機と750KW×3の発電機を搭載している。
主機から減速装置を経て可変ピッチプロペラの組み合わせで中型内航貨物船の平均的な航海速力である15ノットを確保できる。また、750kWの主ディーゼル発電機3基は航海中・停泊中は1基、電力消費の大きい出入港時には2基運転し、船内のあらゆる場所に電力を供給できるし、調理もすべて電気で行う。
 
プロペラは4翼、直径3.50mの可変ピッチプロペラ(CPP)です。プロペラを一定方向に回転させた状態で、翼の角度を変えることにより、前進から後進まで推力を自由に変化させることができる。

シリング舵は従来の舵の2倍の舵角にあたる左右70度まで取ることのできる性能を持った舵です。舵角を70度とすると、船尾を横方向に動かす力が得られるため、バウスラスタを併用すると、船体は横方向に移動することが可能となり、離着岸など微妙な操縦の際に効果的です。(大成丸Webより)
神戸港に四代目の新しい大成丸が初入港した!_c0041039_17271947.jpg

1981年に建造された先代の大成丸の丸い船尾形状と右舷に取り付けられた予備アンカーが帆船時代からの伝統を感じさせるなぁ・・・。

神戸港に四代目の新しい大成丸が初入港した!_c0041039_1727556.jpg

最近の船舶の船尾形状はみんなよく似ている。幅が広く垂直のトランサムに屋根つきの船尾係留ウインチスペースがあり雨天や荒天の作業にも安全だ。その屋根の部分が客船並み?の木甲板になってる。ベンチが設置してあり寛ぐ場所に指定されている。てな事はないですよね。

舫いロープはさすがに真っさらなホーサーだ。擦止めのカバーももう消火ホースの再利用などしない専用のカバーがついている。


【参考Web】 独立行政法人 航海訓練所 大成丸

# by pac3jp | 2014-04-25 18:02 | 特殊船  

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊

天平年間(729~749年)に、僧・行基が一日の行程を測って西から檉生(むろう)、韓、魚住、大輪田、河尻の5つの泊を設けたと伝えられている。その古代の摂播・五泊で魚住泊の西側にあたる韓泊に比定されている姫路市的形町福泊漁港と的形港を訪ねた。
かって、この港の沖から頼山陽が命名したという景勝地「小赤壁」を眺めながら八家川河口の木場YHにはレースやクルージングなどで時々は寄港していたが、西隣の福泊漁港には入ったことはなかった。

平日のお昼頃、静かな港である。的形漁協の前に底引き漁船が4隻と小型漁船が数隻泊まっている。あとはプレジャーボートだろう。フィッシングセンターの駐車場があるので乗合の釣り船は沖に出ているのだろうか。

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊_c0041039_111238100.jpg

古代の韓泊の史料は少ないようだ。「三善清行意見封事十二箇条」に出ている以外は未だない様だ。今後の発掘調査などの結果を待つしかないのかな。

【韓泊】角川日本地名大辞典より

奈良期から見える泊名 播磨国印南【いなみ】郡のうち奈良期に僧行基が摂播(摂津・播磨)五泊の1つに定め、遣唐使なども停泊した。当地には、古くから泊(港)があったと思われる。
延喜14年(914)4月28日の三善清行意見封事十二箇条に「自檉生泊至韓泊一日行、自韓泊至魚住泊一日行」と見える(本朝文粋/群書27)
正応2年9月29日の伏見天皇宣旨案にも韓が見えるが、行基が定めた五泊の1つとして見えるものである(東大寺文書/大日古5)
鎌倉期以降は福泊と見える現在の姫路市的形町福泊付近に比定される。

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊_c0041039_11151342.jpg

福泊港から西方の小赤壁を望む。
古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊_c0041039_11154819.jpg

燈籠地山
沖から見ていると「小赤壁」がある低い岩山は西から木庭山・姫御前山・燈籠地山と並んでいる。木庭山には木庭神杜が鎮座し、姫御前山は、神功皇后が陣を張ったという伝説があり、旧の印南、飾磨郡の郡境に位置する燈籠地山は鎌倉時代、その山頂に安東蓮聖が泊の目印に灯火をともしたことから名付けられたという。
最盛期の頃この泊は昼間の入港の目印は大岩があり、夜は燈籠地山の頂上に明かりがつき、しっかり港の機能を備えていた。福泊神社の前の街道には回漕問屋の倉や屋敷が並び人々が行き交い賑わっていたのだろう。

鎌倉時代の1292年(正応5)ころ,律宗の僧行円房顕尊が〈福泊島勧進〉上人となって,この泊に風浪を防ぐ島の修築事業を進め、往来の船から〈築料〉として艘別200~300文の津料(入港料)を徴集していた。顕尊が1300年(正安2)に入滅した後、その檀那(後援者)であった北条家得宗の要人だった安東蓮聖が事業を引き継ぎ、「大石を積み上げ、数百貫の私財を尽して、二町余(約200m)沖に人工島を築造して、1302年(乾元1)に築港を完成」以後兵庫津に劣らず繁栄したという。 【峯相記】より

一方、安東蓮聖の経歴から見ると律宗の僧は「円房叡尊」と親交を結ぶと出てくる。「叡尊」は慈善活動の為とはいえ権力と癒着し木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、などの記述もみるので峯相記の書き間違いかも知れない。

【参考】安東蓮聖 【あんどう・れんしょう】

生年: 延応1 (1239)
没年: 元徳1 (1329)
鎌倉後期の武士。得宗被官,摂津守護代。弘長2(1262)年,北条時頼の使者として西大寺叡尊のもとに赴く。以後叡尊との親交を結ぶ。文永年間(1264~75),山僧と結託して京都で借上を営み,蓄財に成功。文永10年多田院造営の惣奉行を務め,建治3(1277)年久米田寺の別当職を買得し,律宗寺院として再建,弘安5(1282)年には,叡尊を請じて堂供養を催した。乾元1(1302)年,数百貫の私財を投じて福泊を修築するなど得宗権力を支えるために,流通路支配の最前線で活躍した。 朝日日本歴史人物事典より

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊_c0041039_11194672.jpg

【福泊神社】

福泊神社の御祭神は、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)の四柱で、主神は神功皇后です。福泊にも神功皇后の伝説があり、皇后が西征の際に当地で御陣を止められ、御腰をかけられたと伝えられています。御陣を止められたところを御陣山(燈籠地山)、御腰をかけられた岩は御前岩と名付けられ、この近海を御前の浜と呼ぶようになりました。また皇后は応神天皇を御懐妊されており、当地で御腹帯を召されたことから、この里の名を腹帯里と書いて「ふくとまりの里」と呼ぶようになり、神社を創建し「大帯祠(おほおびのやしろ)」と称したとあります。後に地名は福泊と書くようになり、社名は「福泊大帯社」或いは「弁財天社」といわれるようになり、現在では福泊神社と称しています。「弁財天社」は市杵島姫命を祀っていることに由来します。福泊屋台の狭間彫刻「神功皇后」は、御前岩から皇后が瀬戸内海を見渡し、御座船を迎える場面を彫刻したといわれています。
本殿の建立は明確ではありませんが、建築様式から室町時代中期の建立といわれ、一間社春日造りで現在では当時の様式が残る社殿が殆どなく、大変貴重な建築であることから、平成13年8月23日に姫路市重要文化財に指定されました。拝殿は江戸時代に再建されたといわれ、幾度かの修復を重ね現在に受け継がれています。
的形・湊神社HPより

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊_c0041039_11231215.jpg

大正7年に撮影された福泊神社。境内に松の大木があり、拝殿は現存しているが、屋台の倉は未だない。周りの田畑も今はもうないように見えたが・・・。多分、良寛さんはこの写真とそう変わらない風景のなかで泊まったんでしょうね。

この神社に江戸時代の禅僧良寛が帰郷の途中に境内で野宿し歌を残している。

つぎのひはからつてふところにいたりぬ
     こよひもやどのなければ
おもひきや みちのしばくさ うちしきて
 こよひもおなじ かりねせむとは


(漢字仮名まじり文では)
次の日は韓津てふ所に至りぬ
今宵の宿の無ければ
思ひきや道の芝草うち敷きて今宵も同じ仮寝せむとは 

良寛が帰郷の為に倉敷市玉島の円通寺を旅立つのは、寛政八年(1796年)正月、三十九歳の時のようです。あの有名な良寛さんがまだ若い39歳の冬、ここで一夜を過ごしたことがあるとは驚いた。大昔ではなく19世紀の少し前だった。当時でも福泊は韓津とも呼ばれていた様だ。

古代の摂播五泊・韓泊(からどまり)~福泊_c0041039_11261666.jpg

同じく韓泊の比定地とされる住吉神社がある的形町的形はボクが知っている?昔から奥村ボートさんがあり40年の歴史を持つ的形YCのヨット泊地として有名だったので海からも陸からも訪れたことはある。今もこの河口は沢山のヨットが繋がれいいヨットハーバーになっている。

参考文書:はりま伝説 夢物語 「燈龍山の火と福泊」 神戸新聞社

# by pac3jp | 2014-03-30 11:57 | 歴史・民俗  

神戸港にクイーン・エリザベス号が来た!

神戸港に新しいQEが初寄港するので船内見学を希望する方は葉書で応募してくださいと地元新聞に出ていたのでダメもとで応募したが、かなりの競争率になりやっぱり当選しなかった。そして、すっかり入港日も忘れていた3/19の入港当日、周囲からQEの話題が出て突然に思い出した。

お天気も良いので4突ポートターミナルに接岸した豪華客船クイーン・エリザベス号の見物に午後遅くバイクで出撃する。しかし、ポートターミナル付近は見物客も多く以前に駐輪していた場所はどこも警備が厳しく、ガードマンがいて入れない。対岸のポートアイランド北公園から見ようと神戸大橋を渡り何時もの公園に行くとなんと、神戸水上警察署がここに新築移転してきていてパトカーがスピーカーと赤色灯で集まってくる見物目的の車を牽制している。なんとか船尾側の写真をとる。その後、全景を撮りたいので東側の6突に移動する。

神戸港にクイーン・エリザベス号が来た!_c0041039_17195841.jpg


全景 進水してまだ4年ぐらいなのでまだまだ綺麗な船だ。横幅が広くボリュームがあるが クイーン・エリザベス2と比べるとあの一本煙突とバウデッキの狭さが気になる。この三代目は初代と二代目の高速オーシャン・ライナーではなく米カーニバル・コーポレーションの共通デザインである「ヴィスタ級」のクルーズ客船でクイーン・ヴィクトリア号などの姉妹船がある。最大速力は23.7ktで航海速力は22㏏で普通の速力だね。

神戸港にクイーン・エリザベス号が来た!_c0041039_17224082.jpg

神戸港にクイーン・エリザベス号が来た!_c0041039_1723828.jpg


巨大なスターン。ボートデッキのスターンには5つ船室が並んでいるのが見える。

神戸港にクイーン・エリザベス号が来た!_c0041039_17244618.jpg


ファンネル ファンネルの赤に黒の細いラインがキューナード社のシンボルマークかな。でもこの写真を見れば煙突の先に何やらごちゃごちゃパイプが10本以上も林立しているように見えます。確かに6基もエンジンが搭載されているし、ボイラーやゴミの焼却炉・各種排気のパイプもあるのでしょうか。

神戸港にクイーン・エリザベス号が来た!_c0041039_17271822.jpg


アジポッド 推進システムはディーゼルエンジンで発電して→推進は電動のアジポッドがついているのだろう。姉妹船のクイーン・ヴィクトリアには2基の 16.7 MW アジポッド推進器が装備されている。
参考画像はMackinaw WLBB-30 Azipod 3.3 MW Azipod

クイーン・エリザベス号は19日深夜、神戸港を出港し長崎へと向かった。1月~5月までアジアやヨーロッパ各国を巡り世界を一周する。神戸港からも約150人が乗り込んだという。

クイーン・エリザベス号 概要 (ウィキペディアより)
イタリアのフィンカンティエリ社のモンファルコーネ造船所で建造され、2010年に竣工された。姉妹船のクイーン・ヴィクトリアに比べ、公室アレンジの違いなどにより90,400総tとヴィクトリアより400総tほど大きい。キュナード社がカーニバル・コーポレーションの子会社となった関係で、クイーン・ヴィクトリアの他にホランド・アメリカ・ラインに2隻、コスタ・クルーズに2隻の準姉妹船が就役あるいは建造中である。2092人を収容でき、全長は294mでキュナード社が建造した船舶の中ではクイーン・メリー2、初代クイーン・エリザベス、クイーン・メリーに次いで4番目に長く、クイーン・ヴィクトリアと同じ全長である。内装は初代クイーンエリザベスの就航した1930年代のアール・デコを基調としている。デッキは12層で客室は全部で1029室あり、そのうちの838室は海側の客室(オーシャンビュー)である。

エンジンはキャタピラ社の子会社のMak製で4基のMak 12 M 43 Cと2基のMAK 8 M 43 Cが搭載され、出力は64MWである。最高速力は23.7kt、航海速力22ktの計画であり、先代・先々代のような高速のオーシャン・ライナーとしての機能は有していない。クイーン・エリザベスの就航により、キュナード社はクイーン・エリザベス2の引退以来、再び3隻のクイーンが就航する。船名にクイーン・エリザベスの名を用いることは女王の許可を得た。

船歴
船籍:イギリス ハミルトン
所有:カーニバル・コーポレーション
運航:キュナード・ライン
進水: 2010年1月5日
命名: 2010年10月11日
処女航海:2010年10月12日

性能諸元
総トン数:90,400トン
排水量:76,000トン ※姉妹船のQVの数値です
全長: 294m(964.5ft)
全幅: 32.3m(106ft)
全高: 62,5m
喫水:8m(26ft)
機関:4×MaK社製 12M43C ディーゼル
    2×MaK 8M43C ディーゼル 63.4 MW (86,224HP)
推進器: アジポッド
速力: 約23.7ノット
定員: 乗客2,092名

# by pac3jp | 2014-03-21 17:54 | ウオッチング  

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)

大阪湾や播磨灘で小舟に乗って長い間楽しんできたが明石エリアの漁港には浅い、狭い、混雑しているなどで明石港以外はあまり入った事がなかった。しかし、長い歴史をもった港もある。

室町時代に東大寺が兵庫津で関銭を徴収した記録「兵庫北関入船納帖」に、明石市内の港は中庄・船上・林・松江・営嶋・伊保角・二見などが記録されている。営嶋は古代に「魚住泊」と呼ばれた赤根川河口の江井島のことだろう。

魚住泊の推定地である江井島港に「泊」と刻まれた大きなモニュメントが立っている。

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_1381273.jpg

往きめぐり 見とも飽めや 名寸隅(なきすみ)の 船瀬の浜に しきる白波     笠金村

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_139833.jpg

【 摂播五泊 】とは? 天平年間(729~749)に、僧・行基が一日の行程を測って西から檉生(むろう)、韓、魚住、大輪田、河尻の5つの泊を設けたと伝えられています。

檉生泊   - たつの市御津町
韓泊(福泊)- 姫路市的形町
魚住泊   - 明石市大久保町
大輪田泊  - 神戸市兵庫区
河尻泊   - 尼崎市神崎町

その距離は檉生と韓泊間が22km、韓泊と魚住泊間が21km、魚住泊と大輪田泊間が30km、大輪田泊と河尻泊間が22kmとなっており、魚住泊と大輪田泊との間が他より長くなっています。
これは、その間には潮の流れが速い幅約4kmの明石海峡が存在することによるものと考えられています。
この明石海峡は1曰2回,潮流の向きが変化します。そこで、東行する船は東流時を選び,西行する船は西流時を選ぶため、それぞれの港が潮待ちのための重要な港であったことがわかります。

魚住泊の位置については明石市魚住町の瀬戸川河口説と同じく大久保町の赤根川河口説とがあり、いまだ確定はしていません。ただ、大久保町江井島の赤根川河口には延命寺・長楽寺・定善寺など行基開基の伝承をもつ寺院が存在していることなどから、赤根川河口に求める説が有力です。

この港は、832 (天長9)年に清原夏野が修築を建言し、さらに、867 (貞親9)年には元興寺僧賢和が改修を願い出ています。そして、914 年には三善清行が「意見封事十二箇条」の中で、魚住泊の修復を請願しています。その中で,「…此の泊天平年中建する所なり。其後延暦の末に至る五十余年,人其の便を得る。弘仁の代,風浪侵齧し、石頽れ沙漂う」とあり、海岸浸食により荒廃していた様子がよみとれます。

その後は管理されず放置されたために、航行する船の多くが沈み、人命まで損失ことがあったようです。そこで、1196 (建久7)年、大輪田泊とともにこの魚住泊の石椋(いしぐら)工事の奏上を太政官に提出し、その願いは聞きとげられました。当時、重源は東大寺の再建のあたり、大勧進になっており西国からの建築資材を連ぶには、西国からの建設資材を運ぶには明石海峡を安全に通過させる必要があったために海峡をはさんだ両港のの整備を図ったものと考えられています。

重源の修築以降、建保年間(1213~1219年)重聖上人による修築が行われ、1289 (正応2)年に性海上人の奏上によって修築が行われた記録が残されています。この正応2年の修築以来、改修の記録は1888(明治21)年まで途絶えています。

戦国時代には織田信長の三木城攻めに際し、安芸の毛利氏から籠城中の別所氏に届ける兵糧がこの港で陸揚げされ、近くの魚住城に運び込まれ織田勢の動向を見ながら三木城に送られたのだろう。

画像は現在の江井島港ですが、航空写真が古く今は岸壁には漁船が一杯で外来船が着ける場所はないように見えます。赤丸が石椋が出た場所です。

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_13102074.jpg

1986年の赤根川浚渫工事で引き揚げられた多くの加工されまだ皮まで付いた松の丸太。当時この木を見た材木商は日向松だと言ったそうです。

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_13111213.jpg

これらのことから引き揚げられた木は、井桁状に組み合わせ、その上に河原石を置いて沈め、波堤の基礎としたものであると推定されます。この木組みは東方向へ延びていたものと考えられ、赤根川河口から東へ250 mの位置にある江井島漁業協同組合事務所の南の護岸工事の際にも発見されています。下の画像は井桁の模型とその下は海底に埋まっていた松材と石です。

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_1313105.jpg

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_1313393.jpg

江戸時代の地誌『播州名所巡覧図絵』に江井島は「旧は嶋にて、釋の行基の築く所なり。故に嶋といふ。地中、今も石木など残れり。」とあります。このことから江戸時代において、すでに、港に基礎となる石や材の存在が認識されていたことと、この港の築造が行基にさかのぼることが伝承とし残されてていたことがわかります。

江井島水利組合には,江戸時代の天明年間(1781~I788)に描かれた絵図が残されています。こには、赤根川の川筋は蛇行しつつ河口へ至り、河口付近で大きく東へその流路を変えて表現されています。この河道の南が東西方向に延びる突堤状の島になっていることから、人工的に設けらた船入りのための港であったと推測することができます。また、この絵図には、島の突端部に石積状の堤防が描かれ、「波門」の表記が認められます。地元ではこれを「しようにんさんのはと」とよんでおり、潮が引くと築堤に使ったとされる石が多数見つかり、その中でも大きな石を「馬石」とよんでいたといいます。

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_13143415.jpg

絵図と伝承を合わせて1957年、まだ港が拡張されてない頃の地図にボクが「魚住泊」の場所を書き込んでみたら、赤根川は東に流れ、島になっている部分の赤根川河口の石椋出土場所から漁協前の松材出土の間にオレンジラインの波堤があった。今でも漁協の北側に昔は水路だったと思うような船溜まりもあるし・・・。

古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_13152227.jpg

石椋の松材が発見されてから28年も経つのに何故今までC14年代測定法で確認しなかったのかとずっと不思議に思っていたが、当時学習院大学に依頼したC14年代測定法では<1380+-110 A.D.570>6~7世紀と報告されているので文献の10世紀には合致しなかったのだ。

今回の「明石の古代展」に合わせて?最新の測定機材で再鑑定されたのだろう。
1986 (昭和61)年に赤根川河口から引き揚げられた木は、2013 (平成25)年に炭素14の年代測定を工藤雄一郎さん(国立歴史民俗博物館)がおこなって研究した結果、10世紀初頭の年代が与えられ、文献に見る魚住泊に関する材であったことが確かめられました。

地元の神戸新聞に2013/11/9付けで「明石・魚住泊 赤根川河口付近 位置ほぼ特定」と報道されていた。
古代の摂播五泊・魚住泊(うおずみのとまり)_c0041039_142105.jpg


参考図書:「明石の古代」発掘された明石の歴史展 図録
  同 :古代の「海の道」石野博信編
  同 :中尾のすがた むかし・いま 黒田義隆

# by pac3jp | 2014-03-16 13:54 | 歴史・民俗